脱地デジのはなし

  • 2017.03.16 Thursday
  • 21:51

『バカの壁の』の養老孟司氏が日本国民が参勤交代−都会と田舎の生活を交互にする−を行えば個人も社会も変わると提唱した。このことに完全に共感するが、同様に全員が脱地デジを行えば個人も社会も変わるとじぶんは思う。当初は脱TVと言っていたのだが、今は脱地デジで充分だと思っている。しかし、参勤交代も脱地デジも出来そうで出来ないということも同じだ。

 

個人的に脱地デジ(地上波TV放送)になったのは2015年の12月なのでもう1年以上前になる。家のTVにはアマゾンのTVスティックとビデオプレーヤーに接続されているがほとんどTVスティック専用の状況だ。

 

 

 

 

 

 

 

TVスティックのアプリの数も多いが、じぶんがよく使っているのは「YouTube」「GYAO!」「NHK WORLD」「YAHOO!」などだ。特に「YouTube」では視聴できる楽曲は膨大なものと推測され、最近、家のTVはジュークボックスと化している。LPレコードで聴いていたころのジャズアルバムも聴けて、青春の頃に通ったジャズ喫茶を思い出す。

 

さて地デジ、つまり地上波テレビのはなしだが、個人的にはほとんど見るに値しないと思っている。もちろん中には優れた番組があろうことは承知のうえだ。先ずその番組を探すことが一仕事である。リサーチにかかる時間とその番組を視聴する時間が要るわけで、これに値する番組もゼロではないだろうがチャレンジする気力も時間もない。

 

まして、ほとんどがバラエティに埋め尽くされている今の地デジ番組にはどう反応していいのやら戸惑いを感じるばかりだ。これらの番組でやられていることはもはや見るものではなく、むしろ視聴者自らが職場で、学校で、家庭で、仲間内で同じことをやればいいのだと思うのである。なにもわざわざ第三者に仕事でやってもらって、それを傍観している必要もなかろうと思う。

 

プロ・スポーツ選手のプレイを観るのと同じだという考えもありかもしれないが、個人的にはバラエティ番組でやられていることがそんな大層なモノとは思えない。勿論、出演者(芸能人等)もやっているうちにそういうことに長けてくるのだろうが、それでもそれが観るべきアート、芸として評価しうるのかということはまた別の話だ。

 

確かに、現在の民間放送のビジネスモデル−スポンサーが番組、CM制作と放送に関わる全費用を負担する−はよく出来ているモデルだと言える。巡りめぐって、最終的に購買というかたちで一般消費者が費用の負担をすることになっている。本来はスポンサーと一般視聴者が主役のモデルなのかもしれないが、実態は中間の制作業界(局、芸能関連)が肥大肥満化しているということだろう。

 

何やら医療関連業界を思わせる。本来は医者と患者の関係こそが主流であるべきところ、中間の医療機関/製薬業界が肥大肥満化する。そして、元々何を目的としたモデルなのかが曖昧なままになってしまう。いつのまにかツール(業界)が主役となってしまったステージになる、何ともやりきれない気持ちだ。

 

放送というメディアも、NHKモデルは論外だが、何か新しいモデルの構築はできないものだろうか。キーは中間業界なのだろう。書籍の出版では「編集」という機能が重要だという。ネットに溢れているコンテンツの脆弱さはこの編集機能が無いことだと言われる。そういう意味で、放送メディアも編集機能を持つキー局のガバナンスが問われるということになるのだろう。

 

と、これは正論だが現実に起動しうるかどうかは疑問だ。結局、社会的に脱地デジ運動にまで高まるようなところまで行かなければ、大組織が変革することは難しいことなのだろうと考えてしまう。

 

関連投稿:NHK問題、と大橋巨泉氏の遺言 (2016/09/03)
     再・脱TVのすすめ (2015/05/14)
     脱TVのすすめ (2011/01/19)

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