再び ”動的平衡” について

  • 2012.06.29 Friday
  • 08:59
じぶんが 「生物学」 に興味持ったのは大変遅く、昨年の投稿でも書いたのだが福岡伸一著 『生物と無生物のあいだ』 との出合いからである。著者が分子生物学者で、ミクロの視点から生命を研究しているということが、以前から興味のあった 「素粒子物理学」 と相通じるものがあるかもしれないという想いも手伝って読んでみようという気になった。

そして、生物学にも興味を持つようになった。そこで知った古くて新しい生命観 「動的平衡」 。残念ながら、この生命観は未だ学界ではマイナーだという。しかし、 『生物と無生物のあいだ』 がミリオンセラーになっている現実を見ると、市井の人々にはそれなりに受け入れられたということだろう。じぶんも この「動的平衡」 という生命観に惹かれた。

その後、著者 福岡伸一氏は多方面にご活躍で、趣味のフェルメールが高じて展覧会まで開催することになってしまう。先月の初め、その展覧会を観に銀座まで出かけてしまったのだが、なぜかその会場でフェルメール関連の土産を買わずに、氏の近著 『せいめいのはなし』 (新潮社:amazon) を買ってしまった。

買ってから一月ほど経ってしまったが、一週間ほど前に読んでまたまた興奮してしまった。四氏(内田樹・川上弘美・朝吹真理子・養老孟司)との対談集で、内田樹、養老孟司のお二人は馴染みの方々なのだが二人の女性作家は”お初”である。むかしから、文芸作品にはとんと縁がない。じぶんは読書家からは本当に遠い存在だと改めて認識した。しかし、この対談集を読んでノンフィクション偏重のじぶんを改める必要ありと考え始めている。


著者 福岡伸一氏 プロフィールせいめいのはなし

1959年東京生まれ。京都大学大学院博士課程修了。米ハーバード大学医学部フェロー、京都大学助教授などを経て、’04年より青山学院大学教授。サントリー学芸賞を受賞した 『生物無生物のあいだ』 ほか、『動的平衡』 『動的平衡2』 など、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著作多数。他に 『ルリボシカミキリの青』 『世界は分けてもわからない』 『フェルメール 光の王国』 『遺伝子はダメなあなたを愛してる』 など。

著者が提唱する生命観 「動的平衡」 とは、「構成する要素が絶え間なく消長、交換、変化しているにかかわらず、全体として一定のバランスが保たれている系(システム)」ということである。

そのまんまタイトルの本が出ているのだが未だ読んでいない。本書ではこの 「動的平衡」 を踏まえて4人と対談している。今回は 「動的平衡」 を人間社会にまで拡張した対談内容となっているが、相変わらず、養老孟司氏、内田樹氏とのはなしは面白い。今回は特に内田氏との対談にわくわくした。二人の女性作家に関しては全くの無知で、プロフィールも作品についても存じ上げない。

しかし、この二人の女性作家との対談の内容が ”勉強になった” のである。じぶんは子どものころから文学に縁がない。教科書に載っていることぐらいしか接点がない。今から思えば困ったものだと思うのだが、当時は何の感慨もなかった。そのまんま大人になり爺になった。

基本的に 「ノンフィクション」 に対する関心が強く 「フィクション」 については二義的だった。映画、ドラマは好きだったのだが、何故か小説本を読むことは稀だった。所詮エンターティメントなのだから映像化された方が分かりやすい。そんな気持ちだったのかもしれない。

先ず川上弘美氏だが、著者 福岡伸一氏と同じ生物学科卒で教師を経て作家になった。この対談の中で、川上氏は
 「障害があって燃え上がる恋愛小説を一生書き続けていたとしても、それは全部違うものになる、と私は思うんです。書く人が同一人物だったとしても、その人が年を取ることで書き方も変わるし、昨日食べた鯛焼きがおいしかったから今日は違うことを書けるんじゃないか。それこそ昨日と今日では自分の構成分子が違うのだから、小説も違うものになるんじゃないかって
と話す。

それを受けて、著者も
 「私の専門であるところの生物学も、そして文学も、あるいは宗教も、それぞれに語られる文体や表現が異なるだけで結局のところ、人間とは何なのか、生きるとはどういうことか、世界はどういうふうに成り立っているかを知りたいというところから始まったものだと思うんです。だから科学がデータやグラフや顕微鏡写真によって客観的に記述されるように見えたとしても、それはあくまで一つのプロセスでしかなくて、本当は、それがどういう意味を持つのか、誰にでもわかるシンプルな言葉で語ることができた時こそが、生物学の出口なんですね。そして、そこから外に出てみると、実は他の道をたどってきた人たちと同じ水脈に達しているような気がします
と語る。

じぶんも近頃、 「ノンフィクション」 の最右翼と言える 「科学」 の唱える記述と 「文学」 的記述との差異があやふやに思う時がある。結局、自然とか社会とかを科学的に読むか、文学的(芸術的)に読もうとするかでその表現が異なるだけではないか。そんな”想い”に捕らわれている。両氏の対談でそのことを再認識した。

次に朝吹真理子氏だが、将棋に造詣が深く羽生善治氏にも接点がある。やはり、理系の素質を持つ方だと思う。対談では
 「私自身、すごく自然科学に惹かれると同時に、人間界と全く違う摂理で動いている美しくもあり危険であるものに憧れてしまいます。結局、人間はまったく秩序がない存在だということを認識しないで善悪を論じてもしょうがない。この世の理を明らかにしたいとか、見たことさえないものを作ってみたいという欲望がなければ、科学にしても何にしても生まれない。その欲望は否定できません。でも、その欲望によって生まれたものに、いろんな人たちが触れた場合に社会がどうなるかを考えるのは、どちらかと言えば文学の想像力です。ですから、文学の想像力と科学の想像力が両方ないといけないと思います
と主張する。

著者は
 「リチャード・ドーキンスという有名な進化論者がいて、神など存在しないということを一生懸命言っている人ですけれど、なぜ、人間はずっと神を求めてきたか、その生物学的な理由については説明してくれません。従来の進化論だけで、生命現象の歴史を解き明かすことはできないでしょう。生命の可変性についても旧来の教条的な思考から少しずつ脱して、古い遺伝学の枠組みの外側を考えようという動きが出始めています。いうなれば、硬いメカニズム的指向の思考から、もっと柔らかい文学的な想像力が求められているわけです
 と補足する。

著者は大学で教鞭をとっており、先日ラジオで、その役職を理系から文系に移されたと聴いた。その時は分からなかったが、本書で著者が語っている”生物学のゴール”に向かってアクションを起こしたということだ。

次に、養老孟司氏だが、二人とも昆虫少年だったといことで虫の話で盛り上がる。じぶんは子どもの頃はドライ系(メカずき)だったのでウェット系の話は苦手なのだが、両氏の著書を読むようになったからなのか、それとも歳のせいなのか虫の動きをジッと見てしまうことがある。

二人のはなしは生命観、自然観、社会観まで多岐にわたり、はなしがどんどん拡がっていく。いくつか心に留めておきたいメッセージがあった。両氏の言い分が混在しているが、おそらく互いに共感しているのだと思う。

学生に細胞のスケッチをさせるとメチャクチャのスケッチになる。そう見えている(見えていない)のだろう。

ブータンの坊さんは葉っぱの虫食い跡が文字に見えるという。医者がレントゲン写真の肺ガンが見えるのは 科学哲学 「理論付加性」 による。

人間の意識は止まっているものしか扱えない。動いているものを止めてみるとそこに秩序があるように見える。「動的平衡」の平衡状態だけを意識は捉える。

秩序とは脳と身体のせめぎあいでいつのまにか成立するものなのに、静的、スタティックなものになってしまっている。要するに、脳全体の物理化学的なプロセスの中で、ある動的平衡状態が生まれたときの機能が秩序。秩序だっていないのが通常の脳。

ダ・ヴィンチの「渦」のスケッチがある。水の分子は流動的だが渦の形は動かない。渦の不思議さに惹かれたのだろう。

効率的に生きるなら早くお墓に入るべし。稲垣足穂は、おむすびを食べるのはまどろっこしいからトイレにポンと捨てればいいと言った。

最後のコメントはあまりに愉快で思わず笑ってしまい、同時に未だ勤め人だった頃を思い出した。どの会社でもそうかもしれないが、「経費」は悪者扱いか必要悪のイメージで捉えられやすい。じぶんが在籍していた会社でも、会議等で「経費」が槍玉に挙がることがあり、そんな時 ”事業を止めてしまえば経費はかからないよ” と心の中で呟くことがあった。効率を追求しすぎるとそういうことになる。そう言えば、”命より健康が大事” という言い回しもあったっけ。しかし、経営も生命もゴーイング・コンサーン(going concern 継続企業:Yahoo!百科事典) を目指すものだろうに。

最後に内田樹氏だが、本書の 「経済」 のはなしは”目から鱗”ものだった。じぶんが 「経済 」に関心を持ち始めたのは還暦の少しまえ。勤め人の頃は、企業会計に興味を持つことはあったが経済全般に関する興味はなかった。「経済」 に対する関心は ”疑問” から始まった。あまりにも解らなすぎて。

世の経済専門家という方々は 「経済」 のある面のゲーム性(例えば金融というマネーゲーム)については語るが、「経済」の本質については何も話していない気がするのである。要するにスポーツ評論家、あるいは競馬の予想屋のようなものだと。

「経済」の不可解さに困惑していたじぶんが ”もしかして” と思い始めたのは、生物学に興味を覚えてからである。生物学は生命を問うものだが、「経済」も社会現象というより生命現象に深く根ざしたものではないかと思い始めたのである。

じぶんの不勉強もあるが、今まで、”「経済」の本質” に触れるモノではないかと思ったのは、本書の対談者でもある養老孟司氏の「花見酒」説と今回の内田樹氏の「人間成熟装置」説である。両名とも「経済」については門外漢である。それゆえ、逆に本質に迫れる自由さを持っていると思う。

内田氏の疑問は
ぜんぜん専門分野じゃないんですけど、経済活動のことを考えているんです。どうして、最近経済がダメなのか、その理由を考えていて、もしかするとそれって、”経済とは何か”という本質的な問いの答えを間違えているからじゃないかなと思ったんです。経済って、本質的に動的平衡なんじゃないかな。モデル的にずいぶんと近いような気がするんです。だって、経済活動の本質って、一言で言えば、モノがグルグル回っていくことでしょ
 となる。

じぶんはこの問題提起だけで、ウンウンと頷いてしまった。そして、内田説は続き、
 「資本主義者たちの最大の誤謬は、このグルグル回すためのシステムが整備されるのは、そこで行き交う商品そのものに価値があるからだと思っていることにあると思うんです。みんなが商品を欲しがる。だから、それを作ったり、流通させたり、買ったりすると思っている。でも、ぼくはそれは違うと思う。商品はあたかも価値があるかのように仮象しているだけなんです。どうして価値があるもののように見えるかというと、そうしないとグルグル回らないから。商品が物神化するのは、そうしないと”グルグル回すシステム”の整備が捗らないからなんです。交換の目的は、交換されるものそれ自体にあるのではなくて、”交換することができるような人間的能力”を涵養することにある
という提唱になる。

この仮説に対し、著者も
 「貯めることが流れを阻止していて、それが21世紀の経済の問題だというご指摘は、現在環境問題が陥ってる、ある種の隘路とまったく同型です。地球が温暖化するかどうかは、実は誰にもわからないことです。でも、地球温暖化の原因とされる二酸化炭素が大気中に留まっているという話は確実なのです。流れが滞っているからです。二酸化炭素は、本来は生物から生物にパスされるべきもので、そのパスを最終的に受け止められるのは、地球上では植物だけなのです。二酸化炭素は、私たちが呼吸すれば出る。あるいは、化石燃料が燃やされれば出るわけです。それを吸収できるのは植物だけですが、その植物までたどり着く全体の流れが滞っている
と自然界においても ”回す” ことの重要性を説く。

経済の専門家には見向きもされない仮説であろうが、じぶんは価値ある提案だと思う。本質に迫ることを考えずに上っ面を弄っているだけでは、現代社会が抱える経済的問題を解決できるとは思えない。今こそ、このような大らかな論理の展開が必要とされるのではないか。経済活動の中で本当に価値あるものは何なのか。貨幣なのか、物なのか、あるいは、もっと違うモノなのか。「経済」 って経済の専門家だけでは手に負えない代物ではないのかと思う。

両氏の対談は経済の話以外に、ES細胞とか、研究者と発見の構造的相同性とか興味深い話に発展する。著者も語っていることだが、内田樹氏は哲学者だろうか。いつも、人間と社会に関わることを予想外の切り口で面白い断面を見せてくれる。

本書はまさに帯にあるように、

” いつも好奇心に目を輝かせている
 自由闊達な四人が、
 「福岡伸一」の生命観に
 化学反応を起こしていく。
 相互につながる
 四つの「はなし」と、
 躍動する動的思考で語る
 著者の「はなし」。           ”

である。

今後の進展が楽しみだ。


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