お金に呑み込まれないようにする

  • 2015.12.14 Monday
  • 23:10
今年も師走になった。昔から何となく気忙しい月である。使い古された言い方だが、老いとともに本当に月日の経つのが早くなる。巷間色んな説があるが、こればっかりは各自がそれなりの歳になってから自ら体験してもらうしかない。もうジングルベルか、と瞬く間に一年が過ぎる。

こんな気忙しい月に何もこんなテーマをと思うのだが、新聞の広告欄で気になっていた本で、書店で見つけ買ってしまった。”お金” というタイトルと著者が ”佐藤勝” というのが購入の動機で、その心はと問われれば ”何か引っ掛かる” ということである。

お金に強くなる・・・お金に強くなる生き方
青春出版社(amazon

著者 佐藤 勝
1960年東京生まれ。作家、元外務省主任分析官。85年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、09年6月有罪確定。『国家の罠』で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自滅する帝国』で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『人に強くなる極意』『ズルさのすすめ』『知の教室』など著書多数。


著者 佐藤勝氏は、じぶんがリアリストと感じる人物の一人である。じぶんの中でリアリストとは、社会に上手にコミットしている人物というよりは、社会のどんなモードの中でも自分の生きる道を探し出せる人物という感じに近い。著者はカルヴァン派の熱心?なキリスト教徒である。大学で神学を学び外交官を目指したという異色?のキャリアを持つ。

一方、 ”お金” はこんなに身近なのに、ほとんどその正体が解らない代物である。「経済」(貨幣経済)が分かりにくいのもこれが一因だろうと思う。本のオビにある言葉−いま世の中で一番強い宗教は、”拝金教”だ−を見たとき、お金の真髄に迫ろうとする著者の意図を感じた。

しかし、本書は意外にもハウツウものだった。”お金” の正体はさておき、とりあえず社会にあって”お金” は不可欠な存在なので、こんな風に考えお付き合いしましょうという本なのである。著者の現実主義的な一面がよく分かる本である。しかし、一般に常識的な考え方とは大いに異なり、著者の精神に強くアレンジされたものとなっている。

現にあるものを、好き嫌いとか、良い悪いで無視しようとすることには無理がある。ともかく対処するしかない。本書は、世間の常識というものが必ずしも考え方の王道ではない、ことを我々に教えてくれる。

まず、日本の労働者の年収だが、平均値のマジックに惑わされて年収500万円くらいが平均的と思われているようだが、現実は年収300万円が中央値であり、これが一般的な日本人の供与所得者の実感に一番近いのではないかと著者は言う。

じぶんも「平均イコール算術平均」という固定観念があり、社会人になってからもほとんどこの概念で通してきた。日本の社会通念がそうなのだろう。平均には、いわゆる平均値以外に中央値、最頻値があることが常識となっていない。これは教育の貧困、特に論理・数学教育の未熟さがもたらしたものだと思う。

この現実から始めなければならない。そもそも、お金を投資や副業で一気に増やそうというのには無理がある。ハウツウ本や自己啓発本があおる努力崇拝主義は危険でもある。頑張ったからといって全ての人が成功するわけではない。と著者は言う。

昔話『わらしべ長者』は資本主義の象徴であると著者は言う。主人公の貧乏な男は、等価交換という資本主義の基本原理にのっとって富を増やしていく。現代において、一般にこのような生き方が理想とされる。

しかし、著者はもう一つの昔話『貧乏神と福の神』を取り上げる。ちょっと乱暴な態度の福の神を追い出して、貧乏神と仲よく、細く長く幸せに暮らしたという夫婦の話だ。歴史的に農業国家、農耕民族の日本のような国には突出した大富豪が育ちにくく、著者も含め日本人はわらしべ長者より福の神を追い出してしまった夫婦の方にシンパシーを感じやすいのかもしれない、と著者は言う。

勿論、著者は大富豪を否定してはいない。ただ、著者は富豪になるには覚悟がいるのだと言う。貧乏神に情けなどかけずに思い切った判断や行動ができるか。ビル・ゲイツも、ロックフェラーも、カーネギーも人生のどこかで必ずその選択をしているはずだ、と著者は言う。大富豪を目指してもいいのである。目指すというのも変だが貧乏な生き方もある。しかし、極貧となるとまた別の話となろう。 

 自分は資本家ではなく、労働力を売っている立場であるという「見極め」。だからこそ収入には限界があるという「見切り」。
 この「見切り」と「見極め」は、諦めや絶望ではありません。むしろこれからのお金に対する向き合い方、つきあい方は、その見極めから始まります。その見極めがあるからこそ、お金とある程度の距離を保ちながら、いい関係を築くことができるのです。


著者は、本書の中で、具体的なお金に対する対処の仕方・考え方を数多く書き記し、お金を考えるために参考になる書籍も十数冊あげている。例えば、お金を投資で運用する場合は、家賃、光熱費、食費を差し引いた「可処分所得」の半分の金額に抑えること、など具体的である。著者の体を通して紡ぎ出された言葉のように思える。

また、著者は、価値がなくならない金への投資、そして究極の投資対象として絵画をあげる。このことは以前耳にしたことのある事案だが、著者は本書でその根拠を説明してはいない。このことはじぶんの関心事でもある。お金(マネー)は共同幻想であると言われる。金も絵画もお金に換算される限り、これらもまた共同幻想である、とじぶんは思うのである。文化的価値はまた別ものではあるが。

例えば、世界中の金塊を東京ドームに集めたとして、一体何が起きるのだろ。これで東京ドームに異次元へのゲートが出現するなどの特異現象が起きるのであれば別だが、世界中の泥棒が金塊を狙って集まるなどという社会現象しか想定できないのであれば、やはり金塊もまた人間の脳内現象、心理現象であるお金と同等と考える他しようがない。稀金属そして貴金属としての経済的価値は消えることはないのだが。

お金には、交換手段、価値尺度、貯蔵の3つの機能があると言われる。お金の便利さと必要性が理解できる。著者の体験談として、ソビエト崩壊のときマールボロが通貨の代わりになったと言う。自分のモノと自分が欲しいモノを交換するのがいかに難しいかを知れば、お金の価値やありがたさが分かるというものだ。

 現代において、お金はすでに神に近い存在になっています。マルクスは早くからお金には物神性(フェティシズム)がつきまとうと言っていますが、まさに資本主義社会はお金を神とあがめるフェティシズムから成り立っているいうこともできます。

最終章で、著者はお金の核心(真髄)に触れてくる。お金を宗教論で捉えるのは適切なベクトルの一つだと思う。このことには個人的にも興味を覚える。しかし、多くの人々は、自分がどっぷりと拝金教に浸かってとをいることなど全く考えていないだろう。しかも、これは善悪の問題ではない。真実なのである。

まだ、一般的な宗教ならば自分が信者であることを認識している。しかしながら、拝金教信者にはほとんど自覚がない。まず、このことを認識することが重要になる。そして、問題は自分がどんな信者を目指すべきかということである。個人的には、宗教は否定しないが、その原理主義的側面には懐疑的である。拝金教についても ” しかり ” である。

個人的な嗜好では、宗教も一神教よりは八百万の神々がおわす世界の方がよいと思っている。よって、拝金教においても、多様な神々(経済・お金の仕組み)が共存する方がいいと考える。だが現実は、拝金教の世界にも多様な神々が存在するのだが、残念ながら世界の一般宗教と同様に神々同士が相争う状況となっている。共存共栄ができないのである。

著者は次のようなコメントで本書を閉じている。

 大切なのは、だからこそ『お金のない生活、社会はどうなるか」と、あり得ない状況を想像してみることです。日ごろ当たり前だと思っていいることや、当然だと考えている前提を疑ってみる。
 同じように、この世に『国家がなくなったら」『会社というものがなくなったら」という問いを発してみると、これまでにない新しい考え方や視座を発見する糸口になるはずです。


まだ若い頃、「お金は血液のようなもので、無いと生きていけない。しかし、決して血液は生きる目的には成りえない」と考えていた。このことを、今、改めて想う。

賢老社会に向けて

  • 2015.11.29 Sunday
  • 15:38
先月、ブログで取り上げた五木寛之著『嫌老社会を超えて』を読んでみた。さて、このテーマは当ブログのどのカテゴリーに入るのだろうかと考えた。先月の投稿の時はカテゴリー「プロローグ」に入れた。その時は、未だ本を読んでいなかったのだが、テーマが当ブログを始めた動機に関わるものであろうと思いカテゴリー「プロローグ」にした。

本書は、老人問題をタブーのままに「心配停止」(著者の造語)にしていると、「嫌老が当たり前の社会」を現出させてしまうと警鐘を鳴らす。そして、これは「道徳では解決できない」と言い切る。では、どうすれば良いのかということで、著者は第5章と第6章で具体的な提唱をしている。ここに注目して、今回の投稿はカテゴリー「社会・経済のはなし」に範疇に入れた。

嫌老社会を超えて嫌老社会を超えて
出版 中央公論新社(amazon

著者 五木寛之
1932年福岡県生まれ。生後まもなく朝鮮にわたり、47年に引き揚げを経験する。52年早稲田大学ロシア文学科入学。57年中退後、PR誌編集長、作詞家、ルポライターなどを経て66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、76年『青春の門 筑豊篇』ほかで吉川英治文学賞を受賞。2002年に菊池寛賞を受賞。著書に『蓮如』『大河の一滴』『林住期』『親鸞』など多数。


嫌老という言葉に対し、未だほとんどのシニアは無自覚であろう。だからこそ問題なのである。じぶんもずっと気になっていたことではあるのだが、著者が懸念するように社会の階級闘争まで発展してしまうかもしれないとは考えもしなかった。しかし、それは少し甘い認識だったかもしれない。

さて、先ずは、我々シニアが自分の老いに気づくことから始めなければならない。これが意外に云うは易しなのである。クルマ好きだった著者は、首都高速「羽横線」のカーブで、自分の描いたラインの通りに走ることが出来なくなったと感じたときクルマの運転を止めた。六十歳を超えた頃だという。じぶんは七十を前にしてまだクルマを転がしている。おそらく多くのシニアがそうなのではないか。

少し前、九十を超えたおばあちゃんの軽自動車と高校生のバイクの事故を報じていた。そして、また昨日、94歳が90歳をはねたとのネット・ニュースを見た。こうなってからでは遅い。かように、シニアが自分の老いを認識することは難しいことなのである。まして、世間の嫌老感に気づくのは並大抵なことではないと想像できる。よほど心してかからねば。

著者は、このような世間の状況を憂いながらも、具体的な対応策を提唱している。「老人階級」が世の中に受け入れられる施策として二つ挙げている。一つは、一定以上の収入のある豊かな人びとは年金を返上する。何歳になろうとも働ける人は働く。年金をもらわないことを「損だ」と考えるのではなく、社会に還元すると考える。二つ目は、選挙権の委譲。高齢者は若い世代に選挙権を譲ることである。

総論賛成!、各論になると侃々諤々で収拾がつかないかもしれない。しかしながら、シニア世代がこのようなことに少しでも注意を向けるようになるだけでも、世間の雰囲気が随分と変わってくるのではないだろうか、とじぶんは思う

著者の提案はこれに留まらず、老人問題は現代日本の国のあり方、経済に根ざした課題であるとして、「日本の産業意識の転換」を訴える。この提案はとても興味深い。この所日本のエンジニアリングに注意しているじぶんにとっても、この著者の提案には注目である。さらに、このことは当ブログで初めからテーマの一つにしてきたことなのである。

 ともすれば「社会のお荷物」になりかねない高齢者に、「静かに」していてもらうのではなく、より一層、社会の全面に出て奮闘してもうらう。ただ時間潰しに日銭を稼ぐといった立ち位置ではなく、国力アップの推進役を務めていただきたい。それが、私の理想とする新しい時代の老人像です。日本経済を再生させる主 要メンバーという意味で「大切に」考えていこうではないか、ということなのです。

一言で云えば、上記の著者のコメントとなる。かつて、じぶんも地元の市長宛に、移転する予定の大学施設をシニアの再教育の場として再利用する、という提案をメールでしたことがあった。市長からの返答の手紙は ” 生涯教育の現状と今後の課題 ” というような内容のものだった。限られたメールによる提案で説明不足もあったと思われるが、こちらの意図とは全くかけ離れたものだった。

奇しくも、じぶんの意図したものは著者の提案に近い。カネを持っているのはカネを、知恵を持っているものは知恵を、力を持っているものは力を、それぞれが持つものを提供して社会に役立てようということなのである。そのためには、さび付いた脳のリフレッシュのための学び直しが必要である、というのがマイ・ステートメントなのである。

著者は、一つの具体的イメージを提案する。それは ” 補聴器のポルシェを ” である。クルマ好きの著者らしいキャッチである。普通の人が聞いているのと遜色のない音質の補聴器。幸い、じぶんは未だ必要としてはいないのでこの器具には疎いのだが、品質的にまだまだらしい。

著者は、一流の補聴器ができないのは、開発・製造に当たる人たちに「老人が感じる本当の不便さ」が分かっていないからで、「そこそこいいもの」しかできないのだと言う。ならば、高齢者層をターゲットにした製品のマーケティングや開発は、高齢者にまかせたらどうか。著者はさらに、国もこうした製品の研究開発に予算をつけるべし、と主張する。

その他「老人仕様のクルマ」など、高齢化社会を逆手にとって産業も文化も、国のあり方そのものを老人中心−日本を”老人カルチャー”のメッカに−に考えてみようと言うわけである。画期的な老眼矯正、入れ歯製作技術などの開発が現実となれば、マーケットは世界的なものとなろう。

高齢者にお金を注ぎ込むのではなく、中心となって稼ぎ出してもらう。この ” 逆転の発想 ” は、若者の職を奪うどころか、彼らにより高付加価値の仕事を提供することになるはずだ、と著者は言う。高齢者はできるだけ社会保障の世話にならない覚悟で生きる。若者が「自分も歳をとったら、ああなりたい」と目標になるような老人の姿がある社会、それが賢老社会と著者は言う。

 笑われるのを承知で言えば、私は「この世界がどう変わっていくのか、見ていたい」のです。日本だけではなく、アジアが、世界全体が、この先どのような変貌を遂げていくのかを目撃したい。知りたい。そのために長生きがしたいのです。

こんな著者が ” 「よりよい生き方」の最たるものは「社会貢献」であるはずです ” と語る。同感である。

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たかがドローン、されど・・・

  • 2015.10.02 Friday
  • 20:47
ドローンに初めて興味を持ったのは、ネットでフランス・パロット社のAR.DRONEを見てからである。ホビー商品なのだが、その映像に圧倒された。オモチャを超えていると感じた。
参照:秋の気配の中で何故か・・・ (2012/10/20)

ロボットへの関心は子どもの頃からあった。「鉄腕アトム」を見て育った世代でもある。少年期はヒコーキに惹かれ、青年期の終わりにコンピューター(PC)に出合った。壮年期は仕事に追われ、中年期になって人工頭脳(ロボット)と「人間の心」に注目するようになり、そして高年期(老年期)になって「人間の身体」に興味を持った。

現在は、ネット社会のサイバー面とリアル面、そして人間の「心」と「身体」の相関に関心がある。ロボットはその象徴的な存在である。初めて見たドローンは昆虫を感じさせた。それ故、ラジコンというよりロボットという印象が強く、生物研究の大きな助けになるのではないかと思った。

しかし、今、ドローンは実社会で即戦力のメカとして期待され始めている。じぶんも初めから、その可能性を薄々感じてはいたが、こんなに急激に注目されるようになるとは想像もしなかった。小林啓倫著『ドローン・ビジネスの衝撃』を読んで、その早い進化に改めて驚いている。

ドローンビジネスドローン・ビジネスの衝撃
小型無人飛行機が切り開く新たなマーケット
朝日新聞出版(amazon

著者 小林啓倫
日立コンサルティング経営コンサルタント。1973年生まれ。獨協大学卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業を経て、2005年から現職。


本書には、ドローンというネーミングの経緯についても書かれている。それによると、1935年に英国海軍が開発した無人標的機DH82B「クイーン・ビー」(女王蜂)に対して、後に米国が開発した無人標的機を「ドローン」(雄蜂)と名付けたことがドローンの始まりであると解説されている。

このネーミングの歴史も興味深いのだが、著者が ”「ドローン」という新しいジャンルが生まれつつある” のではと提唱しているところが興味深く、じぶんも共感できる。無人飛行機とIT技術が結びついて、ネット社会の中に「ドローン」という新しいデバイスが誕生したと考えることも出来る。
※デバイス−ドローンがスマホのようにネット社会の有用なデバイスの一つになるのではないかという予感がある。

本書の中には、色んなドローン開発と周辺環境整備の具体例が示されている。論より証拠で、多くの具体例を示されると本書のサブタイトル「小型無人飛行機が切り開く新たなマーケット」が現実味を帯びてくる。

著者の「ドローンは自動車のない世界に突然電気自動車が現れたようなもの」というドローン観が面白い。そして、電気自動車は構造が比較的単純で、ある程度の技術力があれば誰でも作れてしまう。ところが、この世界には信号機もなく、教習所もなく、法令もない、と著者は言う。つまり、ドローンは比較的簡単に作れる割には高性能なのだが、これを受け入れるための社会環境が、ハード面もソフト面も全く整っていないと言うわけである。

また、ますます高度化するスマホなどの通信端末をエンドユーザーが気軽に使えるのは、技術的な発展だけではなく、通信キャリアが複雑な電波法への対応を引き受け、ユーザーが個々に免許を取らなくても電波を使える仕組みにしていることだ、と著者は言う。ドローンの発展にも同様の課題があると思われる。

さて、初めに述べたように、じぶんは、ドローンをロボットと考えた方が良いと思っている。従って、ドローンの開発、環境の整備を行うにあたってはSF作家アイザック・アシモフの「ロボット三原則」が適用されるべきであると考えている。今、ドローンの実用化に向けて様々な試みがなされていることを知ったが、そのためには、クリアしなければならない技術的、社会的な問題が存在することも分かった。
※ロボット三原則−
「 人間への安全性、命令への服従、自己防衛」を目的とする3つの原則から成る。

しかしながら、こうした雑多な問題があるにもかかわらず、急激に、新旧のドローン関連企業がしのぎを削る状況になっていることには理由があるはずである。もちろんリスクは考えられるにしても、これに関わる人々の中に、ドローンがこのネット社会の未来に不可欠なエレメントになるのではないかという ”読み” あるいは ”感” のようなものがあるのではないだろうか。

じぶんも、初めてドローンの映像を見たときから、何か胸騒ぎのようなものを感じてきた。じぶんの ”感” が人並み以上のものとも思えないが、社会の実際の変動を見ていると ”もしや” という念が生じてくる。
ドローン

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韓国のはなし

  • 2015.09.13 Sunday
  • 11:10
安保法案の話もだが、こっちのテーマ「日韓関係」も少々ウンザリ気味だ。刺激的なタイトルの嫌韓本はできるだけ読まないようにしている。この本は元駐韓大使が書いた話題の著書ということで、頑張って読んでみることにした。

日韓対立の真相日韓対立の真相
悟空出版
2015年5月発行

著者 武藤正敏
1948年生まれ。東京都出身。横浜国立大学卒業後、外務省入省。韓国語研修の後、在大韓民国日本国大使館勤務。参事官、公使を歴任。前後してアジア局北東アジア課長、在オーストラリア日本大使館公使、在ホノルル総領事、在クウェート特命全権大使などを務めた後、2010年大韓民国特命全権大使に就任。2012年退任。


現在の日韓は、韓国が日本の歴史認識に反発しているという状況に加え、そうした韓国に日本が「キレている」という状況だという。このことはじぶん自身の認識に近い。これではどっちが正義かなどの議論しても泥沼の状態になるしかないだろう。著者は、朴大統領の「気持ち」は外相レベルや事務当局の会談で静かに伝える方が、はるかに効果的であると語る。しかし、それが出来ない。なぜ?

今、日韓対立の背景に「慰安婦問題」がある。この軋轢には民族の歴史的背景、朴大統領個人の資質・性格もありそうだが、著者は「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)の存在が大きいと言う。この組織は「慰安婦問題」に関して、韓国で絶大な影響力を持ち、この組織に対しては韓国政府も無力なのだという。

日本への悪印象を韓国社会に定着させ、彼らが主張する人道的な不法行為に対して法的責任を認めさせ、謝罪と賠償が実現するまで日韓関係を改善するべきではない ” というのがこの団体の主張だというが。この辺りの本当の事情は本書からだけでは窺い知れない。この団体に関わる人々の様々な信念、思想、主張、思惑などが錯綜しているのだろうと想像する。

著者によれば、日本と韓国では、そもそも「歴史」の捉え方が異なる。日本では実証研究を重視するが、韓国では「何が正しい歴史か」という視点から検討が始まる。まず、この違いをお互いに理解することが重要である、と著者は主張する。

著者は、大多数の韓国国民は、挺対協の宣伝活動によって慰安婦問題の実態が捻じ曲げられて伝わっていると考えている。さらに、日本政府も深く関わってきた「アジア女性基金」の活動に関しては、韓国の人々にほとんど理解されていないのだという。この件に関してはじぶん自身も無知だった。

挺対協が、元慰安婦の方が「アジア女性基金」から「償い金」を受け取ることに圧力をかけて止めさせた後に、54人がこれを受け取っているということが実情であり、これらのことは一般に知られていないのだという。

日本は、元慰安婦の賠償請求権が1965年の日韓請求権・経済協力協定によって消滅しているとしているのに対し、韓国側はそれを未解決としている。著者は、慰安婦問題の根底にあるのは、日韓基本条約や請求権協定の解釈上の問題ではなく、これまでの取り組みに対する日韓間の認識の相違であり、それは韓国国内の政治的事情によってもたらされたものだと語る。

一方、日本が慰安婦問題を矮小化しようとすればするほど、かえって国際社会からの反発をまねいてしまう。韓国は戦略として問題を世界に拡散しようとしているので、日本も国際社会が理解できる論理で対抗すべきであると語る。著者は、この国際社会とは米国社会と言い換えてもよい、と現実的な捉え方を提唱する。

著者は「おわりに」の中で次のように述べる。

 日本では、「韓国なんて放っておけ」という声をよく耳にします。これは日本人が「韓国人の多くは半日である」と思い込んでいるからではないでしょうか。
 私にはそうは見えません。現状では、韓国人の「反日」よりも日本人の「嫌韓」のほうが強いように感じられるのです。
 本文でも述べましたが、韓国人の対日観は今もそれほど悪いとは思っていません。目立っているのは、
朴槿惠大統領、反日をあおる政治家、マスコミや一部のNGOです。そのために「政治的関係」がギクシャクしているのです。

さらに。

 私はこうした状況にあるからこそ、人的交流を通じて関係の改善を図るべきと考えています。日韓の地政学的関係、経済関係の緊密さからして、韓国を無視することで彼らを中国よりに追いやることは、日本にとって得策ではありません。

よくよく熟慮すべきことなのかもしれない。

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3.11から2年を迎えて (2013/03/12)

ヨーロッパのはなし

  • 2015.08.23 Sunday
  • 11:38
夏は未だ終わってはいないが、今年は酷い猛暑の日が続いた。とてもじぶんの知っている日本の夏とは思えない。おまけに、70回目の終戦記念に絡んで、ちょっと食傷気味なのだが、安全保障問題に関わる案件が取りざたされている。安倍首相の終戦70年談話は、発表前は周辺にもやもやとした空気を醸し出していたが、思いの外穏やかに過ぎた。

ロシアのメドベージュエフ首相の北方領土に行き、韓国の朴さんは中国の抗日戦勝70周年記念式典に出席を表明し、北朝鮮の金さんは韓国が11年ぶりに始めた北朝鮮に対する避難放送に対して姿勢を硬化させている。そして、この国の国会では、安保法案の審議で安全保障問題の本筋からかけ離れた議論で盛り上がっている。

ドイツ帝国が・・・「ドイツ帝国」が世界を破滅させる
文春新書(amazon

著者 エマニュエル・トッド
1951年生まれ。フランスの歴史人口学者・家族人類学者。国・地域ごとの家族システムの違いや人工動態に着目する方法論により、『最後の転落』で「ソ連崩壊」を、『帝国以後』で「米国発の金融危機」を、『文明の接近』で「アラブの春」を次々に予言。『デモクラシー以後』では、「自由貿易が民主主義を滅ぼしうる」と指摘。


ショッキングなタイトルだが、これを見たときは思ったほど違和感を感じなかった。それは、少し前からヨーロッパに対するじぶんの印象が変化してきていたからだろう。それにしても、本書の内容は刺激的である。著者はエマニュエル・トッド氏だが、じぶんにとっては、どっかで聞いたことがある名前だなぐらいの印象しかなかった人物だ。

結論は、東アジアからヨーロッパは遠かったということだ。と言うことは、ヨーロッパから東アジアも遠いということである。現ヨーロッパを考えるにあたり日本人の常識などほとんど無意味だと思った。著者が語っているように、著者の描くヨーロッパは一つのストーリー・モデルにすぎない。しかし、その妥当性は必ずしも低レベルのものではないと考える。

目から鱗とはこのことか、今ドイツが「帝国」を志向しているとは。しかし、ヨーロッパ(EU)圏におけるドイツの視座から見れば、この説もムチャクチャな話ではないように思えてくる。詳細は省くが、ヨーロッパと東アジアを比べれば、ドイツに相当する国は日本ではなく中国となる。中国は「帝国」を志向している。著者の指摘に、じぶんの頭の中のモヤモヤが取れた。

日本は、東アジアの中で、ヨーロッパ(EU)中のフランスとかイギリスに相当する立場にある。このストーリー・モデルでは、ドイツと中国が接近することには意味がある。両帝国が近接していれば話は別だが、ドイツも中国もそれぞれ微妙な関係にあるロシアを挟んで遠く離れている。こんな帝国同士は地政学的に共同しやすいだろう。しかも、両国とも貿易立国である。しかし、この共同が上手くいくかどうかはまた別の話なのだが。

インドもキーとなってくる。ドイツ帝国、中華帝国、アメリカ帝国、そしてロシア、インド、日本等がどんな ” 国際模様 ” を紡ぎ出すことになるのか。強い関心をそそるが、今は誰も計算できない。さらに、このような情勢の中で日本はどのような国を志向すべきかが問われる。平和国家を目指すべきだ、との空気は十二分に理解できる。しかし、総論賛成各論反対の様相を呈することになるのが目に見えるようだ。

じぶんには本書の各論を理解する力がない。西洋の歴史・社会そして経済に対する教養の欠落を残念に思う。

 戦争が起こるぞという脅かしは、システムが振り回すさまざまな武具の一つです。この疲れ果てた大陸で起こりようのないものがあるとすれば、それは戦争ですよ。誰もこの地域を侵略をしては来ません。危険は、生活水準の低下や教育システムの内部炸裂や公共サービスの破壊からくれのです。

この著者の見解をそのまま東アジアに当てはめることはできないと思う。しかし、現実的な危機は生活水準の低下や教育システムの内部炸裂や公共サービスの破壊
にあるというのは理解できる気がする。我が国にとっては、市民が常に ” 学び、考える ” ことが習慣となるような庶民文化を育成できるか否かが ” カギ ” であるように思えてくる。


関連投稿:これは人間社会進歩の象徴か (2015/05/18)

「福井モデル」について

  • 2015.08.15 Saturday
  • 11:55
昨日、終戦七十年を迎え、安倍首相の談話が発表された。8月と言えば、”詫びる” ”反省する” がまるで季語のようにメディアの文中に踊る。正直なところ ”ウンザリ” が本音だ。

言うまでもなく、過去の反省は悪いことではない。しかし、もっと前向きの話はないものかと思っていたところ、PODCAST「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」で藤吉雅春著『福井モデル』という本をを知った。

福井モデル福井モデル
発行 文藝春秋

著者 藤吉雅春
1968年佐賀県生まれ。「週刊文春」を経て、ノンフィクションライターとして独立。2011年に一般財団法人「日本再建イニシアティブ」の民間事故調「福島原発事故独立検証委員会」ワーキンググループに参加、共著に同財団の『日本最悪のシナリオ 9つの死角』。著書に梅田功名義で『変革者 小泉家の3人の男たち』など。文化放送『福井謙二 グッモニ』火曜日コメンテーター。2014年に創刊した『Forbes JAPAN』副編集長兼シニアライター。


面白い!!。実に愉快な本である。サラリーマン時代は、行政と言えば国政という認識が強かった。定年を迎える頃になり町の役所との関わりが少〜し増え、地方行政にもちょっと意識が向くようになった。じぶんにとっては、定年後に、縁あって地域の公共施設を管理する指定管理事業者のパートを始めた事が大きい。

定年前の仕事では、役所と民間の立場で関わることはあったが、このパートをやるまでは役所側の立場で業務に関わるという経験をすることがなかった。特に、一年前パート先の公共施設の指定管理事業者が変わった時、指定管理事業に関わる役所と会社のスタンスの異様さを思った。何を目指そうとしているのか殆ど理解できないのである。

国際情勢において、じぶんが感じる違和感は地方行政にもあった。灯台下暗しである。個人の生活が根ざしているのは地域である。本当は、個人にとって国際情勢以上に大切なことのはずである。このこと初めて考えさせてくれたのは藻谷浩介著『里山資本主義』だった。

そして、『福井モデル』はこのことを改めて気付かせてくれた。しかも、よりサプライズ的に。本書は、北陸三県(福井県・石川県・富山県)の話で、その中心的な存在が福井県だという。この国にこんなに面白く興味深い地方があることを、今まで知らなかったことを本当に残念に思う。

どんな社会を目指すのか、これを国全体で考えるのは適切でない。やはり、地域ごとのテーマであると言えるだろう。高齢化社会は避けられないが、少子化は社会がどんなビジョンを持つかに関わっている。福井県がそれを教えてくれている。

現代社会の様々な問題と課題を解決していくには知恵と工夫が必要だ。北陸三県は幸いにもそれらに恵まれているようだ。著者はこれらの創出を「福井モデル」と表現した。2011年に法政大学大学院の坂本光司教授と「幸福度指数研究会」が発表した四十七都道府県幸福度ランキングでは、一位・福井県、二位・富山県、三位・石川県と北陸三県がトップスリーを占めた。

勿論、このランキングの計算方法の妥当性も問われるが、個別的にも、世界から注目される富山市のコンパクトシティへの挑戦、福井県鯖江市のインキュベーション気風など興味深い事象が数多く見られる。著者は、鯖江に限らず、どこの自治体も変革をしないと持続できないと語り、鯖江市長のコメントを紹介する。

 行政の事業は七百から八百あります。これは減ることはなく、どんどん増えています。地域分権社会になり、以前は国の機関委任事務が県にあったのですが、多くの事務が基礎自治体に降りてきている。逆に、自治体の予算や人員は減っています。限られた人員と財源の中で、今の住民の満足を満たすには、市民の皆さんに協力してもらわないと、どうしようもない。行政は最大のサービス業と言われ続けていますし、市民の皆さんは顧客です。しかし、顧客の皆さんは株主でもある。皆さんにも少しでもお手伝いしていただきたい。これは ”顧客から協働者への変革” なんです。

上記コメントには全面的に共感する。問題は具体的手法とそれを持続的に継続できるパワーであろう。そのヒントを「福井モデル」の中に見つけることができるように思える。

しばらく前、用事があり市役所に出かけたところ、申請窓口のあるロビーにTVモニターが2台取り付けてあった。一台は受付番号を表示し、もう一台は地元の企業のものと思われるコマーシャル映像が流されていた。コンプライアンス上の問題があるのだどうかは分からないが、そのあまりに安易な手法に唖然とした。

直感的に、これはダメだろうと感じた。公と民の役割が混乱している。北陸三県の爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものだと思う。このように、今、我が町だけではなく多くの地方自治体が彷徨っているのではないかと想像する。しかし、「福井モデル」のことを思うと少しは希望が見えてくるような気がする。それが救いだ。

著者は、最終章で「すべての答えは、学校の授業にあった!」と提唱する。このメッセージは ”我が意を得たり” の想いがした。このことは我が国ばかりではなく、全世界の課題であろう。最後は「ヒト」の問題に帰着する。特に世界の辺境に位置するこの国においては。しかしながら、この国の辺境?から最先端の社会モデル、教育モデルが提唱されようとは何の縁なのだろうか。

98年にこの国が大きく変わったとの見解が専門家筋にあるという。山一証券の破たん、自殺者の急増、名目GDPのピークアウト、低賃金・非正規雇用等が98年から始まった。新しい時代をつくるには人材が必要であるとして、2000年にOECD(経済協力開発機構)がPISA(学習到達度調査)をスタートさせた。15歳を対象にした、思考力を問う、模範解答のないテストだという。

しかしながら、98年よりずっと以前から、福井県は中央に依存しない人材育成のための教育を行ってきたのだという。文科省の学力調査で、福井県の小中学校は常に一位か二位で、体育の全国調査でもトップに位置する。しかも、福井県は塾に通う子どもの比率が全国より低いのだという。学校の授業だけで成績上位を堅持しているのである。

ヨーロッパでいう中世の市民革命に失敗した。福井県の人は、戦国時代の信長による一向一揆の鎮圧をこう表現する。僧侶たちは信仰を守るために学校のような道場を始めた。そして、僧侶たちの説法を聞いて、語り合い、学ぶという習慣が残った。福井県の教育制度にはこうした歴史的背景があるのである。「福井モデル」については言うまでもない。

他の地方が「福井モデル」の形だけ真似て本物になるのは難しいだろう。しかし、真似からでも、やらないよりはやった方が良いに違いない。一つでも多くの地方が「福井モデル」の真髄を理解することが出来たなら、地方再生、さらにこの国の再生が見えてくるような気がする。

関連投稿:デフレと言われているが (2014/02/17)
     里山資本主義が日本を救う? (2014/01/10)

評価経済って?

  • 2015.04.07 Tuesday
  • 18:36
ずっと馴染みの薄い人物だったのだが、このところ Podcast のトークが面白く、著書も読んでみようと思っていた。その初めての本だ。

ぼくたちは就職しなくてもいいのかもしれないぼくたちは就職しなくてもいいのかもしれない
発行 株式会社ロケット Kindle 版(amazon

著者 岡田斗司夫 FREEex
1958年生まれ。社会評論家。FREEex主宰。84年にアニメ制作会社ガイナックス設立後、東京大学やマサチューセッツ工科大学の講師を経て、現在は大阪芸術大学客員教授。おもな著者は『いつまでもデブと思うなよ』、『評価経済社会』、『あなたを天才にするスマートノート』、『「世界征服」は可能か?』、『オタクの息子に悩んでます』、『「風立ちぬ」を語る』など多数。


やはり、ユニークで面白い。ユニークと言えば、著者は「評価経済」と言葉の発案者らしい。じぶんにとって、経済という言葉はとても悩ましい響きを持つ。興味をそそられるのだが、関連本を読んでも一向に腑に落ちない。経済は科学の一分野なのかということすらあやふやだ。少なくとも、自然科学とは一味もふた味も異なるものに感じられる。


いま、じぶんが一番納得できる経済の話は、落語の「花見酒」−花見酒経済 (2011/06/06)−の話である。養老孟司氏が『バカの壁』のなかで紹介している。八つぁんと熊さんが、花見でひと儲けしようと用意した酒を、二人で同じ銭をやりとして全部飲んでしまうという話である。モノとして目に見えるがその機能はバーチャルな存在である銭に振り回されてしまう。この話でリアルな事は、酒が無くなってしまったことと、八つぁんと熊さんの身体が酔っぱらってしまったこと。

これは何故か腑に落ちた。経済、少なくとも「貨幣経済」の真髄ではないかと思った。一般に、経済=貨幣経済という認識だと思うのだが、じぶんは経済という概念はもっと広いのではないかと思っている。岡田斗司夫氏は『ぼくたちは就職しなくてもいいのかもしれない』の中で、そのことを具体的に「評価経済」という形で表現してくれている。

今や、われわれの世代、いや著者の世代とすら、就職に関わる社会状況が変わってきているのだという。著者は仕事がら学生たちと接する機会が多い。就職した学生の中でかなりの人が半年、遅くても数年以内には辞めてしまうという。いつの間に、こんなに「仕事」で悩むようになったのか?と著者は問う。さらに、そもそも「働く」=「就職」となっていることがおかしいと、著者は言う。

本書は「就職しなくてもいいのかもしれない」と挑発的なタイトルとなっているが、結論から言えば、著者は「就職」しなくてもいいから「働け」と言う。時代が変わったのだと。

 いまもっともクレバーな企業は、少人数の創立メンバーが在宅で仕事をして、必要な作業はどんどん外注することです。マニュアル化してネットワークできるなら仕事なら、どんどん海外に出して、それを電子翻訳してこっちに反してもらえばいいんです。

こうして、日本国内に仕事がなくなってきて、会社は新人を雇わなくなり、人手を増やさなくなったという訳だ。

 これから先、「ふつうに大学を出たら、ふつうに就職できる」なんて夢にも思ってはいけない。1950年代から50年以上続いた「会社に就職するのが当たり前」の時代は終わりを迎えつつあります。就活・転活に絶望する前に、まずはこの事実を覚えておきましょう。

ということになる。でどうするかという話になるのだが。

 お金がありあまっている人にとっては「お金で解決する」ほうが近道でしょう。でも、何かが欲しくなったり、やりたくなったりするたびに「お金をどうしよう?」と考える大多数の人にとっては、「お金で解決する」のは、とんでもない「まわり道」なのです。

満足のコストを高くしてしまったこと、別名「貨幣経済」と呼ぶもの、じつはこれが「昭和経済成長」の原動力であり、お金が必要な最大の理由だと、著者は言う。さらに、お金は食べるために必要なのではなく、支出の七割は煩わしさを逃れるために使われるのだと主張する。

しかし、時代は変わった。経済活動のなかで、まるでお金のように評価が流通する社会、評価経済社会が到来した。例えば、農家は獲れたお米の一部を、親戚、知人、友人などにタダで配る。お米の2〜3割はタダで食べられるのだ。多くの人が「買って当然」と思っているのもが無料でやりとりされている。しかし、贈与には「評価」(ほめ)が伴うものであり、送られた方は何らか形でお返しをする。これが評価経済の基本。

「お金を動かさずに経済をまわす」、こうした経済が「評価経済」の完成形だと言う。この世界では「お金持ち」は決して優位な人ではなく、むしろ「お金しか手段をもたない、かわいそうな人」ということになる。しかし、著者は「貨幣経済」は弱体化すると見ているが否定しているわけではない。

さて一般的に、このような著者の見解を簡単に容認できるかとなると別問題となる。しかしながら、じぶんは刮目すべきであると考える。原理主義化している貨幣経済がさまざまな問題の温床になっていることは間違いない。まずはそのことを認識すること、そしてその呪縛から逃れるために行動を起こすこと。そういう意味で著者の提唱には耳を傾ける価値がある。そして、著者自らの生き方であり、かつ読者に推奨する ”仕事のあり方” が面白い。

それが「五〇種類の仕事をしよう」という一見非常識な提案。これは著者自身が実際に実践していることらしい。著者は、目先の稼ぎよりも他者から感謝され評価されることのほうが価値があると考える。評価を集めて、その評価の使い道を考えろ、と著者は言う。

 他人とのつながりをつくれなかった人は、頼れる親に最後まで依存することになる。
 ネットなどでつながりをどんどん評価できる人は、親や地域からも自由になれる。
 広大なネットの海で、会ったこともないだれかからサポートを受けられる世界がやってきたら?
 「かわいげ」のある人は、いろんなサポートを受けることができる。
 「かわいげ」のない人は、自分のチカラだけで生きていかなくてはならない。
 いまや「かわいげ」は、ビジネススキルや資格よりも「生き残り戦略」にとってずっと重要な要素になりつつあります。


さて、五〇個の仕事をやるということ。著者はその歴史的な例として「百姓」をあげる。これは農民のことではなく「百の職業をもつ人」という意味だという。農作物をつくる、草鞋もつくる、行商もやる、他所の家の手伝いにもいく。これに対して武士は「単職」だったというのは卓見だと思う。確かに、多くのサラリーマンと同じだ。「就職」しか道がない。

 三万円くらいの仕事が十個、月に一万以下の仕事が十個、まったくお金にならない仕事と、じつはもちだしのほうが多い仕事、合計で五〇個ですね。
 これらの仕事は毎月毎月ギャラがもらえるわけではない。いえ、そもそも仕事自体があるわけではない。さっきも言ったように波ですから、大きいときもあれば小さいときもあるのです。
 ただし、どんな波が来ても、これだけ多くの仕事をこなしていれば、絶対にその人はやっていけます。たくさんの仕事をマネージメントしているのですから。


という仕事のやり方なのだが、じぶんも含め、サラリーマン生活どっぷりだった者には頭がクラクラしそうな話だ。しかし、現実にこれに近い生活をしている人たちもいるということで、何より著者自身がそんな仕事の仕方をしているというのだから現実味がある。

実際、本書もそんな中から生まれたものらしい。本書の著者は ”岡田斗司夫 FREEex” となっている。著者は、この「FREEex」が本書のテーマ「就職しない生き方」の一例だと言う。「FREEex」とは「年に十二万円払って、岡田斗司夫を助ける組織」であり、そして見返りは、「岡田斗司夫と仕事ができる」「岡田斗司夫でビジネスができる」こと。メンバーは、各人が「岡田斗司夫のコンテンツを利用して、ビジネスを展開する」外郭団体をつくることができる。だれでも起業できて、ビジネスの練習や実戦経験を積むことができる、それが「FREEex」の目的の一つであるという。

一般人にそのまま真似できるわけではないが、こんな現実があることを知るだけでも刺激的だ。本書の解説を執筆した「FREEex」のOB横山哲也氏は、「FREEex」について次のように解説する。

 「FREEex」メンバーは年間十二万円を岡田斗司夫氏に支払う(実際には岡田斗司夫氏の経営する会社が提供する研修費として計上する)。「FREEex」のメンバーは三年で「卒業」するが、常時百人を超えるメンバーがいるため、生活費はこれで十分まかなえる。そのため、岡田氏は自分の好きな仕事を無償で行うことができる。簡単に言えば、株式会社式のパトロン制度である。

「FREEex」の試みは、2010年から開始されており、試行錯誤をくりかえしながら現在に至っている。誰でもすぐにできるというものではないが、著作やアートの世界では、これからの働き方の選択肢になるだろう、と横山氏は締めくくる。

やはり、経済に対する考え方を大きく見直す時期に来ているのかもしれない。いま、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)が注目されている。

______ AIIBの創設メンバーに世界52の国と地域が申請している。その中には英国 など米国の同盟国も少なくない。中国人民銀行の元顧問は、加入しないよう米国が呼びかけたにもかかわらず米国の同盟国がこぞって参加したこと、これは米国 以上に中国にとって驚きだったとコメントしている。
中国にとっては大きな外交的な勝利となったが、中国経済の実力が認められたこと、さらに従来の国際的金融機関ではアジアのインフラ建設需要をまかないきれないことを示すものだと同紙は指摘している。


ネット上にあったニュース記事だ。日本も参加すべきか否かで喧喧諤諤だった。まったくの素人の感覚なのだが、こういうニュースを見ると何か ” 嘘っぽい ” 感じが拭えない。本当に、未だこういう時代が続くのだろうか。

本書の中で、著者は貨幣経済社会を幕末に喩えているが、各国首脳たちの様子が徳川幕府の老中たちにも思えてくる。しかし、時代の幕引きの役割は非常に重要な仕事である。優秀な人材が不可欠なのである。関係各国の首脳たちの中に、ぜひ、そのような人物が存在することを願う。

シニアは社会にどんな航跡を残すべきか

  • 2014.11.07 Friday
  • 20:30
時折、何かと世間を騒がせているシニア世代だが、藻谷浩介著『デフレの正体− 経済は「人口の波」で動く』(amazon)を読みなおして、改めて ” 第二の人生 ” の在り方を見つめ直している。
参照:デフレと言われているが (02/17)

以前シニア世代の生活と言えば、「悠々自適」という表現がぴったりというムードがあったのだが、だんだんとそう言うわけにもいかないという雰囲気になってきた。じぶんがこのブシニア夫婦ログを始めたのも、定年を目前にして、我らの定年後の生活が何か洋々たるものには思えなかったからで、ちょっとは真面目にじぶんの、自分たちのライフスタイルを考える責任があるのではと思ったからである。

人生は ”まま” ならぬ、とは古くから語られていることだが、定年後七年を経て、第二の人生も又同様に”まま” ならぬとは何とも悩ましい。しかし、”まま” になっている方々もおられると思うので普遍的現実とは言えないかもしれないが、じぶんと同じ思いをしているご同輩の方々が多いのではないかと推測する。

旅行、グルメ、スポーツ、趣味を中心にしたライフスタイル、これも楽しかろうとは想像できるのだが、家庭環境などの制約も多かろう。たまにしか見ないTVだが、シニアの生活を紹介している番組も多くなったような気もする。田舎生活などが紹介されている。これも初めから志があって田舎生活を始めるのであれば良いかもしれないが、何となく物見遊山で移転でもすれば後悔するのがオチだろう。

メディアで、第三者の人生がどれほど豊かなものに紹介されていようと、結局、じぶんには関係ない。それが現実だろうと納得している。しかし先日、たまたまTV番組で、大分県の姫島の港に係留しているヨットが紹介されているのを見た。オーストラリアから来た七十歳代の夫婦が所有するもので、しかも14年かけた手作りの艇だという。

もう一艘のヨット、こちらも七十歳代の夫婦のものなのだが、彼らは一緒に世界を回っているのだという。ほとんどヨットが住居の生活で、時間に制約のないノンビリ(?)としたクルーズのように思われた。これには刺激を受けた。ヨットは長年の経験が必要と思われるので、思い立って直ぐに出来ることではないが、その ”メンタリティ” に惹かれたのである。

ヨット

クルーズと言っても、リタイアした七十代の夫婦のものである。スポーティなものとは思えない。TVの映像の印象からも、ゆったりとした時間が流れているのが感じられる。寄港地に着いたからといって、追われるように観光に出かけるという雰囲気もない。次はシンガポールに向かうらしいが、到着は何ヶ月か先というぐらいの緩やかさだ。

海が荒れるの心配だが、今はIT機器が発達しているので、クルーズも嘗てほど危険なものではないのだろう。国内でも、キャンピンカーで陸のクルーズを愉しむシニアを見かけるようになったが、如何せん陸は世間に近すぎる。と言って、外国の陸上は海に比べてなお危険なような気もする。

シニアの人生には「終の棲家」という観念が不可欠である。これは必ずしも「家屋」ということを意味しない。そのことを、ヨットを住処とする老夫妻らを見てつくづくと思った。彼らにとって、アジア、世界の海が住処なのである。

このクルーズ生活にはいろんな課題がある。ヨットの入手、技能・関連知識の習得と修練、そして健康面・経済面の問題などが考えられる。しかし、一番の要因はメンタリティーのような気がしてならない。

ヨットという風任せの航行、寄港地での充分すぎる余暇、たまにはハレの日もあろうが、多くは自由にまかせる静かに流れる時間となろう。この中を生きる能力(性格)が要求される。しかし残念ながら、これは老若を問わず、ほとんどの現代人に欠如している能力と言わざるを得ない。

しかし、だからこそ、シニアがそのようなライフスタイルを志向することに意味があると思う。多忙な現役世代に代わり、自分たちの資産(時間とお金)を有効に使って、次の時代の生き方を模索する。これはシニアにとって、人類にとって、貴重な試みになるであろうことを信じたい。

せめて、じぶんも、シニアヨットマンのメンタリティーに出来るだけ近づけるような人生を送りたいと願う。シニアの福祉と年金だけが注目される近頃だが、高齢化社会は人類全体の課題として、現代の社会通念から離れた視点で考えてみることも必要なのではないか。本当に解決への途はそんなところから見つかるのかもしれないのだから。

関連投稿:権利教育の提案 (2014/08/23)

権利教育の提案

  • 2014.08.23 Saturday
  • 17:22
前回は、出産や子育てで退職した女性をキャリアアップするための、文科省の「学び直し」施策について投稿した。今回はその続きだ。定年を迎えようとする頃からシニア世代の「学び直し」について関心があった。現在、この国の年齢構成の中で60歳以上の占める割合は30%、65歳以上でも20%を占める。一人ひとりの状況はまちまちだろうが、マクロで見れば社会の大問題であることは間違いない。

このシニア層をどう考えるかで国の未来が変わる。この国では、子供たちの小中学校の義務教育でスタートする。そして、子供たちは社会へと巣立ち、やがて定年を機に社会の第一線を卒業していく。この卒業後の世代の層が、人口的にも、所有する資産的にも無視できない事態になってきている。しかし、このことへの自覚はまだまだ欠如している。それには、このシニア層の再生しかないと考えられ、その最も効果的な施策は「学び直し」であると確信する。

50歳になった国民は等しく国の「学び直し」教育を受ける権利を有する。これがじぶんが提唱する新しい教育制度である。社会への入り口で受ける「義務教育」に対して、社会を一旦リタイアすることを前提に自分の人生を見直すために全国民が有する権利ということで、「権利教育」という名称が適当かもしれない。しかしながら、国の制度として成立されたとしても、実際の運用は広く民間の力を活用することが不可欠になるだろう。これは現行の教育制度と同じである。

この制度化による社会への影響(経済も含めて)は大きいと考えられる。少子化で経営が困難な全国の大学、専門校の活用が考えられる。また、民間企業内においても、定年前に「権利」を行使しようとする社員が出てくるだろう。企業も、国民の権利行使ということで、何らかの社内支援が求められることになるだろうが、これは必ずしも企業にとってマイナスだけにはならないはずだ。「学び直し」後に、社員が早期退職を選んだとしても、引き続き勤務を選んだとしても、企業の活性化という面で多大な貢献となるはずだ。

このような制度を妄想していた頃、一つの具体的な事業をイメージしていた。それは PEACE BOAT の活用である(これも妄想?)。豪華客船によるクルージングが話題の今日この頃だが、個人的に、クルージングには全く異なる視点で関心がある。クルージングは「学び直し」に最強のツールではないかと考えているのである。

ピースボート
http://www.peaceboat.org

そもそも PEACE BOAT はNGOであり観光目的のクルージングだけではなく、様々な活動をしてきているはず。評価もいろいろあるようだが、個人的には評論できる立場にない。クルージングと「学び直し」に限って話をすすめれば、クルージングは一つの閉ざされたコミュニティを強制的に形成するので、短期間(1〜3ヶ月間)で集中的にラーニング、トレーニングを行うには最適な環境を構築できる。

二十世紀の中頃、「宇宙船地球号」(wikipedia)という概念が話題になった。建築家・思想家、バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)によって提唱された概念・世界観である。「地球は、文字どおり宇宙空間に浮ぶ宇宙船で,そこには 40億(今は70億)の人間がひしめき,核戦争,人口爆発,環境汚染,資源枯渇の危機にさらされている」とする世界観、これは今世紀の今も変わらぬテーマであり続ける。

シニア世代の「学び直し」のテーマとして最適であるように思う。しかも、クルージング・ボート自体を「宇宙船地球号」に擬えた「学び」ができる。クルージング・ボートというコミュニティを維持するのにどれほどの組織、マンパワー、そして食料・エネルギーを必要とするか、そして自然・社会環境がコミュニティに与える影響がどれほどのものなのか、を実体験を通して学ぶことができる。こんなベストの学びの環境はない。

文科省の女性キャリアアップのための「学び直し」政策の話から、かつての個人的な妄想まで話が至ってしまった。今回、改めてじぶんの考え(妄想)を見直してみたが、構想としてはまだまだ賞味期限は切れてないなと感じた。

資本主義は終焉するのか

  • 2014.08.05 Tuesday
  • 18:25
経済の本質に少しでも近づいてみたいと思い、新書版だが関連する本を何冊か読んでみた。中には放送大学のテキストという異色なものもあったのだが、結局は、スッキリと整理された結論には至っていない。困ったことに、難しくて分からないのか、他の別の理由があるのかさえはっきりしない。

今回の水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』は、著者の「利子率」という視点が新しいことと、大きな歴史の中に経済(資本主義)を捉えており、今までの啓蒙書とはまた趣の異なるものに感じられた。多くの著名人の推薦のコメントもある。ノンフィクション作家 溝口敦氏の「簡単な新書ながら大著に匹敵する内容」との表現は、いつも新書本中心のじぶんにはエールに聞こえた。

資本主義の終焉と歴史の危機資本主義の終焉と歴史の危機
集英社新書(amazon
2014年3月 第一刷
2014年7月 第九刷

著者 水野和夫
1953年、愛知県生まれ。日本大学国際関係学部教授。埼玉大学大学院経済科学研究科博士課程修了。博士(経済学)。三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミストを経て、内閣府大臣官房審議官(経済財政分析担当)、内閣官房内閣審議官(国家戦略室)を歴任。主な著作に『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』、『超マクロ展望 世界経済の真実』


本書に「経済覇権国の金利の推移」の図が掲載されている。この図には、1350年から現代までの金利の推移が描かれている。この図と共に、『金利の歴史』(シドニー・ホーマー、リチャード・シラ著)という書の紹介に唖然とした。この書には、紀元前3000年のシュメール王国から現在に至るまで5000年の世界主要国の金利が記載されているという。何を元にどのうように計算されたのかは分からないが、こんなことが可能であるということに驚いた。また、「利子率」に対する概念が変わった。金利は近代経済の発明ではなく、古くから人類の活動にとってより根源的な概念として存在していたわけだ。

 しかし、十二世紀を通じて貨幣経済が社会生活全般に浸透するようになると、イタリア・フィレンツェに資本家が登場し、金融が発達し始めるのです。メディチ家のような銀行は為替レートを利用してこっそりと利子をとっていました。利子とは時間に値段をつけることです。したがって、利子を取るという行為は、神の所有物である「時間」を、人間が奪い取ることにほかなりません。(157ページ)

資本主義の始まりには諸説あるようだが、著者は、利子が事実上容認された十二〜十三世紀のイタリア・フィレンツェに資本主義の萌芽があったとの説を採る。1215年のラテラノ公会議で利子が容認されることになるのだが、「教会は、西欧では33%が貨幣の<正当な価格>の認可ギリギリの線だと認めた」(ジャック・アタリ『所有の歴史』)とある。

著者は、十二〜十三世紀の市場金利は10%程度なので、33%を「正当な価格」とするのは「過激」「強欲」であり、このメンタリティは現在の資本家にも通じると言う。こうして資本主義が始まった。著者はこの「利子率」を通して資本主義の未来を占う。十七世紀初頭、ジェノヴァでは金利2%を下回る時代が11年間続いた。そして、400年ぶりに、日本の10年国債利回りがジェノヴァの記録を更新し、2%以下の超低金利が20年近く続いているのだという。

著者は、金利は資本利潤率とほぼ同じであり、資本を投下し利潤を得て資本を自己増殖させることが資本主義の基本なので、極端に低い利潤率はすでに資本主義が資本主義として機能していないことの証だと言う。400年前、どのようにして資本主義の危機を乗り越えたか。それは「空間革命」だという。覇権が「陸の国」スペインから「海の国」(海という「空間」を創造した)イギリスに移った。十六世紀〜十七世紀の資本家たちは、投資先をスペイン、イタリアからオランダ、イギリスに変えて繁栄を続けることができた。

資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム。著者による解釈だ。これによれば資本主義の発展には「地理的・物的空間」の拡大が不可欠となる。しかし、もはや地球上のどこにもフロンティアは残されてはいない、と著者は言う。

しかし1971年、アメリカは全く別の「空間」を生み出すことで資本主義の延命を図った。ITと金融自由化を結合した「電子・金融空間」の創造だ。その結果、1995年からリーマン・ショック前の2008年の13年間で、「電子・金融空間」に100兆ドルものマネーが創出されたという。ヴァーチャル空間であるが故に、無制限にレバレッジが働いてしまったということか。しかし、このアメリカの金融帝国も、2008年のリーマン・ショックで崩壊した。

もう資本主義は限界だ、と著者は言う。世界の現状はと言えば、グローバリゼーションのかけ声の下、資本主義の延命が図られているが、そもそも、グローバリゼーションとは「中心」と「周辺」の組み替え作業であって、ヒト・モノ・カネが国境を自由に越えて世界を繁栄に導くなどといった言説は妄想である、と著者は言う。

 二〇世紀までの「中心」は「北」(先進国)であり、「周辺」は「南」(途上国)だったが、二一世紀に入って「中心」はウォール街となり、「周辺」は自国民、具体的にはサブプライム層になるという組み替えが行われました。中間層が没落した先進国で、消費ブームが戻ってくるはずがありません。(60ページ)

しかも、この現象は先進国のみならず途上国も同様であるという。世間には世代交代論が久しい。覇権国が変わる、つまり世界を牽引する機関車が変わるという話なのだが、著者の解釈ではそういう次元の話ではないということになる。途上国が発展して世界を引っ張るということにはならないということだ。途上国は途上国で、国内に南北問題を抱えることになる。

 あらかじめ富める人の定員は15%しかないのが資本主義ですが、曲がりなりにも今日まで存続してきたのは、その過程で資本主義の暴走にブレーキをかけた経済学者・思想家がいたからです。『道徳感情論』でお金持ちがより多くの富を求めるのは「徳の道」から堕落すると説いた一八世紀のアダム・スミス、『資本論』で資本家の搾取こそ利潤の源泉であることを見抜いた一九世紀のカール・マルクス、失業は市場で解決できるとはせず、政府が責任をもつべきと主張した二○世紀のジョン・メイナード・ケインズらが近代の偉大なブレーキ役でした。(169ページ)

では、どうすればいいのかという話になる。著者は、それは「定常状態」(ゼロ成長社会)にあると言う。しかも、この「定常状態」の維持を実現できるアドバンテージを持っているのが、世界でもっとも早くゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレの突入した日本なのだという。しかし、ゼロ成長の維持には、成長の誘惑を断って借金を均衡させ、さらに人口問題、エネルギー問題、格差問題などに対処していかなければならない。それには、旧態依然の金融緩和や積極財政に比べてより高度な構想力が求められる、と著者は強調する。

さて、じぶんには、著者の説にどれほどの<力>があるのかは判断できない。しかし、中国が次の覇権国になるというような単純な説に比べれば、遥かに正当性を所持しているように思える。このところ多少諦め調の「経済を学ぶ」だったが、本書を読んで、またもう少し勉強してみようかなという気になってきた。


補足 − 金融緩和の背景にあるのは「貨幣数量説」だという。貨幣の流通速度が長期的には一定のもと「貨幣の数量が物価水準を決定する」という理論。Mv=PT(Mは貨幣数量、vは貨幣流通速度、Pは物価水準、Tは取引量)と表記される。経済のはなしで、このような式にお目にかかると、いつもある種の戸惑いを覚える。物理理論の式と同等に扱えるものなのかが分からないからである。本書では、著者が、現状では本説は有効ではないと語る。じぶんには、まだ、経済学など社会科学の中で数学の占める位置・役割が理解できていないように思える。しかし、これが経済に対する理解を困難にしている要因の一つかもしれない。

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