ノーベル賞の意義は?

  • 2013.10.12 Saturday
  • 20:49
今年もノーベル賞の季節となった。昨年は京都大学・山中伸弥教授が iPS細胞 の発見が評価されてノーベル生理学・医学賞を受賞して話題となった。今年は、ピーター・ヒッグス氏が物理学賞受賞、村上春樹氏は昨年に続き、今年も文学賞を逃した。等々、マスコミを賑わしている。
ノーベル賞ノーベル賞(wikipedia)は、物理学賞、化学賞、医学生理学賞、文学賞、平和賞、経済学賞の六部門からなる。受賞は研究者にとっては誉れであり、研究の動機づけとしても大きな要因であろうと推測できるのだが、国家間のコンペティション的な様相を醸しだしているのは、オリンピックに似ていると言える。

しかし、ノーベル賞の場合はスポーツと比べると、受賞と非受賞の評価の境界が曖昧な点が異なる。オリンピックの金銀銅の受賞は、審査・審判が得点に影響する一部のスポーツを別として、ほとんどの競技は順位が明確である。それに比して、ノーベル賞の選考基準は、五十年後に公開されることになっているらしいが、現時点では闇につつまれている。

しかも、ある研究者の発見等は過去の有名無名の数多くの研究者の成果が土台になっており、受賞者本人の功績もさることながら、過去現在に渡る周囲の関係者の功績も無視することはできない。オリンピックほどに分かりやすくないことは否定できない事実だ。

ノーベル賞とオリンピックの相似点は、その「世界」で最高・最大の評価がなされるということである。研究の世界にも、スポーツの世界にも、それぞれ「ローカルな賞」が少なからず存在している。しかし、そのなかで、ノーベル賞もオリンピックも特別なのである。なぜ、このような存在が出現してきたのか。ノーベル賞、オリンピックを研究対象にしている社会学者(経済学者)は存在しているのだろうか。

まったく、個人的な見解ではあるが、ノーベル賞もオリンピックも ”無い” 方がいいのではないかと思っている。と言うより、これらを必要としない社会の方が良いのではないかと思うのである。じぶんにとって、研究者もアスリートも、基本的にリスペクトの対象だが、その評価は「ローカルな賞」でなされる方がいいと思っている。

宗教は一神教と多神教に分かれるが、日本人であるじぶんは ”八百万の神” の方に親近感を覚える。絶対的存在というものは原理主義に通じるような思いがあり、ある種の不気味さを感じてしまう。一神教的なノーベル賞、オリンピックのもたらすインパクトが、知らぬ間に、人間社会をギスギスした堅苦しいものに変えてしまうという恐れはないのだろうか。世の評価に値する人々への賞賛は、それぞれの「世界」で「地域」で、親しく静かになされるのが良い。そう思うのである。

calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM