絵本のはなし

  • 2017.07.06 Thursday
  • 11:11

絵本というものに注意が向くようになったのは十五年以上前からだろうか。何かで柳田邦夫氏の ”絵本のすすめ” のような記事を読んだことがキッカケだったかもしれない。しかし注意が向いたと言っても、何ら行動は起きなかった。書店で絵本コーナーを回るわけでもなく、ネットで覗いてみることもしなかった。ただ当時から、人の認知活動は言葉(文字)によるものだけではないということに関心が向き始めていたように思う。

 

定年後、東京に出かけると、時間が許せば日比谷の書店「丸善」に立ち寄ることが多くなった。地方の書店には少ない洋書コーナーとか、絵本コーナーなどを覗いて回る。コミック本を読むようになったのもこの頃からである。今思えば、認知 ≧ 理解 の気付きではなかったか。

 

理解というと、やはり言葉(言語)によるものという印象が強い。ただ、人の{脳}を考えると、これは進化過程に関係があるのかもしれないが、言葉(言語)偏重のシステムであることは否定できない。人は言葉以外の情報(音楽、絵画等)に接しても何とか言語化しようとする。理解しようとするのである。このことの善し悪しはまた別の問題なのだが。

 

しかし、そもそも、全てを言語化 - 永遠の課題 - しようとすることに無理があるのではないか。これは{脳}に取り憑いた業(ごう)ではないかとさえ思ってしまう。こんな事への関心が、絵本とかコミック本に注目するようになった要因ではなかったかと考えている。絵本の中にはまったく文字の表記がないものもある。

 

 

日本には俳句という五・七・五の一七音を定型とする固有の短い詩がある。今、じぶんに俳句を読む(詠む)才能がないことを本当に残念に思う。少なくとも、俳句などの詩歌は理解する(できる)ものではないのではないか。世の中には専門家による俳句の解釈本があるが、これも悪まで方便によるものだろう。

 

数学など、言語体系のなかで特異な発達をみせた分野もあるが、今や言論空間において一般的言語である言葉は、口述においても記述においても深刻な問題に直面していると思わざるを得ない。コミュニケーション(相互理解)・ツールとしての機能を充分に果たせているとは思えないからである。

 

それは言葉の問題というより人、特に大人の身体({脳}を含む)側の問題ではないかと思うのである。そんな大人には絵本が役に立つ、そう思う。子どもだけのモノにしておくのはもったいない。中途半端に若いと、絵本を手に取るなどはちょっと恥ずかしいと感じたりするものだが、この歳になるとそんな気兼ねは消失する。年寄りの特典だ。

 

ご同輩には、心身のリセット、リフレッシュのために絵本を勧めたい。

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