久石譲を語ってみたいと・・・

  • 2016.10.28 Friday
  • 17:33

一人の夜、youtubeで ”ジブリ、チェロ” と検索したら検索コンテンツの中に「久石譲 in 武道館」が出てきた。2008年に公演されたものだがその内容は圧倒的だった。元来ジブリ好きなので久石譲氏の作品はサウンドトラックでお馴染みである。しかし、改めてコンサートとして演奏された楽曲は新たに再生したものに感じらるほど感動的だった。

 

 

しばらくして、「NHKワールドTV」の久石譲氏を紹介する番組でも同じコンサート画像が流れていた。久石氏は1950年生まれなので三歳下になるが、まあほぼ同世代と言っても差し支えない?かもしれない。じぶんにとって、『風の谷のナウシカ』がジブリ(宮崎駿氏)、そして久石譲氏との出合いの場となった。『風の谷のナウシカ』は1984年の作品というから32年前になる。久石氏は34歳、じぶんも37歳だったわけだ。う〜ん、若い!!。

 

「NHKワールドTV」のインタビューで久石氏が語っていた言葉が耳に残る。

「宮崎駿作品の仕事は四年に一回のオリンピックに挑戦する選手のような気分だった」  

「自分は全くドメスティックに深く掘るスタイルで仕事をしてきた。それが今、外国でコンサートやっても大勢の人たちが聴きにくてくれる。結果がインターナショナルだっだんですね」

 

近頃は常にグローバル、グローバルと叫ぶ声が大きく、ドメスティックがマイナス・イメージに固定されてしまった感がある。しかし久石氏の実績と言葉を思うと、果たしてそうなのかと考え直してもよいのではないだろうかと思う。

 

ウィキペディアによると、

「グローバル」と「インターナショナル」、「グローバリゼーション」と「インターナショナリゼーション(国際化)」という語は、意味する範囲が異なる。「インターナショナリゼーション」は「国家間」で生じる現象であるのに対して、「グローバリゼーション」は「地球規模」で生じるものであり、国境の存在の有無という点で区別される、とある。(「グローバリゼーション」→wikipedia

 

上記解釈によるとすると、今騒がれているグローバリゼーション(グローバル化)の意味がなおさら分からなくなる。経済も文化も国境が無い地球規模で存在することを目指す、というのは分かるようで終に分からない。もしこの具体的な実例が、 タックス・ヘイヴンの地に本社を置くというようなことだとすると、これはもう何とも次元の低い思想だと考えるのは間違いだろうか。

 

ガラパゴスということも叫ばれた。これもマイナス・イメージで使われる。しかし、これも過大に批判しすぎると元の木阿弥になりかねない。そもそも、現実にグローバルなものは天気など自然現象であって、社会的なものはドメスティックが基本ではないのか?。そして、強くグローバルを叫ぶのは何か魂胆があってのことではないのかと疑ってしまう。

 

これからも、コンポーザー・久石譲にはますます深く掘り下げて欲しいものだと思う。この地も深く堀抜けばアースを突き抜けてユニバーサルに至るのである。

アニメとファンタジー

  • 2016.10.03 Monday
  • 21:20

映画『君の名は。』を観てきた。8月に封切りになって好評判だというのは聞いていたのだが、我ら世代は「君の名は」と聞くと50年代の菊田一夫のラジオ番組を思い起こしてしまい、どんな作品?、ヒロインは誰?とか思いはしたが、特にストーリーに興味は覚えなかった。しかし、後で新海誠監督のアニメ作品と知り気になりだした。

 

新海監督(wikipedia)は、いつだったかネットでアニメ『星を追うこども』を見たときに知った。それははジブリ作品(宮崎駿)の影響を強く感じるアニメ作品だった。しかし、それはアニメ監督・宮崎駿へのリスペクトの故だと想い、じぶんには好印象がのこった。

 

http://www.kiminona.com/index.html

 

平日だったので入りは五割程度だったろうか。驚いたのはシニア世代と思われる人たちが多かったことである。暇?ということもあるかもししれないが、まさか「君の名は」を勘違いした?ということはないだろう。じぶんもシクスティズ最後の年を生きる充分すぎるシニアなのだが、もともとアニメ好きという言い訳?がたつ。しかし、御同輩たちの動機がちょっと気にかかる。

 

ラストに向けてのシーンは、感性が鈍ってきているじぶんにも、評価通り確かにちょっとジーンとくる。高校生ぐらいの若い世代ならより感動的なシーンとして捉えられるのかもしれない。全体的に印象的なのは、これも評判通りなのだが背景画がリアルで(と言っていいのか、ちょっと戸惑いを感じるが)綺麗なのである。これは監督の拘り(作風)であるらしい。街も自然も活き活きと描かれている。

 

メインのストーリーだが、やはりSFファンタジーだろうと思っていた。地方の女子高生(三葉)と東京の男子高校生(瀧)の人格が入替わるというはなし。人格入替わりのはなしは前にもどっかで聞いたことがある。今、現在のこの国の社会が舞台となっており、二人の今風高校生のごくごく当たり前の生活がコミカルに描かれていく。

 

この生活が、ある彗星の接近を境に徐々にクライマックスに向けて大きく変化を遂げる。二人が自分たちの入れ替わりが夢ではなく現実であることを悟ってから、しばらくして、入れ替わりが止まる。このことが気になりだした瀧は入れ替わったときの記憶を頼りに三葉を探す旅に出る。そして、驚愕の事実に直面することになる。

 

三葉の故郷の町は3年前の彗星の直撃を受けて町が全滅?していたのである。この辺りから物語の時間軸の変化が激しくなり爺の頭では付いていくのが困難になった。しかし、はなしが二転三転して結局、町の人々のほとんどは助かったという世界に戻る。これはパラレルワールドのはなしだろうか?、と取り敢えずじぶんを納得させる。

 

この解釈は監督の構想とは別モノかもしれないが、今のじぶんにはそれほど重要ではない。むしろ、前述したようにこれは本当にSFファンタジーなのかと疑い始めている。映画の始まりに、彗星が割れて光の塊が地上に落下していく映像がある。後半に、これが三葉の故郷の町を直撃する彗星だと判明するのだが、この衝突のシーンがとても恐ろしく感じられたのである。

 

じぶんにとってファンタジーとは、どんなに啓蒙的な内容であったとしても、初めからフィクションだという前提がある。子どもの絵本のようなものである。しかし、この作品は背景、生活の描写があまりにもリアルで、今じぶんの身の回りで実際に起きている現実だと感じさせるような気力を持っている。しかし、どんなにリアリティがあったとしても、人格の入替わりとかタイム・トリップのストーリーが挿入された途端にSF化するというのが一般的な考えだろう。

 

現代の最先端の粒子力学の世界はほとんど「不思議の国アリス」ワールドである。粒子力学の緒仮説を証明するための実験施設を考えてみればいい。 欧州合同原子核研究機構(CERN)の円形の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)は山手線がそのまま地下に埋められたような規模の施設である。陽子を光の速度近くまで加速して衝突させて、そのエネルギーで宇宙創世期の頃の時空を一瞬出現させ、誕生・消滅する素粒子を追うという実験である。

 

 

その世界と、本作品の入替わり・タイム・トリップの世界はどれほどの違いがあるのだろうか。じぶんには同じようなものではないかと思えてしまう。じぶんの頭はファンタジーと捉えようとしたが、身体は別のことを感じていたという表現もできる。この映画を見終えた時、妙に身体が緊張していて疲れの気分が残ったことを思い出す。

 

新海誠監督、そして『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』の細田守監督は才能あるアニメ作家・監督だと思う。宮崎駿監督のアニメ作品を楽しみにしてきたじぶんにとって、これから期待を寄せるアーティストである。そう言えば、両監督とも今のリアル社会を物語のベースにしている作品が多い。それ故にファンタジーとは必ずしも親和性があるとは言い難い面があるのかもしれない。

 

しかし、現実の世界情勢を見ると、怪しげな雲が広がりつつあるような状況が感じられて不安に思うことが増してきている。こんな状況だからこそ、『君の名は。』のような作品を問うことに意味があるのかもしれないとも思う。正直言うと、じぶんにはあの彗星衝突の映像が原爆投下の映像とダブって見えてしまったのである。

 

それでも両監督には、いつか、老いも若きも男も女もどっぷりファンタジーの世界に浸れるような作品を期待します!!

ロックサウンドの魔力!!

  • 2016.05.10 Tuesday
  • 10:46
昨夜、youtubeで今話題のアイドルグループ?であるBABYMETAL(wikipedia)を覗いた。heavymetalと日本のアイドルグループとのコラボと言ってしまえばそうなのだが、何とも不思議なテーストのグループである。ハードなロックのサウンドとアイドル系女子の声、本来はミスマッチなのだが舞台作り・映像制作と相まってファンタジーっぽいショーになっている。



何本目かの映像でBABYMETALとX−JAPANと共演のものがあり、こんなプロデュースもあるのかと注目した。じぶんは人生の中でロックど真ん中の音楽とはほとんど無縁で生きてきた。しかし、いろんな日本のロックグループの中では、コンサートに行ったりCDを買ったりしたことはないが、X−JAPANの持っている音楽性は好きだった。

関心が X−JAPAN に移り X JAPAN World Tour, Live in Tokyo 2009.5.3 を見つけた。

 

視聴している間にどんどん惹きつけられていった。ビデオは4時間あったので初めっから全部は無理と思っていたが深夜までに半分を視聴した。夜中にひとりX−JAPANを観ているジイさんというのも異様に映るだろうが、6月でシクスティナインを迎えるじぶんの中にまだこんなパフォーマンスに惹かれる部分が残されていることに気づいて自分自身で本当に驚いた。

XJAPAN若い頃はモダンジャズ・クラブ、コンサートに出かけたものだがロックコンサートの雰囲気というものを味わったことがない。どちらにしても、コンサート空間は非日常性を作り出すための装置であり仕掛けであると言える。

マイAVシステム?はノートPCをHDMIでTVにつなぎTVの音響を利用している。じぶんの位置からはこんな感じに手元にPC画面、奥にTV画面が見える。狙ったわけではないのだが非日常的空間?を醸し出してくれる。

これも一役買っているのかもしれないが、昨夜は X JAPAN World Tour, Live in Tokyo 2009.5.3 の映像と音にしばし酔った。愉しく刺激的な映像作品だった。 ももいろクローバーZ に嵌っているいい歳のオジさんたちがいると聞く。じぶんもちょっと BABYMETAL のチェックを続けてみようかな(?)。若返りを期待はしないが、人生の下り坂を降りるための足腰を支えるビタミン剤にはなってくれるかもしれない。

タモリと戦後ニッポン、と私

  • 2016.02.29 Monday
  • 20:34
近藤正高著『タモリと戦後日本』(講談社)

武田鉄矢「今朝の三枚おろし」で取り上げられていた本で、面白そうだったので近藤正高著『タモリと戦後ニッポン』買って読んでみた。とても興味深く懐かしい感じがする内容の本だった。タモリは1945年生まれで、じぶんは1947年生まれ、同じ戦争を知らない子どもたちの世代だ。著者は、終戦の一週間後に生まれたタモリに戦後日本を重ね、戦後日本の文化の一面をえがこうとしている(と思う)。しかし、じぶんは今まで知らなかったタモリの側面に強く惹かれた。

以前からある程度の認識があったことだが、本書を通して、じぶんが、青春時代の一時期に、タモリの足跡に近いところをウロウロしていた頃があったことを改めて認識した。じぶんは、タモリこと森田一義氏の芸能界デビューに、ジャズピアニスト山下洋輔氏が強く関わっていたこと、そしてそれに関わる逸話も知っている。しかし、今回、本書によってその詳細とニュアンスの異なる幾つかのストーリーが存在することも初めて知った。

その逸話とは、1972年公演のため福岡を訪れていた山下洋輔トリオが、公演後にホテルで飲んで大騒ぎしていたところに、突如一人の男(実はタモリ)が現れて、フジ製の椅子(かゴミ箱)をかぶって踊っていた中村誠一(サックス奏者)に近より、彼の頭からかぶり物を奪い取り自ら被って踊り出し、明け方まで中村誠一とデタラメ外国語の応酬をしたという話だ。あまりの面白さに、山下洋輔がベッドから転げ落ちたというオチがつく。

早稲田大学に入学したタモリはモダンジャズ研究会に入る。初めは演奏者を目指していたらしいが、実力的に無理と断念し、後にマネージャー兼司会に転向する。しかし、これがはまり役で大活躍?の大学生活となる。この当たりから既に ” 奇人ブリ ” を発揮していたらしい。タモリがモダンジャズ研究会で活躍していたころ、じぶんはエンジニアを目指して都立の工科系短大に居た。タモリは高校時代にジャズに目覚めたらしいが、自分は上京してからモダンジャズという音楽を知った。友人がバイトをしていた赤羽の喫茶店でコルトレーンなどを聞いたのが最初だった。

タモリは、4年の大学生活の後、授業料未納で大学を除籍となり福岡に戻ることになる。タモリが失意?の中故郷に帰るころ、じぶんは諸事情?によりエンジニアを諦めて就職し、最初の職場がボーリング場だった。奇しくも、タモリも福岡に戻ってから、ある時期、ボーリング場の支配人などもやっていたらしい。ボーリングの最盛期に、タモリもじぶんもボーリング場で働いていたことを思うと不思議な感じがした。そして、じぶんが新宿のジャズ喫茶にマメに通っていたのもこの頃なのである。

本書の中にも、タモリが出入りしていた新宿のジャズ喫茶「DIG」とか「ポニー」等が記載されているが、じぶんも2年ぐらいのタイムラグがあるが、これらのジャズ喫茶に出入りしていた。タモリは、喋らずに静かに聞いていなければならない「DIG」よりも、下品な?「ポニー」の方が好きだったらしい、と本書に記されている。確かに、「DIG」の客は大音響で流されるモダンジャズのサウンドにひれ伏しているような感があったが、「ポニー」の方は普通の喫茶店に近い雰囲気だった。

タモリは、福岡に戻ってから、72年に山下洋輔と劇的な出合いをして、それが縁となりラジオ、テレビで大活躍するようになるのである。じぶんが、新宿の「ピットイン」で山下洋輔トリオを聞きに行くようになった頃は、テナーサックスの中村誠一がアルトサックスの坂田明に替ってからである。坂田明の加入が72年末らしいので、おそらく73年以降なのだろう。じぶんも既に25歳になっている。じぶんの記憶では、もう少し若い頃だったのではないかという気がしていた。

じぶんと山下洋輔との出合いは、タモリと山下洋輔が出合った時期と重なる。もっとも、出合いと言っても、じぶんのは山下洋輔トリオ・アルバムとの出合いである。山下洋輔トリオの生の前にアルバム『木喰』『ミナのセカンドテーマ』に出合っている。タモリの芸能界デビューには山下洋輔だではなく、様々な著名な文化人、業界人らが関わっていたことが本書に詳しく記されている。そして、そのステージとなったのが新宿のスナック「ジャックのマメの木」である。これらは山下洋輔の広い交友関係と、当時の新宿が日本のサブカルチャーのコアの一つであったことの証である。

そんな文化人の中のひとりにSF作家 筒井康隆がいる。 筒井康隆と山下洋輔とは互いに各々の作品のファンであることは周知のことだが、じぶんも同じ頃に両名の作品に出合っているのである。ただ、今となっては、どちらが先だったのかは曖昧である。筒井康隆に触発されて山下洋輔に向ったのか、山下洋輔に触発されて筒井康隆に行ったのか。しかし、筒井康隆の作品はフリージャズのようにハチャメチャで、山下洋輔トリオは筒井康隆SFのようにクレージーだった。

タモリはTV画面から知るのみだった。コメディ好きのじぶんは、やはりその特異な芸風がとても面白いと思った。スタジオアルタから「笑っていいとも!」 が始まると、タモリという名前は全国区になっていく。縁は異なもので、タモリも通ったジャズ喫茶「DIG」はスタジオアルタの裏手にあった。また、おそらくタモリも利用したと想像するが、安くて旨いロールキャベツが売りだった「アカシア」は、「笑っていいとも!」 が始まってからは若手お笑い芸人たちが立ち寄るレストランになったらしい。

この頃になると、じぶんも妻子持ちとなり郊外に住居を構え、新宿界隈は縁遠いものになっていた。同時に、ジャズからも自然と離れていく生活になってなっていく。それでも、出先の施設や店で軽快なジャズがBGMで流れているところに出くわすと、その心地良さにしばし耳を傾けることがあった。しかし、還暦を過ぎてiPodを手に入れてから、また音楽が身近な存在になってきた。そして、3年ほど前iPhoneに替えてからは、ジャズもクラシックもなお一層お手軽なものになった。

「笑っていいとも!」 が終わったとは言え、タモリはリタイアしたわけではない。さらに、ジャズピアニスト山下洋輔はまだまだ現役ど真ん中という感じだ。しかしながら、サラリーマンのような定年はないにしても、タモリも大きな人生の転換期にいることは確かだろう。彼がボーリング場(大分県日田市)の仕事をしていたときに、休みを利用してクルマで一時間ほどの集落に出かけ寺院などの探訪をしていたということなので、若いころから歴史に関心があったのだろう。今も歴史探訪的番組を静かに継続しているが、趣味と実益を兼ねた仕事と言えるのかもしれない。

さて、本書でじぶんが一番に興味を持ったのは、なぜタモリはジャズに惹かれ、山下洋輔に惹かれたのか、あるいは山下がタモリに惹かれたのかということである。タモリは早稲田大学文学部哲学科に入学している。

 高校の倫理社会で、何か偉そうなことをこいとるやつがいるなと。ぼくは能書きが大好きだから、これはこれは能書きばっかりことる学問があるぞ、これはいいなと。何を言っとるのかわからないがと、何だろうこいつはと、ムラムラッとのめりこみたくなるんですね。(PLAYBOY日本版編集部編『プレイボーイ・インタビュー セレクテッド』)

 ぼくが音楽を好きだというのは、意味がないから好きなんですね。(「ほぼ日刊イトイ新聞」)

 今でも、沖縄放送の公開番組とか、コスタリカのDJとか、まったく最初から何だかわかんねぇと、音の響きだけ聞いてるほうが、ぼくはものすごく気持ちがいいし、飽きずに聞いてられるんです。意味が入ってくると、とたんにもうつまらなくなる。(『プレイボーイ・インタビュー セレクテッド』)

本書に紹介されているタモリ本人の弁明はとても興味深い。なぜなら、じぶんが今一番知的な興味をそそられるのが言語体系だからだ。そう言えば、タモリの持ちネタは「四カ国語麻雀」、「ハナモゲラ語」など言葉に関する芸が多い。意味のない言葉はまさに音楽である。モダンジャズ、特に山下洋輔等がやっていたフリージャズなどは音の響きだけが意味を持つコミュニケーション空間である。

タモリは数学は嫌いだったと語っているが、哲学のような能書きは好きだったと言うのだから、根っこでは繋がっているのではないかと、じぶんは思う。じぶんは、若いころから数学、物理などの論理系に興味があった。しかし、そんなじぶんが、なぜモダンジャズ、特に山下洋輔のフリースタイルに惹かれたのか。当時は意識もしなかったが、「音楽の世界とは、クラシックのようなキッチリとデザインされたものと、ジャズのようにカオスを内包したモノの双方で構成されているのではないか」と内心感じていたのかもしれない。

筒井康隆のSF作品もそうだ。筒井康隆は、正気を保っていなければ狂気は書けない、と語っていたように記憶している。ハチャメチャな物語もクレージーな演奏も見た目より難しい。じぶんは当時からそう思っていた。タモリの偽外国語の芸もそうだろう。ベースに哲学(能書き)を語るタモリがいるのである。言葉の意味って何だろう。何でもかんでも言葉(母国語)に翻訳しようとするのは、もしかして間違いではないか。今、そんな想いに捕らわれている。

タモリとは「日本の戦後」そのものだった。著者は、戦後日本の文化を支えた下部構造であるサブカルチャーの象徴としてタモリを捉え、戦後日本を語ろうとしたのだと思う。さりながら、じぶんは、老年期のじぶんと青年期のじぶんが繋がった存在であることを再確認するための情報ネタとして、本書を読んでしまった。
 


タモリタモリと戦後日本

講談社(
amazon



著者 近藤正高

1976年愛知県生まれ。ライター。サブカルチャー紙「クイック・ジャパン」の編集アシスタントを経て1997年よりフリーランス。「ユリイカ」「週刊アスキー」「ビジネスニュース」「エキサイトレビュー」など雑誌やウェブへの執筆多数。著書に『私鉄探検』、『新幹線と日本の半世紀』。現在、ウェブサイト「cakes」にてコラム「一故人」を連載中。

 

デビット・ボウイ逝く

  • 2016.01.16 Saturday
  • 21:18
 デビット・ボウイ死去のニュースが流れた。著名なミュージシャンであることは承知していたが、じぶんと同世代(69歳)であることを初めて知った。映画「戦場のメリークリスマス」ぐらいは認識しているが、彼の楽曲はほとんど分からない。しかし、同世代であることが気になって、ネットで検索してみた。

テビット・ボウイ作品のスタイルとしては、様々なジャンルに挑戦しており、ウィキペディアにもマルチ・ミュージシャンと記されている。

じぶんが青年期に集中的に聴いたのはモダンジャズだった。いわゆるロックスタイルの作品には、この歳まであまり縁がない。団塊世代で田舎育ちのじぶんには馴染まなかったのだろうか。

改めて、どうしてなのだろうと思う。ただ、今、じぶんの個性にちょっとロックのテイストがあったなら・・・などと思ったりする。そして、じぶんの人生がどんな風に変わっていただろうかなどと思いが廻る。

良い悪いではなく、じぶんに理解出来ない作品というものがある。以前から感じているものに尾崎豊の「卒業」(Uta-Net)という歌がある。この歌詞がほとんど理解出来ない。尾崎豊は1965年生まれと言うから、じぶんと比べ18歳も若い。

この歌は中高生の頃を歌ったものと思われる。とすれば、該当するのは1980年代初頭、日本が順調に経済成長を遂げていた時期ではないか。中高生の頃は、心の成長の早い者が体制に過敏に反応したりすることも分からないではない。しかし、この時代の中学・高校という組織が、この歌詞にあるように、こんなに若者にとって窮屈なものであったのかということが理解できないのである。

そういう意味で考えると、まだロック・スピリットの方にシンパシーを覚える。しかも、ロックンローラーの方は古希になってもまだ現役たろうとするわけで・・・。おそらく尾崎のメンタリティはそこまで持たないだろう。尾崎にもロックテイストがあったら良かったのかもしれない。

ボウイ死去のニュースからこんな話になってしまった。
シェキナベイベー(“Shake it up Baby”)!!

映画「スター・ウォーズ」のリアリティ

  • 2015.12.06 Sunday
  • 23:50
 映画「スター・ウォーズ」が復活する。12月18日に全国一斉に『スター・ウォーズ/フォースの覚醒 』が公開となる。ずっと話題になっていたので注目していた。特別に熱いファンではないのだが過去の作品は全て観ている。今回はディズニーが製作することでも注目だ。

STAR WARSさて、じぶんがどうしてこの作品の復活に惹かれるのか判然としない。何故か混沌とし始めたこの世界に関係しているのではないかという感覚はある。歴史は繰り返すというが、かつての帝国主義が甦ってきたのかと思わせる世界情勢と「スター・ウォーズ」のストーリーがダブる。

ジェダイのフォースの力でコントロールされていた銀河共和国が腐敗により弱体化し、フォースの暗黒面に囚われたシスによって銀河は帝国が支配するようになる。遺された少人数のジェダイと帝国の闘い、これが「スター・ウォーズ」の筋である。

「スター・ウォーズ」はアメリカの作品であり、やはり現実のアメリカ社会を反映した作品であろう。具体的に誰がジェダイで、誰がシスなのかというのではなく、社会のあらゆるレイヤーにこの構図があるのではないかと思えるのである。一人の人物や組織の中にフォースの光りの部分と闇の部分が共存しているのが現実ではないか。

しかし、アメリカを国という単位で計れば、やはり強大な軍事国家であり、光りと闇の力を使い分けてきた国と言える。先頃、GYAO!で M1エイブラムス戦車の再生工場のドキュメントを見た。暇つぶしに何気に見始めたのだが最後まで見入ってしまった。

M1M1戦車は1980年に正規採用されたが未だ現役バリバリの戦車である。ガスタービンエンジンを装備しているということも驚きだが、もはやこの新しい戦車は生産されていないのだという。

稼働中のものをメンテナンス、改良、再生して使い続けているわけである。そのために、二か所の巨大な工場を稼働させている。映像はこの再生過程を紹介しているのだが、新しいものを生産している工場とは違う凄味を感じる。国の戦闘力を維持していくという強い意志を感じる。こんな国が他にあるのだろうか。あの中国でさえここまでは・・・。

巨大な原子力空母とスターウォーズの宇宙船。じぶんの中で二枚のイメージがダブる。

空母

space-carrier

どちらもアメリカが作った?ものである。スターウォーズのストーリーだけではなく、登場するメカたちもリアルなアメリカとダブる。アメリカならばこその映画が製作できた。アメリカには、象徴的に、フォースのライト(光)な面もダーク(闇)な面も混在する。

弱まってると言われるが、良きにつけ悪しきにつけ、この世界におけるアメリカの影響はやはり大きい。何となく怪しくなってきた世界情勢の中でアメリカがどう動くのか。世界はどうなるのか。アメリカ大統領、いや「闇の権力者」ですら全てを見通せないのではないか。

今度封切りになるのは「フォースの覚醒」だが、やはりライト面ばかりでなくダーク面も覚醒することになるのだろう。何となく、この映画でリアル世界の未来を占ってみたい誘惑にかられる。年内はシネマも混雑しそうだ。明けてから、ゆっくり観に行こうと思う。

超リアリスト、副島隆彦という人 (2014/08/15)

下町ロケットを考える

  • 2015.11.07 Saturday
  • 20:47
先月、家で一人のときに何気につけたテレビでドラマをやっていた。阿部ちゃんが熱い演技をやっている。タイトルをチェックすると『下町ロケット』だった。池井戸 潤・小説のドラマ版とすぐ分かった。原作は読んでいない。最近はほどんどドラマを見ることはなく、すぐにチャンネルを変えるかテレビのスイッチを切ってしまうだろうと思っていたのだが、結局最後まで見てしまった。

下町ロケット
http://www.tbs.co.jp/shitamachi_rocket/

表現が多少大仰だが、それがイヤミになっていない(と、じぶんは感じた)。作風が、なんか ” 踊る大捜査線 ” っぽいなと思った。後でネットで調べたら、結構話題らしい。割と女性に受けているというコメントもあった。そうなんだ?、と思った。

じぶんが見たのは第一話だったようだ。そんなことも知らずに惹き付けられて見てしまった。一週間後、第二話を見た。そして第三話はネットで見た。やはり面白い作品だと思った。世間の評価はネットなどで散見できる。しかし、何故じぶんがこのドラマを面白いと思ったのかを、じぶんなりに考えてみた。

結論、この作品はファンタジーなのである。だから大仰な表現が許され、むしろそれが活きてくる。じぶんは昔からアニメが好きだ。アニメは作品の内容に関わらず、いつもファンタジー性を具有している。じぶんはそれが好きなのだと思う。実写は良くも悪くも出演者の生のイメージを引きずってしまう。何がリアリティなのかも分からない。

吉川しかし、ドラマ「下町ロケット」では、演出と出演者に依るところが大きいのかもしれないが、まるで歌舞伎を見ていると思わせるようなところがある。原作はもっとリアリティのある作品となっているのかもしれないが、ドラマの方はファンタジーなのである。

日本には元来、職人・匠をリスペクトする文化があるように思う。そこを上手にくすぐるファンタジー作品となっている。職人はカネだけでは動かない。かつてそんな生き方をした日本人たちがいた。現代人にもそんな生き方への憧憬が潜んでいる。だから、このドラマ成功したのではないか。そして女性にも受けた。

さらに、ドラマ「下町ロケット」は ”大人の童話” と言ってもよい。子どもは童話で育まれる。大人だって童話で育まれるのである。否、育まれるまでとは行かなくとも、疲れ切った大人たちへの一服の栄養剤に なる可能性を秘めていると思う。もしかしたら、このドラマは揺れる日本社会からの暗黙の要請によるものではないだろうか、そんな妄想も生まれてくるのである。

また、全く個人的な事情だが、今、「エンジニアリング」という言葉を再確認してみたいと思っている。かつてエンジニアを目指していた頃があった。ロケットならぬ航空機エンジンのエンジニアである。今思えば、あの頃のじぶんの精神はエンジニアを志向してはいなかった。むしろサイエンティスト志向であったのではないかと思う。

mrj

honda jet


今、MRJ(三菱リージョナルジェット)、そしてホンダジェット開発のニュースに触れて、その成功を願うと共に、その開発過程での「科学」と「工学」の葛藤を想像してしまうのである(経済も広く科学と工学の範疇に入る)。ドラマ「下町ロケット」はそれを象徴しているように思われてならない。

どちらにしても、このドラマ「下町ロケット」は、じぶんにとって本当に久しぶりに愉しめるテレビドラマであることは間違いない。でも、残念ながらじぶんのテレビ離れは止まらない気がする。

アニメ『バケモノの子』を観てきた

  • 2015.07.21 Tuesday
  • 20:19
ジブリの宮崎駿監督が『風立ちぬ』を最後に引退宣言をしてさびしい思いがあった。監督はジブリ美術館の関係で、まだアニメ制作等にも携わっていくようだが、嘗てのような大作を期待するのは難しだろう。今は、「辺野古基金」の共同代表に就任するなど、アートより社会活動に軸足を移されたように見える。

前の投稿では、安保法案を考える上で監督の会見内容を参考にするということでご登場願ったが、個人的にはちょっと残念な思いがある。しかし、会見の席では、困難な道を覚悟の上で永続的に「辺野古基金」の活動を続けたい、との固い決意を表明されていた。宮崎駿監督の人生の総括にとって、重要な一ページになるのだろうと推察できた。

細田守監督『バケモノの子』が封切りになったので観てきた。前に、ビデオで『おおかみこども雨と雪』、そして『サマーウォーズ』を観て愉しませてもらった。宮崎駿監督の引退もあり、細田守監督の最新作には大いに期待するものがあった。

バケモノの子
http://www.bakemono-no-ko.jp/index.html

細田守監督の『時をかける少女』は、多分?まだ観ていない。が、『サマーウォーズ』は愉快な活劇で、『おおかみこども雨と雪』は昔話を思わせる懐かしい感じのする作品だった。そして、今回の四作目『バケモノの子』は、前の二作の要素とジブリのファンタジー性を併せ持った作品という印象がある。

細田守監督の前二作品は、基本的にあり得ない話なのだが、妙に現実感のある作品となっている。アニメそれ自体は漫画なので、そもそもリアリティがあるわけがないのだが、それ故に却って、アニメは観る人に不思議な現実味(想像力?)を感じさせてくれるのだろうか。たとえCGを駆使した実写版と言えども、アニメ版と同じ味は出せないのではないかと思う。個人的には、アニメ版の方によりリアリティを感じる。実写版は、例えば「ハリーポッター」のように、ディズニーランドのアトラクション的である。

また、映画とメッセージ性はいつも議論になるところだが、個人的には、作者の意図的なメッセージ性は好まない。しかし、また全く何のメッセージ性も感じられない映画はつまらないと思う。観た後に、人それぞれが何かを感じ取れるのが一番だと思っている。その意味で、『バケモノの子』は何ヶ所か ”かくあるべき” と思わせるようなコトバがあり一瞬醒めてしまう場面があった。いつかビデオ版で再チェックしたみたいと思っている。

『バケモノの子』は東京の渋谷エリアと、異次元のバゲモノの世界が舞台となっている。主人公はとある路地からバケモノの世界に入り込んでしまうのだが、後に自由に出入りできるようになる。その ”科学的根拠は” などの野暮な話は抜きにして、この作品には、バケモノの世界への入り口は渋谷のどの辺りだったのか、などというミーハー的想いを生じさせるリアリティがある。

ともかく、一人のアニメファンとして細田守監督に期待するところは大きい。ぜひ、これからも愉しい作品を作り続けてもらいたいと願う。

巨人の次はパラサイト

  • 2015.05.09 Saturday
  • 16:39
この前、アニメ「進撃の巨人」の話題を投稿したのだが、またまたGyao!で、今度はアニメ「寄生獣」を見てしまった。以前、近隣のシネマのロビーで実写版の広告を見つけたのだが、その時は特に興味を持たなかった。ただ、監督が山崎貴だということがちょっと気になった。さりながら、アニメ版を見てしまった。初めは、??? だったのだが面白い。

原作は岩明均氏で、1988年 から1995年まで講談社から 出版されたということなので、物語としては完結している。あいだが何作か抜けてしまったが、Gyao!で、ちゃんと完結まで見ることができた。「寄生獣」も「進撃の巨人」と同様に、初めは単に奇をてらったものかと訝ったが、そのうちに段々と惹きつけられていった。

寄生獣

「寄生獣」は「進撃の巨人」に比べるとリアルな感じがある。「進撃の巨人」はなお物語が継続中であり、じぶんが見た部分は、アニメ版の二十数話とは言え、ほんのさわりでしかない。さらに、物語のステージも、展開も全てファンタジー(?)であることが前提になっている。対して、「寄生獣」はステージが今、現在の日本社会そのものである。人間に対するパラサイトというのは奇異ではあるが、なぜか妙にリアリティがある。

右手に寄生生物ミギーを宿す高校生・泉新一は、要注意人物として人間からもパラサイトからもマークされていた。いまや、新一の住む東福山市は、市長・広川 を中心に組織化されたパラサイト達が、一大ネットワークを作り上げていた。一方、人間側も、寄生生物殲滅を目的とした対パラサイト特殊部隊を結成。アジト と化した東福山市庁舎に奇襲を仕掛けようとしていた。激化する戦い…。人間の子を産み、人間との共存を模索するパラサイト田宮良子は、新一とミギーの存在 に可能性を見出したが、肝心の新一は、母親を殺された事件がきっかけで寄生生物への憎悪を募らせていた。そんな彼らの前に、最強パラサイト・後藤が、その 姿を現した。生き残るのは人間かパラサイトか。そして「寄生獣」とはいったい何なのか。新一とミギー、最後の戦いがついに始まる。
映画『寄生獣 完結編』公式サイト

このリアリティは何だろうと思った。ウィキペディアの解説なのだが、原作者岩明均氏を「残虐描写を特徴とするが、ストーリーは哲学的かつドラマティックな展開を両立させている。2000年代以降は歴史に題材を取った作品が多い」と解説している。岩明氏は社会風刺的志向が強いのかもしれないと思った。

「寄生獣」のストーリー展開はトンデモないが、人間も地球上に生きる生物の一つの ”種” にすぎないという前提に立てば、生物の生存をかけたサバイバル・ゲームの話と言えなくもない。突然、人間に寄生したパラサイト生物(寄生獣)は生きるために人間を餌として食べる。気持ちの悪い話ではあるが、ストーリーの中で、パラサイト生物が主張する説が段々と無茶な話に思えなくなってくる。人間が食物連鎖の頂点にいなければならない理由はない。

パラサイト生物は、街のビルの地下を ”食事場” として、時折り人間を連れ込んで食欲を満たす。突然、顔が肉食獣に変身して襲いかかる姿は恐ろしい。kiseiしかし、こんな恐ろしい画面が、スーパーの肉のコーナーで「おいしそう!」などと普通に会話している人間の姿とダブってくる。冷蔵棚の中の赤みを帯びた肉の塊が、少し前まで生きた牛や豚だったことなどは微塵も想わない。考えてみれば、これはこれで不気味な話である。

「進撃の巨人」、「寄生獣」と続けて怪奇アニメ(?)を見てしまった。しかも、「寄生獣」は既に実写版が公開されており、「進撃の巨人」も間もなく公開になる。ホラー映画とは一線を画すものだとは思うが、今この二つのコミック作品がアニメ化され、実写版も制作されたというのは偶然なのだろうか。ちょっと気がかりで好奇心をそそる。

関連投稿:「進撃の巨人」を知ってしまった (2015/04/11)

「進撃の巨人」を知ってしまった

  • 2015.04.11 Saturday
  • 17:44
 プロ野球の話ではない。大阪のUSJに顔が実物大の巨人のモックアップがあるとか、去年のNHKの紅白にアニメのテーマを歌っているグループが出たとか出ないとかぐらいの認識しかなかったのだが、年が明けてから、書店で『進撃の巨人と解剖学』(amazon)という新書版の表紙をチラッと見してから、頭の中に残るようになった。この本はぜひ読んでみたいと思っている。

そして、ついにGYAO!で期間限定の無料アニメ版が配信されているのを見つけてしまった。そして、第1話を見てびっくり仰天した。人がバリバリと巨人に食われる。こんな表現許されるのかと思った。初めは奇をてらった作品なのかと思ったが回を重ねるごとに、これはタダもんじゃないと考えるようになった。世間で話題になるだけのことはある。

進撃の巨人
http://shingeki.net/

アニメ版を25話まで見ることができたが、まだまだ入り口という印象だ。ウィキペディア(wikipedia)によると、
” 圧倒的な力を持つ巨人とそれに抗う人間たちの戦いを描いたファンタジーバトル漫画。2009年9月9日に講談社の少年マガジン編集部から発行が開始された『別冊少年マガジン』10月号(創刊号)で連載を開始。新人作家の初連載作品であるにもかかわらず2011年には第35回講談社漫画賞の少年部門を受賞するなど、各方面から高い評価を受けた ”
とある。

後に、岡田斗司夫氏が、Podcastで、原作者が「やっと半ばまで来た」と話しているということを紹介していた。まだまだ現在進行中のストーリーなのである。アニメ版25話を見ただけでも、このストーリーは一体どこへ行くのか??という印象だっが、原作の状況を考えればエンディングはますます気の遠くなる話だ。

作者 諌山創(いさやまはじめ:wikpedia)氏のデビュー作ということなのだが大変な作品である。マンガ(コミック)は少年の頃に『鉄腕アトム』『赤胴鈴之助』『まぼろし探偵』『鉄人28号』等々を月刊誌で楽しんでいたものだが大人になってからは縁遠くなってしまった。『カムイ伝』『明日のジョー』『巨人の星』、そして『沈黙の艦隊』ぐらいだろうか。週刊誌のマンガはあまり読まなかった。それと、5〜6年前、『風の谷のナウシカ』の原作を買った。

また最近、老いてから、マンガという表現形態に興味を持つようになったのは、養老孟司氏の「日本人がマンガ・リテラシーを持つのは、日本語が音と絵(漢字など)が無原則に結びつくという表記形態のためで、フキダシがルビの役割をする」という説とか、内田樹氏がマンガフリークであることを知ったことが影響している。

内田樹氏が称賛する井上武彦・作『バカボンド』を読んでみようかと考えたりもしていたが、まだ実行していなかった。そんな折りの『進撃の巨人』である。いま、どうしたもんかと思い悩んでいる。残念ながら、タイムもマネーも有り余るほど持ち合わせてはいない。

関連投稿:内田樹 日本のカルチャーとしてのマンガを熱く語る!!  (2011/02/11)

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