核兵器が間近に

  • 2017.09.21 Thursday
  • 13:25

前回は「THE HUMAN BODY SHOP」をテーマに、近年急激に注目されてきているバイオテクノロジーの発展に伴う新しい医療技術の倫理問題について考えてみた。これは現代社会の抱えるクライシス(※)の一つと考えられる。そして今、もう一つのクライシスとしてあるのが核兵器である。ただ、こっちは72年も前の広島、長崎から始まったものだが、今、北朝鮮の核開発に伴い新たな展開を見せようとしている。

※クライシス_ 危機、重大な局面、運命の分かれ道、といった意味。

 

残念ながら、唯一の核被爆国の民の一人として、じぶんの核兵器に対する感度(感覚)は鈍い。他人のせいにしたくはないが、しかし、これは大方の日本国民の感覚ではないか。一部の良心的な人、一部の狂信的な人は日頃から核兵器に対して高い感度を維持し続けてきたのかもしれないが、大半の日本人は何か他人事のような気がしていないだろうか。

 

十数年前、SF作家・豊田有恒 著『いい加減にしろ 中国』を読んで、改めて隣国の中国が核兵器保有国であることを再認識したことを思い出す。じぶんの核兵器に対する感度はこんな程度だったわけで、しかも直ぐにまた日常生活にかまけて核兵器のことなどは意識の範疇から遠のいていった。

 

しかし、昨今、北朝鮮が金正恩体制になってから核兵器とミサイルの開発が急転、直近の9/3の水爆実験、9/15のICBM発射実験は共に成功したものと思われ、北朝鮮を取り巻く国々の思惑が混沌としてきている。そして、これに呼応したものか、この週明けに安倍首相は10月の衆議院解散の意向を打ち出した。

 

個人的な思惑、予想などはどうでもいいが、予想を超えた急転回である。じぶんは、核戦争を望む人間など、極一部の原理的思想に取り憑かれた者以外、右にも左にもいるわけがないと信じている。話し合いで決着することが最善であることは間違いない。しかし問題は、話し合える状況を作れるか否かということ、そしてうまい落とし処を創発しうるかということである。

 

かつてミュンヘン会談で、ヨーロッパ連合とドイツ(ナチス)は話し合いでケリが付くかに見えたが、その宥和政策が皮肉にも戦争への誘因となった。話し合うとしても、充分な知恵と運に恵まれるかどうかが成功のカギとなるだろう。平和を唱えていれば何とかなるというものでないことは確かだ。

 

日本の場合、非核三原則が問われることになる。もたず、つくらず、もちこませずの三原則だが、議論になるのは三つ目のもちこませずだろう。NATOの核シェアリングというモデルがあるという。しかし、この施策どころか、たよらず、ぎろんせずも付け加えて非核五原則を提唱する勢力が出てきそうな気がする。

 

核の問題は議論で解決できるような案件とも思えないが、その議論すら拒まれることを想像すると万事休す、如何ともしがたい状況しか見えてこない。仮に非核三原則(もしくは五原則)が、お題目としてではなく本当に力のある法則であれば、これを国の基本法に据えることもできようが、右も左もこれをもてあそび過ぎた。残念至極。

 

この度の衆議院解散を受け、また政府vs野党・メディア連合との対立になると思われるが、ぜひとも加計・森友と同じ不毛な遣り取りに終わらぬことを願うしかない。また、国民も一人ひとりがこれを機に核兵器のある現実を見つめ直してみることが肝心である。中には、核攻撃も甘んじて受けるべしなどと語る人物/グループの出現も予感するが、論外である。

 

関連投稿:困った隣人、中国 (2012/12/10)

 

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