天皇制を考えてみたのだが・・・

  • 2017.06.29 Thursday
  • 15:21

今上天皇のご退位問題に絡み、男系、女系、女性宮家とか天皇制に関わる課題がマスメディアを賑わしている。素人、専門家がごっちゃになって多様な言説が飛び交う。国政に関わる問題もそうなのだが、天皇制の在り方などのテーマも皆で議論すればどうにかなるとは思えないのである。

 

じぶんは、ずっと、いろんなテーマについて議論することは良いことだと思ってきた。それが近頃、本当にそうなんだろうかと疑問に思うようになった。要するに議論がかならずしも知的活動とは思えなくなってきたのである。古くから「群盲象を撫ず」の譬えがある。眼の不自由な人たちがいて、それぞれ自分の触れた部分の印象だけから象(全体)について述べることを戒めるはなしだ。

 

足に触れた人は象を大木の切り株のようなものと思うだろうし、耳に触れた人は大きな団扇のようだと言うだろうし、鼻に触れた人は太い管のようなものだと信じるかもしれない。こんな場合、議論でどうにかなるとはとても思えない。国会での議論などもこれに近いのではないかと考えてしまう。

 

天皇制について言えば、じぶんは男系天皇制を支持?する。しかし、このことで他人を説得できるような議論ができるとは思ってもいない。ただ、天皇制は歴史的な継続性に意義がある、と感覚的に思っているだけなのである。色んな書、資料等を読んで、このことを援護する理屈を後付けすることはできるかもしれないが、個人的にそんな時間も気力もないし、またそれが意味があることとも思えない。

 

そもそも、議論をつくして何かが明らかになるということはあるのだろうか。互いに、寄って立つ処の差異がさらに際立つだけではないのだろうか。もっとも、それで双方がその差異に気付くことができるのであれば、議論することにも意味があるのかもしれないのだが。右に立つか、左に立つかなどは、単に旗印だけで選択されるとは思えない。自分すら認知できない複雑な要因が絡み合っているのであろうとしか思えないのである。

 

身も蓋もない話になるが、最終的に各人の感性(信念、信仰、気質など)によるとしか言えないのではないか。論理世界の数学、実験で裏付けが取れる物理学とは違って、社会で一般に議論の対象になるのは非論理的実社会の事象が大半である。

 

やはり、天皇制の是非などは議論で解明できるとは思えないのである。あるがままを認めるということで良いのではないかと思うのだが、しかしそれは否だという人たちもいるだろうし、正にそこには議論の余地がないのである。

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