ファンタジックなやまい(病)のはなし

  • 2017.02.20 Monday
  • 14:17

安保徹著『人がガンになるたった2つの条件』(講談社)

 

著者の数ある書の中から偶然選んだ本だが感動ものだ。「どうしてガンになるのか」というのがテーマなのだが、これはガンというより生命がテーマの本だと思う。そしてこれは著者の他の本でもきっと同じ印象を受けるのではないかと想像する。そこには著者の一貫した思想が流れていると考えるからである。

 

結論から言ってしまえばガン(他の病気も同じ)は低体温と低酸素によって引き起こされるというのである。そして、ここで”引き起こされる”と悪いイメージで表現してしまったが、本当はガンは体が生きるための自然な適応反応であり決して間違いでできた細胞ではないと言う。さらに低体温・低酸素の主たる原因は過剰なストレスであると説く。

 

著者はこの現象を38億年前の原始細胞にまで遡り解説していくのだが、これが実にファンタジックな物語なのである。生命の発生時の地球は未だ酸素がなく原始細胞(嫌気性)は食べ物の栄養素(糖質)だけでエネルギーを作り出せるシステムだった。そして後に地球上に酸素の量が増えてきた環境の中で酸素からエネルギーを作り出す新たな生命体である好気性細胞が誕生する。ミトコンドリアはその仲間なのである。

 

 私たち生命体としての人間は、もとをたどれば一個の細胞からなる単細胞生物にすぎませんでした。それが長い年月をかけてこの地球の環境に適応していくなかで、エネルギー工場であるミトコンドリアが新たに備わり、多細胞化し、組織器官が作られ、大型化し・・・・・ここまでの進化を遂げてきました。

 

二十億年前、嫌気性の原始細胞と好気性のミトコンドリアがウィンウィン(win-win)?で合体(ミトコンドリアが寄生するかたちで)する。そして十二億年前に我々の祖先となる安定した真核細胞が誕生しさらに多細胞化していく。こうして我々人類が誕生しその細胞内には解糖系とミトコンドリア系の二つのエネルギー工場を持つことになった。

 

この二つのエネルギー工場を持ったことが生物の進化をもたらしたわけだが、一方で無酸素で繁殖できた原始細胞が持つ不老不死の生態を失う。しかし著者は、人類がこの二つのエネルギー工場をもっともバランスよく活用できる生命体なのだと解説する。しかしこのアンバランスが病気(ガン)を発生させるのだと言う。

 

こうした著者の説は現代医学の常識ではないのかもしれないが医学素人のじぶんにはとてもリアリティのある話に感じられた。著者が実績ある研究者であるということもその根拠だが、著者の説の物語性がじぶんにとってリアリティの要因として大きいのではないかと思われる。医療の側面からみるとやはりエビデンスが重要になってくると考えられるので、著者が昨年12月に急逝されたのは誠に残念なことである。

 

じぶんと同じ1947年生まれで親しみを覚える一方で、ネット上に著者の説を危ぶむ意見が散見されることも認めなければならないだろう。しかしながら、じぶんにはまだまだ活躍が期待される人物ではなかったかと思われるのである。

 

本書には「ガンにならない八つのルール」が書き記されている。医学的根拠は確立されてはいないのかもしれないが、ガン(病気)の最も根源にあるのは「生き方(考え方)」 であるという著者の思想が表れているように思われる。

 

1.心の不安やストレスに目を向ける

2.頑張りすぎの生き方を変える

3.息抜き・リラックスの方法を見つける

4.身体を冷やさない工夫をする

5.暴飲暴食はやめて体にやさしい食事をする

6.有酸素運動生活を取り入れる

7.笑いや感謝の気持ちを大事にする

8.生きがい・一生の愉しみ・目標を見つける

 


 

人がガンになるたった2つの条件

2012年4月 発行(講談社_Kindle版:amazon

 

著者 安保 徹

1947年(〜2016年12月)、青森県に生まれる。医学博士。新潟大学大学院医科歯科総合研究科教授。1972年、東北大学医学部卒業。米アラバマ大学留学中の1980年、「ヒトNK細胞抗原CD57に関するモノクローナル抗体」を作製、「Leu−7」と命名。1989年、「胸腺外分化T細胞」を発見し、1996年には「白血球の自律神経支配のメカニズム」を解明するなど、数々の大発見で世界を驚かせる。著書には『病気は自分で治す』、『「薬をやめる」と病気は治る』、『免疫革命』など多数。

生命を知る

  • 2017.02.09 Thursday
  • 12:00

前回が「AI」で次が「生命」(心と体)のはなし。AIを知るというのは結局人間という生命体を知ることにほかならないわけで、切り離せないテーマということになる。さらに、今月の初めにちょっと風邪?で体調を崩してしまい、新年早々のインフルエンザ騒ぎに続き、この所風邪で37度を超える熱を出すようなことがなかったので、少し戸惑って身体/健康のことが気になっているところなのである。

 

しかしながら、昨今の健康に関する出版本の多さには驚く。その内容もさまざまで、どれを信じていいものやらと迷うようなタイトルの本が次々に出版される。このことに関しては、今はじぶんなりの結論?を持っていて、実際は迷ってはいない。「それらすべてが正しい」と思うことにしている。すべてに一理あるのだと納得しているのである。

 

例えば、肉食を勧める著者と反対の著者がいるが、肉食中心、野菜中心、さらに半々と、じぶんは食生活にも多様性を認めるのが現実的と考えるのである。一人ひとりが自分の身体と心に相談して決めればいいと思っている。去年は不食という生き方があることも知り、これほどまでにこの世界はダイナミックな存在なんだと確信した。だから、健康法もバラエティに富んでいるのが当然で、まして” 思えばそうなる ” ということもあり得るのだと考えている。

 

しかし、じぶんはこれらの健康法の本よりも、より生物学的な側面に重点を置いた本に興味がある。健康法も多様だが、生物学/医学も本当は多様性に富んでいるのが現実ではないかと思っている。しかしながら一般には、ある偏った説が正しい常識として信じられているのが実情だろう。今、『人がガンになるたった2つの条件』(安保徹著:講談社)を読んでいる。ネット映像で科学者・武田邦彦氏が著者・安保徹を紹介しているのを見て、アマゾンを検索して取り敢えず本書を選んだ。

 

常識というものはコミュニティ(家庭を含む)がスムーズに機能するために必要な要因であると考えられるのだが、時に、コミュニティ進化の阻害要因になる。科学者・武田邦彦氏はいつも常識外れ?の考え方を提示してくれるので、その正当性は別にして希有な人物である。安保徹は昨年の12月に逝去されているが、免疫学の権威だった方であることを初めて知った。『人がガンになるたった2つの条件』は読み途上だが、非常識で魅力的な説が記載されており刺激的である。

 

ホメオスタシスという生物学の用語がある。恒常性と訳されるが、体温を一定範囲に保つなど重要な役割を持つ機能である。しかし免疫などの場合、この作用の過不足が問題になると言う。不足すれば感染症に侵され、過剰だと自己を破壊してしまう。やっかいで悩ましい問題だが、我らの「常識」も社会のホメオスタシスの任を担っているのだろうか。ただ常識については、その働きが常に過剰気味ではと危惧しているのだが。

 

机に、未読の『日本人の9割が知らない遺伝の真実』(安藤寿康著:SB新書)がある。著者が「岡田斗司夫のPodcast」にゲスト出演しているのを聞いて早々に入手した。こちらの先生も非常識?な方の様子でとても期待できる。著者は、才能、収入にも遺伝がかかわっていると主張している。世間では努力が一番ということになっていると思われるのだが、しかし、著者のこの主張は現実に皆うすうす感じていることなのではないだろうか。

 

さらに、PODCAST(「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」)で紹介されていた『生命記憶を探る旅:三木成夫の生命哲学』(西原克成著:河出書房新社)にも強い興味を覚えており、ぜひ本書も入手して、と言うより積んどかないで読み通したいと思っている。そして、これらの書は、昨夜散歩の途中に立ち寄ったTSUTAYAで目に留まった『ビッグヒストリー』(日本語版監修 長沼毅:明石書店)とか、先月ネットで知った『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著:河出書房新社)に対する興味へとつながっていく。

 

関連投稿: 「生命記憶」ということば (2011/07/16)

AI を知る

  • 2017.02.02 Thursday
  • 16:58

苫米地英人著『認知科学への招待』(サイゾー)

 

昨年はずいぶんとAI( artificial intelligence :人工知能)が話題になっていたような印象がある。将棋でプロがAIに負けたとか、車の自動運転技術の実用化等が争点になっていたが、もっともマスコミ受けしていた話題は ”AIの普及で人間が失業する” というようなことだったと思う。

 

しかし、なぜ急にマスコミはAIに注目し始めたのだろうか。昨年は多くのAI関連本が出回っていたのは確かだ。しかし、マスコミと出版の関係は鶏と卵のような印象もある。どっちが仕掛けたのかは分からないが、どちらにしても、社会的に機が熟してきたということなのだろう(?)。

 

AIという用語が作られたのは1950年代ということで結構歴史がある。じぶんがAIという言葉を知ったのは、日本が国家プロジェクトの一つとして第五世代コンピューター開発に取り組んでいた頃の80年代だと思う。ちょうどパーソナルコンピューター(PC)が普及を始め、個人的にも初めてPCに触れることができた時期と重なっている。

 

しかしながら、AIは永年夢のまた夢という感じで小説や映画の中だけの存在だった。だが、今思えば、あっという間にPCの能力が向上し、さらに世界的なデジタル通信網であるインターネットが普及したことにより、AI開発環境の様相が一変する。世界中の研究者、技術者がインターネットを通じて情報交換、共同研究できるという環境が整備され、結果としてAIの開発を促すことになったのではないかと想像するのである。80年代には予想もしなかった急激な社会環境の変化である。

 

昨年出回った多くのAI関連本に関しては、実は未だどれも読んでいない。生活にかまけて読書が進まないので買う気にならなかったのである。しかし興味をそそるテーマであることは間違いない。ただ失業など、社会問題に着目した記事にはちょっと過剰にすぎる反応ではないかとの印象を受けた。

 

もちろん、AIが普及することになれば「ロボット工学三原則」(wikipedia)にあるような思想など、議論すべき社会的テーマが存在することは言うまでもない。ただ、今、じぶんがより関心を寄せるのはAIのベーシックな部分なのである。そういう意味では、ドクター苫米地の『認知科学への招待』はジャストミートだった。

 

2014年1月初版で、著者は「まえがき」にもAIの啓蒙書であるようなことは唱っていない。著者の意図は認知科学の啓蒙にある。しかし、本書の内容はAIの原理(思想)そのものと言っても過言ではない。つまり、「 AI ≒ 認知科学」 と考えても間違いではないということである。もっとも、著者は最終的に認知科学というパラダイムだけではAIの問題は解決しないという考えに立っている。

 

著者によれば、認知科学は人間の心を含めた知能の働きを探る学問で、まず哲学、心理学の分野で発展が見られた。心理学で中心的な考え方であった実験主義とか、行動主義の行き詰まりに呼応して認知科学が出現、心とか脳の機能に着目し「機能主義」(Functionalism)などと呼ばれた。

 

そして、この「機能主義」の特徴として、心とか脳の働きを「Function」つまり「関数」で表現できると考えることがある。そして、この特徴はコンピューターとの高い親和性を物語るのである。つまり、心と脳の働きをコンピューター内に作り上げるという研究スタンスなのである。そのままAIの研究開発に繋がることになる。

 

そもそも、著者の研究者としての出発点は人工知能に対する興味であったという。そして、アメリカ留学を志して認知科学に出合うことになる。アメリカで、著者は認知科学の巨匠であるロジャー・シャンク、マービン・ミンスキー、ノーム・チョムスキーに直接、あるいは間接的に教えを請う機会を得る。

 

ドクター苫米地の著者には長〜い著者略歴が記載されている。ふつうだったらイヤミに感じるところだが、じぶんはいつも眺めながら愉しんでいる。専門分野は機能脳科学、計算言語学、認知心理学、分析哲学、計算機科学、離散数理、人工知能、さらに天台宗ハワイ別院国際部長、そして自己啓発の世界的権威、故ルー・タイス氏の顧問メンバーとして能力開発プログラム「PX2」「TPIE」を日本向けにアレンジ、普及に努める。

 

理由も分からず、じぶんはドクターの「著者略歴」にも意味があると思ってきた。そして、本書『認知科学への招待』を読んで、その意味が分かったような気がした。著者は、本書でマービン・ミンスキー著『The Society of Mind (邦題:心の社会)』を紹介し次のように評価している。

 

 また、本全体の構成自体が、ニューラルネットのように、一つひとつ項目が密接に絡み合って、クモの巣のようになっていると言っています。

 「心とか知能というものは、単調論理では説明できない。だから、本書の構成自体も非単調論理で書くことにした」と宣言しているわけです。

 ある意味、潔い覚悟で書かれた本だと思います。

 もっとも、私の本も同じように非単調で書いているつもりですし、もっと言ってしまえば、それは一冊の本の中だけでなく、私の著作どうし、あるいは世の中のあらゆる本と密接に絡み合って、クモの巣のようになり、大きなゲシュタルトを形成していると言えるでしょう。

 読者のみなさんも、そこに気付いていただくと、本から得られる情報が一気に爆発的に増えるのではないかと思っています。

 

著者略歴に記載してある著者の多くの研究テーマもこの事に関連しているのではないかと思うのである。一つのテーマ(視点)からでは説明できない。心とか脳はそんな対象なのではないか。

 

AIには解決不能に見える「フレーム問題」が存在する。ロボット(AI)が膨大な計算処理に追われてストップ(フリーズ)してしまうという問題である。人(脳)は当面必要なものと不要のものを簡単により分けてしまうがAIにはそのことが簡単ではない。

 

著者は、本書で仮に「レストラン・フレーム」というものを例にあげて説明している。人はあらゆるバリエーションの店をレストランであると判断できるが、AIが判断に要するためのデータは無限?に出現してくるので切りがない。このような状態から抜け出すには新たなパラダイムが不可欠であるとして、著者は「超情報場仮説」を提唱する。

 

この世界は3次元の物理空間ではなく、高い抽象度を持った「場」である、というのが著者の主張である。著者はこれを「超情報場」と名付けた。人には五感とは異なる感覚器が備わっており、「超情報場」に書かれた「レストラン」という情報を読み取ることができるというわけだ。AIはいつかこの抽象度の高い世界に達することができるのか。著者は、今は誰にも分からないとしながらも、どちらかと言えば否定的だ。

 

著者は記述してはいないが、著者のパラダイムに寄れば、AIが普及することにより人がお払い箱になるというようなことは杞憂に終わるのではないか。個人的には、今後もさらにAIの進化が進み社会的対応策が不可欠になってくると考えており、失業も問題になってくるかもしれない。しかしそのことよりも、人と社会の人間性を高めること - 芸術性、宗教性の追求 - に視点を移していくことの方が肝心なのではないかと感じている。人とAIの共生に向けて。

 


 

認知科学への招待

発行 2014年1月 螢汽ぅ勝次amazon

 

著者 苫米地英人

1959年東京生まれ。認知科学者(機能脳科学、計算言語学、認知心理学、分析哲学)。計算機科学者(計算機科学、離散数理、人工知能)。カーネギーメロン大学博士、同CyLab兼任フェロー、株式会社ドクター苫米地ワークス代表、コグニティブリサーチラボ株式会社CEO、角川春樹事務所顧問、中国南開大学客座教授、苫米地国際食糧支援機構代表理事、米国公益法人The Better World Foundation 日本代表、米国教育機関TPIジャパン日本代表、天台宗ハワイ別院国際部長、マサチューセッツ大学を経て上智大学外国語学部英語学科卒業後、三菱地所へ入社。2年間の勤務を経て、フルブライト留学生としてイェール大学大学院へ留学、人工知能の父と呼ばれるロジャー・シャンクに学ぶ。同認知科学研究所、同人工知能研究所を経て、コンピューター科学の最高峰と呼ばれるカーネギーメロン大学大学院哲学科計算言語学研究科に転入。全米で4人目、日本人としては初の計算言語学の博士号を取得。帰国後、徳島大学助教授、ジャストシステム基礎研究所所長、同ピッツバーグ研究所取締役、ジャストシステム基礎研究所・ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院NMRセンター合同プロジェクト日本側代表研究者として、日本初の脳機能研究プロジェクトを立ち上げる。通商産業省情報処理振興審議会専門委員なども歴任。現在は自己啓発の世界的権威、故ルー・タイス氏の顧問メンバーとして、米国認知科学の研究成果を盛り込んだ能力開発プログラム「PX2」「TPIE」などを日本向けにアレンジ。日本における総責任者として普及に努めている。著書多数。

星の王子さま_ぼっちの発見

  • 2017.01.27 Friday
  • 21:35

サン=テグジュペリ作・内藤濯訳『星の王子さま』(岩波書店)

先月入手した『星の王子さま』を読んでみた。箱根の「星の王子さまミュージアム」は、実際は子ども向けではなく大人向けの施設だった。じぶんはずっと『星の王子さま』は子ども向けの童話?と思っていた。しかし読んでみれば、これは子ども向けか?と考えさせられる作品だ。もちろん、子どもも読んでいいわけなのだが・・・。

 

童話とは言え、我々のよく知る日本の童話や、「赤ずきんちゃん」などとは随分と趣が異なる。正直、どう読んで(解釈して)いいのやら分からないというのが本音だ。ただ、何とはなしにしばらく手元に置いておきたいという感じはしている。はじめに、フランスの親友である ”レオン・ウェルト” にという文から始まる。

amazon

 

著者が第二次大戦中、フランスからアメリカに亡命していた時期に書かれたものらしい。おそらく本作品は、いろんな研究者が作者の生立ち、時代背景などから、心理学的技法も使いながら分析し尽くされているのではないかと想像する。そのような側面にも興味がないではないが、しばらくの間、今の無知のままのじぶんでこの作品に接してみたいと思っている。

 

七十にして『星の王子さま』とは思いもしなかった。働き盛りの頃は、ほとんどノンフィクションものしか読まなかった。今にして思えばもったいないという感じがする。今は、ノンフィクションもフィクションの一形態なのではないかという気さえしている。壮大なフィクションの世界を取りこぼしてきたのは失態としか言いようがない。

 

この作品に登場するのは、「ぼく」(作者自身)、王子さま、王様、うぬぼれ屋、呑み助、実業家、点燈夫、地理学者、そしてキツネ、ヘビなどである。そして全員「ぼっち」(一人ぼっち)なのである。じぶんは「ぼっち」という使い方には不慣れなのだが、クリスマスに一人で過ごす人を「クリぼっち」などと使うらしい。

 

じぶんも家庭の都合で、一年前から一人暮らしになった。家人が隣町の息子のマンションに行ったきりなのである。と言っても、車で15分ほどの距離で毎晩夕食は一緒に食べ、じぶんも週に一二回はマンションに泊っているので、実際は ”一人暮らしもどき" かもしれない。

 

それでも誰もいない家に帰る時は、やはり ”ぼっち感” を覚える。少しずつ慣れ、感覚も微妙に変化してきているように思えるのだが、そんな折に『星の王子さま』に出合った。そして、この作品の登場人物たちと同じ ”ぼっち感” を共有しているように思えたのである。この作品をこんな風に解釈?している読者などは他にいるのだろうか(?)。

 

さて、じぶんの ”ぼっち感” は ”一人暮らしもどき" の生活だけから来ているものではないように思える。やはり年齢が関わっていると考えざるを得ないのである。じぶんもあまり意識はしたくないのだが、” 終わりは見えねど感じられるほどに近くなってきた ” ということではないか。これは若いころにはなかった感覚だ。

 

『星の王子さま』の登場者たちはそれぞれ自分の小さな星に一人で住んでいる。それはまるで、人間社会の自分のことで精一杯の大人たちを思わせる。そして、自分が「ぼっち」であることに気がつくヒマもない。王子さまも家ほどの小さな星に一人で住んでいた。ある日、他所から飛んできた種が芽を出し、きれいな一輪のバラの花が咲く。

 

王子さまはこの美しいバラが好きになる。王子さまはけなげに面倒をみるのだが、バラの対応は冷たい。このことをキッカケに王子さまは自分の星を離れ旅にでる。この時、バラは初めて自分の過ちに気づき後悔する。よくある話だ。

 

旅に出た王子さまは6個の星と孤独な6人の大人に出会う。7番目に地球に来て、王子さまはヘビとキツネ、そして「ぼく」に出会う。そして、この地球で自分が別れてきたあのバラが好きだったことを思い出す。世間の多くの人々は王子さまが出会った六つの星の住人のようだと思う。王子さまのように、また星に戻って好きなバラと暮らせるようになる人は稀に違いない。

 

じぶんは、作者が飛行機乗りであり、孤独な夜の単独飛行も体験しているに違いないと想像する。そんなとき、「ぼっち」の飛行機乗りは夜空の満天の星に何を感じたのだろうと想いが廻る。サン=テグジュペリは、1944年7月31日偵察飛行に飛び立ち帰らぬ人となった。『星の王子さま』を遺して・・・。

 

サン=テグジュペリを想う (1916/12/28)

ベビーブーマー大統領誕生 , Now!

  • 2017.01.21 Saturday
  • 22:14

実業家ドナルド・トランプ氏が第45代アメリカ大統領に就任した。1946年6月生まれと言うから70歳と7ヶ月になる。アメリカのベビーブーマーと言われる世代だ。日本で団塊世代と称される我ら世代と重なる。奇しくも、じぶんは1947年6月生まれなので丁度一歳違いだ。

 

” January 20th 2017, will be remembered as the day the people became the rulers of this nation again. ”

 

選挙期間中から何かと話題を振りまいてきた人物だが、大方の予想に反しヒラリー・クリントンを破って大統領に選任された。以後の世界情勢に与える影響は大であろうと想像される。米国内のみならず、海外でも支持、不支持の声が高まっている。就任時の不支持率も歴史的な数値で、就任式に併せて反対のデモが行われ一部が暴動化した。

 

まだ就任前に選挙活動中の言動だけで、これだけ大騒ぎになるというのは異例のことである。これは世界が激動の時代に入っていくことの象徴と見るべきなのか、正直じぶんには分からない。ただトランプ大統領就任で、個人的に注目するのはじぶんと同世代の男が、場合によっては8年間にも渡る激務に就こうとしているということである。

 

我ら一般人とは財力のみならず体力も比較にならないほど満ち溢れているのかもしれないが、それにしても気になる存在である。選挙に敗れたヒラリー・クリントン氏も1947年10月生まれでじぶんと同じ歳である。また、民主党予備選挙でヒラリー・クリントン氏と争ったバーニー・サンダース氏は何と1941年生まれの75歳である。

 

普通であればまさに引退する年齢で新たな途を目指す。そしてアメリカ市民も彼らに期待を寄せる。就任式の一日を、断片的ではあるがネットの映像で垣間見た。オバマ前大統領夫妻がヘリ「マリーンワン」で国会議事堂から去っていくのを新大統領夫妻が見送る。ハリウッドの洗脳?によるものか、まるで映画の一シーンのような印象を受けてしまう。良きつけ悪しきにつけ、アメリカという国の文化の影響力の大きさを思う。

 

 

世界中の見解の相違の混乱の中、今、じぶんは支持も不支持も好きも嫌いもなく、ただトランプという70歳の一人の男の生き様に注目している。じぶんの生き方の参考になどになるわけはないが、世界中の同世代の男たちに何らかの触発を与えるような存在になってほしいと秘かに願いながら。

 

関連投稿: USAはどこへ (2016/11/09)

されど統計学!

  • 2017.01.16 Monday
  • 20:46

長沼伸一郎著『経済数学の直感的方法 確率・統計編』(ブルーバックス)

 

昨年、東京まで出かけたのは二回で、二回目の時に東京駅前の書店で買い求めたのが本書だ。昨年から読み始め、途中で振り出しに戻って改めて読み始め、明けて松の内の過ぎて読み終わった。読み終わったとは言え理解にはほど遠いのが実情だ。前著『物理数学の直感的方法』は知っていた。関心はあったが未だ読んではいない。

 

著者の名前は何処で知ったのだろうか、はっきり思い出せない。雑誌かPodcastか、まだ著書を読んだことはなかった。ただ気になる人物の一人であったこと確かだ。なぜこの本を買ってしまったのかと言えば、まず書店で目につくところにあったのと、著者名、そして経済と数学というワードである。これだけ条件がそろえばつい手が出てしまう。

 

本書は『経済数学の直感的方法 マクロ経済学編』の姉妹書ようで、書店でも双方が展示されていた。どっちから読むのがいいか迷ったあげくに確率・統計編を選んだ。今から思えば二冊手にいれてしまえば良かったのだが、他に買いたいモノもあり一冊にしてしまった。

 

経済学も統計学も個人的に興味があるのだが、どちらも理解度が進まないという共通点がある。本書はこの双方がテーマなのだからやっかいだ。と言うより、経済と確率統計は元来深く関わり切り離せないものと考える方が適切なのかもしれない。著者も序文で、経済学(特にブラック・ショールズ理論)をネタにして確率統計を根本的に学び直してほしいと書いている。確率統計をツールに経済を読み解くのが目的かと思えば、著者は逆のことを提唱するのである。

 

じぶんにとって、経済学と確率統計学についての新しい視点である。どちらかと言えば、一般的に経済学に比して確率統計の方がツールという印象があると思うのだが、著者にはそのような常識はなさそうだ。経済から確率統計を読み解くというベクトルも有りということだ。一つ鱗が落ちた。

 

「最後に−確率統計」の項で、著者は本書を総括している。標準偏差、確率過程、ブラック・ショールズ理論、確率微分方程式のはなしの中で、著者が一貫して主張しているのは「この世界の誤差やばらつきは2つの部分、つまり一定方向のバイアス部分と、±両方向にランダムに現れる部分の2つで構成されている」というこである。

 

著者は次のように言う。数学者ガウスによって、後者「±両方向にランダムに現れる部分」が正規分布という ”神秘的な深み” をもっていると同時に ”適度の難しさ” を持った形で表現できることが発見された。そしてこれが後の統計学の発展を決定づけた。著者はこれを「神の指紋あり」と表現する。

 

本書で、標準偏差σが正規分布曲線の変曲点と中心線との幅であることを初めて知った。今まで変曲点など意識すらしなかった。直感的に、変曲点の幅が分布のばらつきを測るには適切だという感じはする。標準偏差にこんな意味合いがあったとは全く認識していなかった。

変曲点:平面上の曲線で曲がる方向が変わるのこと。 幾何学的にいえば、曲線上で曲率の符号(プラス・マイナス)が変化する(このでは0となる)をいう。 これは幾何学的または解析学的に、次の各定義と同値である。 そのにおける接線が曲線自体と交差する

 

 

このあたりの件だけでも、本書を手に入れた価値があったと思える。意識するか否かは別として、この世の中のあらゆることに誤差やばらつきはつきまとう。この誤差やばらつきの世界に科学的に介入するための手段が確率統計であり、さらに経済学、物理学であると言えるのだろう。

 

個人的には、自然界と人工的な経済界に同じ確率統計の論理が当てはまることは概ね理解していると思っている。しかしながら、著者が例え話として分子の運動や金融資産の変動などの話などを自由に行ったり来たりする有り様を読んでいると、じぶんの心がちょっと混乱するのを感じる。

 

 冒頭でも述べたが、一般に理系の人間でも確率統計の話は、宇宙の神秘から遠い単なるトリミング技術として敬遠し、そのため確率微分方程式についても、面倒なだけの理論として学ばないまま一生を終えてしまう人が少なくない。しかし上までの話を読まれた読者は、ここにも意外にそうした神秘性を背後に感じさせる話がちゃんと含まれており、これを全く知らずに一生を終えるのは、理系人間としては如何にも勿体ないということをご理解されたのではあるまいか。

 

物理学者の著者が、あるがままの自然界にではなく人工的な経済界の中に見いだした確率統計的な神秘性、これこそじぶんも実感してみたいと思うことなのだが、残念ながらまだまだ距離がありそうだ。じぶんがブラック・ショールズ理論を解説しようとする文を読んだのはこれが初めてだ。所謂「オプション」と称される金融サービスと関連しており、企業はランダムな世界でも物事の連動性に注目して適切に取捨選択することにより、恒常的にプラスの収益を上げ続け得ることができるという提唱だ。

 

著者は、この理論の背景にある神秘性が一部の先鋭的な専門家だけではなく、人類全体に寄与しうると考えているように思われる。表現を変えれば、叫ばれる「資本主義の終焉」に対するアンチテーゼなのである。じぶんにはこのことの妥当性を判断する力はない。

 

しかしながら、確率統計の論理を自然現象、社会現象の読み解きではなく、「経済システムの創造」のために使うという考え方は、ゲーム理論に近いような印象もあるが、じぶんにとってとても新鮮な感覚である。このような考え方が「思想」として社会に波及することになるならば、この思想がエネルギーとなって斬新な経済システムが誕生することも夢でないだろう。

 

物理界では、かつてアインシュタインの E=mc² という思想が起動して原子爆弾を生み出してしまった。歴史には時にこんなアイロニーが付きまとう。著者の提唱する思想にもそのリスクがないとは言えない。しかし、社会に与えるプラスの側面を強く志向していけば社会の進化に多大な寄与ができるはずと期待したい。

 


 

経済数学の直感的方法 確率・統計編

講談社(ブルーバックス:amazon

2016年11月発行

 

著者 長沼伸一郎

1961年東京生まれ。1983年早稲田大学理工学部応用物理学科(数理物理)卒業、1985年同大学院中退。1987年、『物理数学の直感的方法』の出版により、理系世界に一躍名を知られる。「パスファインダー物理学チーム」代表。著書に『経済数学の直感的方法 マクロ経済学編』『物理数学の直感的方法普及版』『一般相対性理論の直感的方法』『無形化世界の力学と戦略』『ステルス・デザインの方法』等がある。

http://pathfind.motion.ne.jp/ 

老害のはなし

  • 2017.01.10 Tuesday
  • 21:38

新年初の投稿が「薬害」のはなしで、そして二番目が「老害」のはなしになるとは2017年も先が思いやられる。今日やっと新年初の朝のウォーキングに出かけることができた。とても快適な天気で気持ちよく歩くことができた。富士山チェックポイントでも雪に覆われた姿を拝むことができた。

 

住まいの近くまで戻ってきて、踏切を渡り田んぼの中を通る幅1m強の狭い道があるのだが、道の中ほどに我ら御同輩と思われる二人が立ち話をしている。一人は自転車で通りすがったものと思われ、自転車を降りて手で支えている。立ち話の相方は後ろ向きで何やら一生懸命に相方に講釈?している。

 

こっちが近付くと自転車の主は直ぐにこちらに気が付き、何とか道を空けなければと思っているという様子が見て取れる。しかし、相方はこちらに後ろ向きとは言いながら、相方の表情、目線を見れば何が起きているのか分かりそうなものだが一向に対応しようとする気配がない。

 

ついにこちらが目前までせまって、自転車の主は困ったという表情をしているので、こっちは頭を下げて立ち話しの二人の間をすり抜けるように通り過ぎた。しかしこの期に及んでも、講釈の主は何ら行為に変化が見られなかったのである。もし元来そういう性格の人物であったとしても異様である。完全に自分の世界に入りきった状態なのである。通常の社会生活の中では考えられないことである。

 

二人の間をすり抜ける時に何気に講釈の主をチラ見したのだが、こっちに対する気遣いが皆無なのが分かった。幼稚園児でもこんな行動は見かけない。じぶんの頭に「老害」という言葉が浮かんだ。さすがに精神が健康な状態なのか病的な状態なのかまでは分からない。しかし、このどっちつかずの異様な行為が社会に蔓延していくのではないかという不安が募る。

 

しかも、これはじぶんと無関係なことではなく、まさにじぶんも当事者になりうるという事象なのである。新年早々に熟考した「薬害」と「老害」という二つのワードは相互に関連した事象でもあり、今年もますます深刻な社会問題になっていくであろうと思えてならない。

 

関連投稿: 賢老社会に向けて (2015/11/29)

年初にインフルエンザを学ぶ

  • 2017.01.09 Monday
  • 21:07

新年早々、家族がインフルエンザに襲われるという始まりになってしまった。2日に家族が集まり外食をしたのだが、翌日に小学生の孫がインフルエンザA型に罹り、その翌日に息子(孫の父)、そして又その翌日にかみさんと長男が発症した。そしてついに6日の朝に、じぶんが風邪の初期症状(寒気、喉のいがらっぽさ)に気づきまさかと思った。

 

まだ平熱だったので迷ったのだが、午後に最寄りの病院に行ってみた。受付で事情を話していると、受付の女性の後ろを事務局長?が”診断は無理”と言いたげに首を振りながら通り過ぎた。しかし受付の女性は、状況によっては予防薬を処方してもらえるかもしれないと言うので診断をお願いした。そしてその通りになった。

 

先生は喉の診察と胸の聴診をして、現段階ではインフルエンザの診断はできないと話してくれた。実は、じぶんは一昨年からインフルエンザの予防接種を受け始め、昨年の10月半ばに注射を受けていた。このことと、家族にインフルエンザが蔓延していることを話すと、先生は予防として出せる薬があるので出しましょうかと聞いてきた。即断でお願いした。

 

処方されたのが「イナビル」という薬で、口から吸引するタイプのものだ。左右に分けてあるものを二回に分けて吸引する。これを2セット処方された。薬局で、ここで吸引していきますかと聞かれた。初めてだったので、薬局で教わって吸引した。その他、念のためということで解熱剤と咳止めが処方されていた。

 

そして、結果は”良好”?だった。夕方から微熱が始まったが、夜中の37.5度が最高で朝方には微熱に戻った。因みに最近の平熱は6度前後だ。念のため翌日は一日家で静養した。熱は上がらなかったが、軽い喉の痛みと頭が重く体がだるいという感じが続いた。三日目の朝は平熱に戻った。

 

結局、じぶんがインフルエンザに罹ったのかどうかは分からず終いとなった。ここ数年風邪で寝込んだことがなくはっきりしないのだが、じぶんが風邪にかかった場合は食に影響が出る、つまり食べれなくなることが多かった。今回は食べることがつらいということが無かったことと、イナビル以外何も服用していないのでこの薬が効いたのではないか?と思われた。

 

じぶんは七十年生きてきてインフルエンザには無縁だった。かみさんの勧めで一昨年から予防接種を始めたのだが、もしかしたら二回目の投与で功を奏したのか?。ただ同じ日に予防接種を受けたかみさんが甲斐もなく罹患し、予防接種を受けていない息子と症状的にも大差はなかったのである。

 

最終的に予防接種の効果はクエスチョンマークのままとなった。ただ、インフルエンザと言えば「タミフル」と思っていた状況も変わりつつあるのだということを知った。さらにワクチン接種に対しても賛否両論あるのが実状だということも。

 

「薬害」という言葉がある。正確な定義は別としても、製薬会社とその背景に潜む個人、団体が利益を目途に幇助関係にあることが「薬害」の根因であろうことは想像に難くない。じぶん、或いは近親者が直接この利害関係者にならないと本気で考えようとしないことも問題なのだが、今回のインフルエンザ体験で、医療に深くかかわる人々の五分の魂に奮起していただきたいと切に祈る年の初めとなった。

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サン=テグジュペリを想う

  • 2016.12.28 Wednesday
  • 21:16

箱根「サン=テグジュペリ 星の王子さまミュージアム」

 

先週、箱根の「サン=テグジュペリ 星の王子さまミュージアム」に行ってきた。今年最後のドライブになりそうだ。この秋、紅葉狩りの帰りに関越の寄居PA(上り線)に立ち寄った。ここは日本初のテーマ型パーキングエリア「星の王子さまPA」として有名?だ。この「星の王子さまPA」に立ち寄ったのは二度目だと記憶しているのだが、今回はじぶんにとっては大きな新発見があった。

 

サン=テグジュペリも、「星の王子さま」も誰でも?知っている名称だ。「星の王子さま」はともかくとして、飛行機乗りのサン=テグジュペリはじぶんにとって周知の人物と思っていた。ところが、今回の「星の王子さまPA」立ち寄りで、意外なものを見つけてしまったのである。それは展示してあった飛行機模型である。

 

ヒコーキ好きなら誰でも知っているのだが、それは第二次大戦のアメリカの戦闘機P38(実際は偵察型のF-5B)だったのである。その時は、サン=テグジュペリがテーマのPAなのだから飛行機模型の展示は分かるが、飛行機なら何でも良いというわけではないだろうと思った。

しかし、PAを出て車を運転しながらそのことが気になった。何で?、帰宅してからネットで調べてショックを受けた。この飛行機はサン=テグジュペリのラストフライトで未帰還となった時の機種だったのである。何故か分からないのだが、じぶんはずっとサン=テグジュペリを第一次大戦からアニメ『紅の豚』辺りの人物だと思い込んでいたのである。何でだろう?。

 

ここからサン=テグジュペリが気になり出した。そして箱根の「サン=テグジュペリ 星の王子さまミュージアム」が思い浮かんだ。箱根方面には滅多に出かけないのだが、いつだったか前を通ったことがあるような曖昧な記憶があったのである。年内は無理としても、来年はぜひ行ってみたいと思った。

 

ところが家人からの提案で、今年は富士山参りの回数が例年より少なかったので、年内にもう一度富士山を間近に拝んでおこうということになり箱根に行ってみようということになった。ならば目的地は「サン=テグジュペリ 星の王子さまミュージアム」ということになる。

 

結論は ”非常に良い” である。ミュージアムとして建物/展示の完成度が高いという印象だ。もっともネット評価を見てみると、当然のことながら、プラス評価とマイナス評価が混在している。しかしながら今回のミュージアム訪問で、サン=テグジュペリと童話「星の王子さま」は作者と作品という単純な関係ではなさそうだということが分かってきた。

 

ショップで『夜間飛行』、『人間の土地』そして『星の王子さま』を買い求めた。最近、買って積ん読く状態になっている本が多いのでいつ読み終えるのか分からないが、もしかして、読み終えた後でまたミュージアムを訪れてみたいと思うかもしれない。館内にジーっと掲示物を読んでいる若いカップル?がいた。おそらくサン=テグジュペリの作品を熟知している二人なのだろうと思った。

 

 

サン=テグジュペリの生い立ち(貴族出身)から、飛行機乗りを目指した時代背景、そして『星の王子さま』まで、興味を刺激する事柄が数多くある。前の投稿で取り上げた数学者・岡潔もそうだが、じぶんが七十を前にサン=テグジュペリを再発見できたことを幸甚と思うと同時に、もっと若い頃に出合いたかったという思いもある。しかし、若い頃のじぶんにはこの二人に注目するような感覚は閉ざされていたような気がする。これも運命なのだろう。

 

『カモメのジョナサン』(1970年)の作者リチャード・パック(1936年生れ)も飛行乗りだった。『カモメのジョナサン』 発売当時、じぶんは二十代半ばだったが、本書のみならず作者リチャード・パックの生きざまにも影響を受けた。米州空軍戦闘機パイロットから ”さすらいの複葉機乗り” に転身したパックに憧れたのである。この辺りの時代からだろうか、若者が ”自分探し” 的な生き方に傾倒するようになったのは。カモメのジョナサンはパック自身の投影だったのではないかと思っている。

 

しかしこの歳になれば、もはや元禄の世の ”自分探し” のリチャード・パックから、むしろ乱世に偵察飛行で帰らぬ人となった ”星の王子さま” のサン=テグジュペリへとシンパシーが移っていくのを感じる。来年は、年甲斐もなく、サン=テグジュペリの生きざまを探ってみたいと思う。

洞窟壁画を描いたクロマニヨン人

  • 2016.12.16 Friday
  • 21:00

特別展 「世界遺産ラスコー展」(国立科学博物館

http://lascaux2016.jp/highlight.html

 

東京に所用のついでに上野の国立科学博物館で開催されている「世界遺産ラスコー展」を見てきた。師走の平日にもかかわらず、我らがシニアを中心に大勢の見学者が来ていた。

 

 

半年前にも本館を訪れたのだが、人類史研究家・海部陽介氏の著書『日本人はどこから来たのか?』の影響で関連の展示を見たかったからだった。今回の展示も海部氏等の活動によるもので、事前にPODCASTで情報を得ていた。ラスコー洞窟の壁画と言えばあまりにも有名な遺跡だが、現在は非公開になっており、再現物とは言えその精度が1ミリ以下というものでホンモノの洞窟壁画を見ているような迫力がある。

 

まがいものとは思えないほどの壁画もさることながら、じぶんがもっと驚いたのはこれらの壁画を描いたと言われるクロマニヨン人(ホモサピエンス)の復元像である。現代西洋人そのままではないか?と思わせる出来だ。専門家が製作したものとは言え、本当にそうなの?と訝った。その着用している衣類などもエーッと思わせるものだ。

 

 

現代人が思うほど、古代人と我々との間の心身の相違は大きくはないのではないか。じぶんもいつ頃からかそう思い始めていたのでビックリ仰天とまでは行かないまでも、展示の復元像を見てやっぱり驚いた。専門家の間でもまだまだ意見の分かれるところかもしれないので安易に思い込んでしまうのは危険かもしれないが、やはり我々の古代人(古代史)に対する常識を洗い直さなければならない時期にきているのかもしれないと思った。

 

生物としてのホモサピエンスが、少なくとも、ラスコーの壁画が描かれたと思われる二万年前のクロマニヨン人で既に完成形?だったと想像することは、我々現代人がより謙虚な人間性を獲得するための鍵になるのではないかと思われた。一方、もはや自然な生物学的進化が考えられないからこそのDNA操作/AI技術だとすると、高揚感よりも何とも言いようのない不安感を覚える。

 

関連投稿:遠足気分で! (2016/05/30)
     日本人のルーツ (2016/05/25)

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