脳と身体を超えて

  • 2016.11.12 Saturday
  • 14:37

森田真生(編)『数学する人生』(新潮社)

 

森田真生著『数学する身体』に影響を受けて、次に『数学する人生』読んでみた。この本は数学者・岡潔が1969年に京都産業大学理学部に就任してから九年にわたり実施した講義の内容を森田真生氏がまとめたものである。内容はほとんど理解不可だ。しかしながら ”ちんぷんかんぷん” という表現は似つかわしくなく、何やら親しみを感じる不可解さなのである。

 

まさに本書のタイトル「数学する人生」の通り、岡潔は人生を賭けて数学に取り組んだ人だったのだろう。岡潔がこの講義を行ったのは68歳頃からで、ちょうど今のじぶんと同じ歳の頃なのである。比較するのもおこがましいのだが、七十を前にした一人の男の人生観として見ると、その余りの落差に愕然とする。

 

岡潔にとって、青年期における三年間のフランス留学は人生を左右するような大きな体験だったようだ。この辺りのことを本人の語りを読んで、じぶんの青年期と比べてみると、そのあまりの体験の密度差にこれまた愕然とするのである。あれほどの奔放な青年期の生き方に憧憬し、嫉妬さえ覚えてしまう。生まれた時期に半世紀ほどの開きがあるのだが、このぐらいの時間の開きなどは人の生き方と何の関係もないのだと教えられた。

 

じぶんは本書で初めて岡潔を知ったと言っていい。以前は ” 孤高の数学者 ” 的なイメージを持っていたのだが、それよりもずっと人間くさい人物だったように思われる。岡の俳句、絵画、彫刻などを評価する表現は今のじぶんにはほとんど理解することができない。しかし、これは前述したように親しみを感じる不可解さなのである。

 

岡は仏教を信仰?していたとあるが、これも岡の数学する人生に少なからぬ影響を与えていたと思われる。岡は「情緒」という言葉を自分流に再定義?して重要なキーワードとして扱う。そして、情緒が一つの先験観念として価値判断の基礎になっているものは、文化・宗教を通じて仏教以外にはないと言い。さらに、自分は数学の研究を通して情緒を数学という形に表現しているのだと言う。こうして、岡潔は人生を数学する。

 

 主人は、日頃から自分が数学をやるのはただ数学という一つのものをやっているのではなく、数学という表現法を通して、自分の心を表現しているのだと申しております。数学を中心に、主人の人生はなにもかも渾然と一体になっているのでしょう。(岡ミチ<岡潔夫人>)

 

かつて、じぶんは二十代の頃に一人の数学者の人生に関心を持ったことがある。2008年に新装版が発行されているようだが、レオポルト・インフェルト著『ガロアの生涯-神々の愛でし人』(amazon)の主人公 エヴァリスト・ガロアである。ガロアは19世紀のフランス純粋数学の世界に出現した天才数学者である。共和主義者であったガロアは21歳という若さで決闘により命を落とす。

 

じぶんが『ガロアの生涯-神々の愛でし人』を読む動機が何だったのかは憶えていない。ガロアの功績と言われる「群論」に対する興味だったのか、またフランス革命という史実に対する関心だったのか。しかし少なくとも、ガロアが数学者であったということが重要な要因であったことは間違いない。今だから分かるような気がするのだが、ガロアも人生を数学する人であったのではないだろうか。

 

じぶんが若い頃から、数学的(論理)思考に対して敬意の念を持っていたことは間違いない。と同時に、人生が論理で全て賄える?とは感じていなかったことも事実だ。そして、こんな状況がこの爺の歳まで続いているのである。だから、解剖学の養老孟司や、武術家の甲野善紀等を経て、今、人生を数学する数学者・岡潔、数学を身体化する独立研究者・森田真生に出合ったのは巡り合わせとも思えるのである。

 

本書を通して知った岡潔の人生観は仏教をも包含する壮大なビジョンである。本書の編者である森田真生氏は結の文の中に次のようなことを書いている。

 

 岡は『春宵十話』の中で、自分に至る精神の「系図」を描くなら、「道元禅師、芭蕉翁、漱石先生、寺田(寅彦)先生、芥川さん、そして私」だと記しているが、道元がただ座り続けたように、芭蕉がただ俳諧の道を歩み続けたように、漱石がただ小説の創作に耽ったように、岡もまた、ただ数学三昧の日々を生きた。

 

数学とは、数学者とはそのようなものではないか。今のじぶんには分かるような気がする。ただ、ほとんどの人々がそうだと思うのだが、我々市井の人はかく生きることができるのだろうか。例えば、じぶんのライフスタイルとは全く異なるだが、趣味三昧のセカンドライフは終わりに何を見るのだろうか。趣味も道(どう)に至るほどの境地に立つまでには大変な道のりだろう。しかし、何かを頼りせねば生きる力も失せる。

 

七十を前にして岡潔の人生観に触れることができたことを幸甚と思いたい。編者が二十そこそこで岡潔の文を読み人生が変わったというのとは全く異質の体験ということになるが、スポットを当ててくれた編者に感謝したい。

 

補足、というより蛇足かもしれないが、本書に紹介されている岡潔の面白いコメントがあった。このコメントにはじぶんも本当に共感を覚える。

 

 テレビを見るといっても、西部劇とか、剣劇とか、たあいもないものだが、ズルズルとテレビを見たあとの感じは、実際よくないものだ。そこで、しばらく前、プッツリとテレビを見るのをやめてしまった。すると、とても気持ちがよい。まるで春先の気分のようで、浮き浮きした気持ちである。おかしなこともあるものだと思ったが、かりに「解放された気持ちをよろこんでいるのかもしれぬ」と名付けてみた。

 


 

数学する人生

発行 2016年2月 新潮社(Kindel版:amazon

 

著者 岡潔/森田真生(編)

□岡潔/1901年、大阪市生まれ。1922年に京都帝国大学物理学科入学、数学科に転科し、同大を卒業。1929年にフランスに留学し、帰国後、広島文理科大学助教授に。職を辞してからは、独自の数学研究に没入し「多変数解析関数論」の分野における難題を解決した。その功績は大きく、世界的な数学者として認識されている。1949年、奈良女子大学教授に就任。定年退職後、1969年に京都産業大学教授に就任し、最晩年まで教壇に立った。1960年、文化勲章受章。1963年、毎日出版文化賞受賞。1973年、勲一等瑞宝章受章。1978年没。□森田真生/1985年、東京都生まれ。独立研究者。東京大学理学部数学科を卒業後、独立。現在は京都に拠点を構え、在野で研究活動を続ける(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)

毎日午前中はラマダン?!

  • 2016.08.13 Saturday
  • 18:57

6月の初め、秋山佳胤著『不食という生き方』に触発されてネットで調べてみたら、作曲家・三枝成彰氏の『無敵の「一日一食」』とか、 俳優・榎木孝明氏の『30日間、食べることやめてみました』という本があることを知って驚いた。

 

さらに、 『不食という生き方』 の中で紹介されていた森美智代氏の『断食の教科書』を見つけ、何となく電子版をダウンロードしてみた。 森美智代氏(1962年生れ)は20代に難病の脊髄小脳変性症にかかり、医師・甲田光男氏 (平成20年8月死去) の食事療法と健康体操の指導により、現在も「一日青汁一杯」の食事だけで元気一杯活躍されている方である。

 

『断食の教科書』 はエッセーでく、本格的な断食紹介が内容で安易に読み切ることの出来ない本で、今はあちこちの頁を眺めている段階である。併せて、甲田光男氏の『腸をキレイにする!』も読み始めた。 そして、この本で著者が推奨する「半日断食」ということを知る。

 

「半日断食」とは朝食抜きの別表現なのだが、個人的にとても気に入っている。断食というと何か覚悟がないと実行できないという雰囲気があるが、朝食抜きにすれば前日の夜から正午までの半日だけ断食したことになるという説明がとても面白く感じられたのである。

 

しかし、この朝食を抜くということが一般に、或いは専門家の間でも評判が悪いらしく、甲田医師も長年随分と難儀したようだ。現実に、じぶんも朝食はちゃんと食べなければならないとズーっと思っていたひとりである。

 

しかしながら、十五年前に腸閉塞の手術をしてから、お腹の調子は概ね良好なのだが、癒着などの所為か時折腸の動きが鈍り(じぶんは腸のフリーズと呼んでいる) 困ることがある。以前は病院で整腸剤などを出してもらっていたのだが、ここ数年は発酵食品やサプリで通してきた。

 

さらに、六十代の終わりの年を迎え、何か ” 生き方 ” に直結した良い方法がないものだろうかと思っていたのだが、そんな時 『不食という生き方』に出合い、不食/小食という生き方があることを知った。世間には、肉食は良いとか悪いとか、野菜中心にすべきとか、その他様々な健康に関わるウンチク本が出回っている。それらにはそれぞれ一理あるのだろうと思いながらも、ちょっと冷めた目で通り過ぎてきた。

 

しかし、今回はちょっと立ち止まって、そして、やってみようと思ったのである。今 、「半日断食」を始めてから二ヶ月ほどになる 。その方法は、仝畫庵罎聾之訴を食べない(野菜ジュース、青汁などを摂る)、朝と夜、推奨の健康体操を行う、生水を飲むことである。結果として調子は良好である。朝に一時間ほどのウォーキングをしているのだが、炎天下でもほとんど何の問題もない。

 

もっとも、「半日断食」 を始める前に食べていた朝食もビスケットとバナナぐらいだってので、しっかりと朝食を食べていた人に比べれば変化は小さいかもしれない。それでも空腹感はあった。しかしそれも生水で補うことができた。さらに、朝食を食べなくても十分に動けること、むしろ快適に動けることを確認できたことは大きい。今までのじぶんの常識が覆った。

 

この 「半日断食」 を始めて二週間後ぐらいに、ベロ(舌)の色と形が良くなっていることに気がついた。特にずっと気になっていたベロの縁の歪み(ぶよぶよ)がキレイな面に変わっていたのには驚いた。そこで思ったのは、これは胃壁、腸壁にも何らかの好影響が生じているかもしれないという期待である。これは続けてみようという強いモチベーションになった。

 

さて、この変化の原因だが。今回始めたことは、朝食(固形物)抜き、健康体操、生水を飲むの三つである。じぶんは健康体操と生水の効果が特に大きいのではないかと思っている。ある体操は、元々ムリな形に納められているために片よりがちな内臓を自然?に戻すために行われる。この説明には、確かにそうだと思う。四足歩行の方が内蔵の収まりがいいに違いない。

 

さらに生水だが、子どもの頃は井戸水、水道水をガブガブ飲んでいた気がするが、大人になってからはそんな記憶がない。清涼飲料水とかその他の嗜好品が増え、さらにお茶、コーヒーなども加熱されてしまっている。しかし、この生水が腸の働きに良いのだという。しかも、ガブガブ飲むのではなくチビチビやる。確かに、生水をチビチビ飲むようになってから口内の潤いが良くなったのは当然のことと思えるのだが、時折、口内壁から潤いがしみ出して来るような感覚があるのは不思議である。

 

「半日断食」は生水だけで過ごすのがベストのようだが、無理な心的ストレスを生じないようにお茶、ジュースぐらいは摂っても問題ないようだ。甲田医師は、空腹時に腸の排泄機能が高まるので「半日断食」 の意味はそこにあると言う。呼吸もそうだが吐くほうが先で、吐けば自然に空気が入ってくる。現代の栄養学は摂る方のみに偏っているという甲田医師の説には尤もだと思う。

 

敬虔なイスラム教信者には怒られるかもしれないが、じぶんはこれを午前中だけのラマダンとして遊んでいる。しかし、考えてみれば、ホンモノのラマダンは深〜い智恵が隠されている慣習なのかもしれないと推測できる。

 

関連投稿:不食という生き方を考える (2016/06/09)
     技と食を考える (2016/04/02)

たかが脳、されど・・・

  • 2016.07.07 Thursday
  • 18:10

鈴木大介著『脳が壊れた』(新潮社)

 

これは脳梗塞を体験した著者のとても貴重な体験記である。タイトルの脳が壊れるという表現が面白く、さらにこの表現にさほど違和感を感じないのだから不思議である。一般に臓器の病気は壊れたという表現を使わない。{脳}は臓器ではないのかもしれない。だから脳死という言葉も生まれるのだろう。

 

むかしから{脳}に対する興味がつきない。言ってしまえば、あらゆることが {脳} に帰着するという考えに説得力を感じる。第一、 {脳} がなければこんなブログを書くこともない。我々は普通に頭が良い、悪いというような単純な表現をするが、しかし{脳}がそんなシンプルな現象でないことはずっと前から気になっていたことだ。たとえば、理性と情動は不可分の現象であろうというような予感である。しかし、これは社会の一般的常識に反する。

 

著者はプロのライターである。著者は脳が壊れた状態を言語化することを試みた。脳梗塞を体験する人は多い。しかし、その状態を言語化できる人は稀である。著者もある意味 ”僥倖” であるという表現を使っているが、われわれ読者も本書のような体験記を読むことができるのは ”僥倖” であると言えるのかもしれない。プロフィールにあるように、著者はルポライターとして社会からこぼれおちた人々を取材対象としてきた人物である。

 

 人間の心は具体的に見て触れる器官ではないが、そこにこれほどまでに痛みを感じる痛覚があることを、僕は改めて認識した。

 これは塗炭だ。

 しかも、ただ「心がざわめく」というだけで、その原因が不明となると、これはまさに今まで僕が取材し続けてきた「社会的に生きづらい人」、メンタルを病んだ人たちの訴える不定愁訴ではないか。(省略) 

 僕は、肉体的な苦痛以外に、死んでこの苦しみから逃れられるのならいっそ死んでしまいたいというほどの苦しみがあることを、知らなかったのだ。心がバランスを崩すというのがこんなにも辛いことだなんて、僕は本当に分かったフリをしていただけだったのだ。

 

「右側頭葉のアテローム血栓性脳梗塞」、著者が退院後もこの病の後遺症に苛まれながら綴った文である。著者は、自分の体験を経てこれまで自分が取材してきた人々は傷ついた{脳}を抱えた人たちではないかと気づき惑う。{脳}の一部を損傷しただけで?、感覚だけではなくこんなにも過酷な情動の嵐に苛まれるとは、これには著者でけではなく読者の心にも衝撃を与えるはずだ。と同時に、じぶんには ”やっぱり?!” という感覚が蘇る。

 

本書の中で、著者は自分の脳の中で起きてくる様々な現象を懸命に言語化しようとする。その光景は痛ましいほどだが可笑しくもある。臓器の病気は摘出、あるいは移植などの治療法があるが、{脳}の病気はそれができない。しかし {脳} にはリハビリという治療法がある。著者はこれを感動的ですらあると表現している。そして、著者はこのリハビリが、 まだ制度上困難だが 、「社会的に生きづらい人」のために役立つに違いないことを発見する。

 

著者の物書きとしてのプロ魂には恐れ入るが、もうひとつビックリなのは夫婦関係である。著者が何もかもあっけらかんに告白描写しているのも驚きだ。著者の告白によれば、 妻は発達障害のなれの果てという表現になる。彼女が著者のアパートに転がり込んで始まった二人の日常は強烈である。知能は高いが「やる」手順が一般とはずれている彼女との生活で、ほとんどの家事を著者が担うことになる。さらに、抗うつ剤の副作用で職場を解雇、自傷行為、そして脳腫瘍で入院へと続く。

 

この強烈な夫婦関係が遠因?になって著者の脳梗塞が引き起こされることになるのだが、この脳梗塞からの復帰劇もこの二人の強烈な関係がエネルギー源となっているのだから不思議なものだ。簡単に良い悪いで片づけられる話ではないのである。著者は夫婦生活を坦々と表現しているが、もしじぶんのことと考えるとオーバーヒートで思考停止になりそうだ。若干のコミュニケーション・ギャップを抱えるじぶんの生活環境などは取るに足りない事柄に思えてくる。

 

注意すべきでないところに集中してしまう「注意欠陥」、喜怒哀楽の感情が激しく発露する「感情失禁」は後々まで著者を苦しめた脳梗塞の後遺症だ。しかしこのような心的傾向は程度の差こそあれ、誰にでも起こりうることではないかと想像する。{脳}を傷つけるまでいかなくとも、環境の激変によるストレスで著者の後遺症に似た現象を多くの人々が体験していると思う。ストレスが原因の場合は一過性の症状で済むが、傷ついた{脳}の場合はその症状が深く長い、場合によっては一生その症状に苛まれることになる。

 

著者は41歳で脳梗塞に倒れた理由を「自業自得」と見る。著者は「背負い込み体質」「妥協下手」「マイルール狂」「ワーカホリック」「ケチ」「善意の押しつけ」と自己分析する。さらに、自分の脳梗塞は生活習慣病というより「性格習慣病」であると結論づける。そして自己改造への道と突き進むことになる。自動お掃除機「ルンバ」、エアコン「霧ヶ峰」を買い、晩酌の習慣化、そして「スロトレ」(ごく低負荷で長時間のウェイトトレーニング)を実行するのである。

 

考えてみれば、著者の病前、病中、病後のどのフレームも著者のエキセントリックな行動力に支えられてきたと言えなくもない。著者は自分の所為で脳梗塞を引き起こし、自分でリハビリに耐え、自己症状の言語化に挑戦し、自分で脳梗塞再発防止対策を実行してきた。自己完結型の闘病記と言い切ってしまいたくなる。しかし、著者も記述しているところではあるが、核心は家族、医療関係者、仕事・趣味の仲間の支えであったということを忘れてはならない。

 

 だが、今思うのは、もっともっと大きなネットのようなもの上に落ちたという強い「軟着陸感」だ。どれほど幸運が重なっても立派な保険に入っていても潤沢な貯金があったとしても、そのネットが欠けていたら、僕にとっての闘病は生き地獄だった。そのネットが一切なかったら障害の辛さに負けてあっさりと自死の道を選んでいたかもしれない。

 その「ネット」とは、人の縁である。

 

最後に、本書は人間にとって{脳}というシステムがどれほど ” 厄介 ” なものかを改めて考えさせてくれる本であった言えるだろう。

 


 

脳が壊れた

2016年6月 新潮社発行(amazon

 

著者 鈴木大介

すずき・だいすけ
一九七三(昭和四十八)年千葉県生まれ。ルポライター。家出少女、貧困層の売春、若者の詐欺集団など、社会からこぼれ落ちた人々を主な取材対象とする。代表作は『最貧困女子』。その他の著書に『家のない少女たち』『最貧困シングルマザー』『老人喰い』など。またコミック『ギャングース』(原案『家のない少年たち』)ではストーリー共同制作を担当。

 

 

技と食を考える

  • 2016.04.02 Saturday
  • 14:57
甲野善紀・小池弘人著『武術と医術 人を活かすメソッド』(集英社)

さて、『武術と医術』の著者 甲野善紀氏に興味を持ってから何年になるのだろう。本書の共著者 小池弘人氏は医学部在学中に雑誌で 甲野氏の講習会案内を見て参加した。この時に甲野氏の技を体験したことなどにより、身体に対する固定概念に捕らわれない統合医療への途を目指すことになる。じぶんも、この頃、著書を通して 甲野氏を 知っており講習会に興味を持っていたのだが、残念なことに行動に移さなかった。もし参加していたら、じぶんのその後の生活も、もしかしたらちょっと違うものになっていたかもしれない。

本書ばかりでなく、甲野善紀氏の書を読んだ人はチンプンカンプン派とナルホド派に分かれるような気がする。勿論、じぶんは後者である。だからこそ、30年近く気になり続けている。と言って、甲野氏を深く理解できたとは言えない。語りの部分はある程度理解できても、実際に身体を使って体感するところは殆どゼロに等しい。しかし、身体で考える(体感する)ところが武術の根幹である。

「人間の運命は決まっているのか否か」という問いが甲野善紀の人生を変えたという話は、じぶんも当初から知っていた。学生運動の盛んな時代に農大の学生だった甲野氏は、孵卵場での実習体験やら、玄米自然食への関心から人間の文明と文化へと発展し、さらに禅や仏教、神道、キリスト教などに関心を持つようになる。そして「人間の運命は決まっているのか否か」 への回答として、「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」という確信を得る。甲野氏が21歳の時である。

 もうこれで理論は分かった。この私の結論が変わることは生涯ないだろうから、あとはこの事を感情レベル、体感レベルでも確信し、今後私の身に何が起ころうとも、うろたえないようになろう。それには体を通しての行しかない。打たれたり投げられたりしそうになったら、思わずそれに対して何とかしようとする自分が現れてくるから、この武の技を稽古する事にしよう。(甲野)

こうして、甲野氏は武術の道へと進むことになる。一方、小池弘人氏は甲野氏の講習会に参加する前から漢方、鍼などに関心を持っていた。偶然、甲野氏の講習会に参加することになったのは、もはや因縁と言うしかないだろう。甲野氏と小池氏は武術と医術という異なる分野で活躍する二人だが、身体を複雑なままに受け入れ、安易な「二分割思想」に捕らわれない姿勢は共通している。これは個人的にずっと興味を持ち続けている思考法でもある。

身体に対する伝統的な常識は、武術の分野でも医術の分野でも、なかなか変革しがたいもののようだ。これにはお二人の先生方も苦労されているようで、色んな抵抗の体験談が紹介されている。

 検査とは一つの介入で、そのことで何か全体の状況が変わります。物理の観測者問題ではないですが、何か介入すれば、絶対にそれまでの体の状況とは変わってしまうわけです。そのことを僕らはもう少し理解した方がいいのかなという気がします。(小池)

この小池氏の提言は一般的には難解だが、検査することがかならずしも「良」でないという捉え方は意味深である。ある意味の覚悟を伴うという意味ではないだろうか。現代医療が最良というわけではない。勿論、 終わりまで現代医療に託すという生き方もあるわけで、しかし、いわゆる代替医療と謂われるものの中にも研究に値するものがあるよ、と両氏は提言する。

なかには、脊髄小脳変性症と言う難病を断食と生野菜で克服し、食べる量が一日一回生の青汁を一杯といくつかのサプリメントだけで十五年以上健康に生きている女性の事例もあるという。こういう断食療法などに対し無条件に訝るだけではなく、公的にその信憑性を詳しく研究されることがあっても良さそうに思うのだが、現実にはそのようなことが無いのだという。

両氏は、身体というものが現代人の想像を超えた存在であることを実感できているのだと思う。そして、この実感を何とか理屈に変換して世間に広めようとしている。本邦に身体と言葉の双方を使える先達がいることはとても幸甚なことに違いない。我々も素直にこの事実を受け入れるべきなのだろう。

 私はまさにかけがえのない「身体」というものを基軸にとらえていくことこそが大切だと考えています。つまり一つの考えや枠組みに縮退することなく、いくつもの身体像が多元的に存在するような体系です。本書の中での「食」に対する基本的スタンスが、まさにこうした立場に立脚しています。科学的に厳密に検証した唯一の真理とかではなくて、ある場面、場面で必要なものが変わる。もしくは、よって立つ考えによって摂取するものが変わる、つまり究極のメニューのようなものが存在しない、といった考えです。(小池)

この小池氏の言葉はまさに共著者お二人に共通する考え方を象徴する提言であると思う。身体にとって絶対的な食も技も存在しない。だが、このことを受け入れるにはある種の苦痛を伴う。依るべきものがないという不安と苦痛だ。そして、この苦痛から解放されるには自分の身体を知るしかない。 それには古今東西の所作(考え方も含む)と食を見直してみることが最善と考えられる。じぶんは本書の主旨はこのようなことではないかと理解した。
 

武術と医術武術と医術
発行 集英社新書Kindle版(
amazon

著者 甲野善紀
1949年、東京都生まれ。武術研究者。長年の武術研究で得た身体技法は幅広い分野で注目される。著書多数。
著者 小池弘人
1970年、東京都生まれ。小池統合医療クリニック院長。群馬大学大学院医学研究科卒業。著書に『統合医療の考え方活かし方』等。

 

ブログとウォーキング

  • 2016.03.09 Wednesday
  • 15:21
シニアになって始めたブログとウォーキングが生活習慣になった。じぶんは、特に運動、スポーツをやらないので、若い頃から歩きを心がけていた。それも改めてやるというよりは、意識的に通勤時間の中に歩きを取り入れていた。郊外の住宅は最寄り駅まで20分ほど歩かなければならなかった。自転車、バイクを使う人が多い中、じぶんは敢えて歩いた。しかし、休日の移動はほとんど車だった。

定年後、嘱託で4年間働いていたのだが、3年目の時に先輩などの話に刺激を受けて休日のウォーキングを始めた。一時間位(約4km)が適当かなと思い、家の近くを歩き回って一時間程度のコースを探した。そして、多少のバリエーションはあるが、一つのコースが定まった。原則として、時間の許すがきり朝食後にウォーキングを行い、雨と強風の日は中止とした。これは仕事を辞め年金生活になってからはデイリーの習慣となった。

やり始めると、やらないと何となく気分が落ち着かない。これは単に心理的なものではなく、直に運動(身体を動かす)は心に影響を与えると思う。実際に、すぐれない気分がウォーキングで解消することもある。また、歩くことは考えることを促進させるようで、巷間言われるように ” 考えごとは歩きながら ” が良い。誰にでも「哲学の道」(wikipedia)はある。

とにかく、人間は生きてる間、身体から解放されない。これは運命、或いは業(ごう)と思って諦めるしかない。さらに、それともう一つ、心というやっかいなものがある。これは、おそらく身体の一部である{脳}からきている。さりながら、心は「心頭滅却すれば火もまた涼し」などと身体を無視した無茶なことを言う。

一時、” コンピューター、ソフト無ければただの箱 ” などと揶揄されていた頃があった。しかし、これは逆も真なりでお互いさまなのである。ソフト(プログラム)もハード(コンピューター)が無ければ機能しないのである。ところが現代では、何となく、人間は心の方が身体より偉く高級である、というような意識がある(と思う)。それは、心が言葉を使えるからではないか(と想像する)。しかし、言葉を発音するには身体の筋肉の助けが不可欠なのである。

まあ、どちらにしても、個人は心と身体からなるという認識は妥当だろう。心も身体も、自分が不調なときに自らの存在を主張する。怪我、病気になると身体を強く意識し、もしくはそれだけの存在になり、さらに心も身体の僕になる。しかし、心が不調をきたせば、心は身体を乱暴に引きずり回す。

もっと普通に心と身体を自覚していたいと願う。それゆえのブログとウォーキングなのだ、と今は思う。最もベーシックな運動だが、歩きを続けていると自然に歩くことの難しさをつくづく思うようになる。武術研究家 甲野善紀氏(wikipedia)の動作などを映像で見ていると、歩くことでさえ一つの ” 術 ” と言えるのではないかと思えてくる。

一方、心の発露として言葉、音楽、絵画などが考えられる。その中で、人間の心の中に占める言葉の重さは特別なものだろうと考える。じぶんがブログを始めたのは、そもそも「webデザイン」を学んでいた時に、教材の一つとして取り上げられていたからである。この時に登録したブログを実際に活用し始めるのは3年ほど経ってからである。当ブログは一般的なブログのように自己アピールを目指していない。結果として「マイ・メモリアル」になればいいぐらいに思っている。

今、じぶんがブログを続けているのはじぶんの心を回すためではないかと考えている。{脳}が生きている限り心を回し続けなければならない。シニア世代にとって、そのためには科学的な、アート的な、社会的な、宗教的な活動がもっとも適していると思われるのだが・・・。このことは高齢化社会を迎えるどのコミュニティにとっても重要な課題となるだろう。

後付け、もしくは後智恵になるが、ブログとウォーキングは今のじぶんの心と身体を保つための最も基本的な生活術になっているのかもしれない。
 

清原事件?のこと

  • 2016.02.18 Thursday
  • 21:10
元プロ野球選手 清原和博の覚醒剤事件が世間を賑わしている。TV番組等でも何度も取り上げられ、司会者が、いわゆる専門家と呼ばれる人たちに、なぜ清原は覚醒剤を止められなかったんでしょうか、と問う。そして、本人の性格、家庭環境、友人関係、トラウマ等々が原因ではないかとの雑談で終わる。そして、そこに流れる空気は所詮自分とは無縁の他人事。
清原
これは覚醒剤関係だけではななく、通り魔事件、ストーカー事件などのニュースでも同じで、自分たちとは異質の性格と環境が原因であるとされてしまう。おそらく統計学的にも、これらの事件を起こしてしまう人たちの全人口に対する割合は小さく、ほとんどの人々はこういうことに無縁で一生を終えるのだろう。

じぶんは、人間社会で起きるこのような複雑な事件は、結局人の{脳}に起因すると考えている。善悪は別にして、過剰に発達した人間の{脳}が様々な事件を引き起こしていることには間違いがない。このようなことは、動物の世界では皆無?だろう。しかも、この厄介な{脳}は全人類が同じ構造にできているのである。

かつて、人間の体の構造(内臓など)は貴賤の違いで異なると信じらていた時代があったという。さすがに、今そんな事を信じている人はいないだろう。しかし、{脳}についてはどうだろうか。清原容疑者と自分の{脳}が全く同じ作りだと信じて疑わない人はどれだけいるのだろう。おそらく調査したとしても、表向きは ”違いはない” と答える人の割合が圧倒的に高いであろうと想像できる。しかし、自分の心の奥を覗いてみると、また違った声が聞こえてくるかもしれない。

このような事件が起きるたびに、じぶんは{脳}のことを考える。じぶんの{脳}と容疑者の{脳}の違いは何だろうと。それは{脳}の本質的な機能の違いではなく、色んな環境要因の違いであり、それによって全く異なる何かが発動してしまうのではないかと。しかし、だからと言って個人の社会的責任が不問にされてよいとは思わない。

さりながら、このような事件を単に社会的問題と見るだけでなく、脳科学の視点で研究することも重要なことなのではないかと思うのである。自分の一部と言えども、自分の思い通りにならないのが{脳}である。まして、薬物が関わってくれば尚更のことだろう。一般常識の中に、もっと脳科学に関する事柄が入ってくるべきなのかもしれない。

歩くということ

  • 2015.10.21 Wednesday
  • 14:47
時間の許す限り、毎朝一時間ほどのウォーキングをすることにしている。決まったコースがあり、たまに違ったコースを歩いたりする。近頃、同じようにウォーキングをしているシニア世代が目立つようになった。世間の一般的な考え方では、運動不足を補う、カロリー消費(メタボ対策)などがその目的だとされている。じぶんも歩きを始めたのは運動不足解消が目的だった。

しかし、途中から「歩きのメカニズム」へと関心が移っていった。運動不足のためとは言え、ただ歩くだけではもったいなく、また長続きしない。動機が必要なのである。じぶんには今も昔も歩かなければならない深刻な動機はない。

意識的に歩きを始めたのは十年ぐらい前からだろうか。働き始めてから4回ほど引っ越しをしている。最初の会社の寮を除いて、通勤に片道20分ほどの歩きを取り入れていたので、生活の中に自然にある程度の運動が付加されていた。十年ほど前に、ありがちな話だが運動不足を感じるようになり、通勤という運動だけはなく休日も歩きの運動を取り入れることにした。

前述の通り、初めは運動不足を意識していたのだが、途中からどうせ歩くのなら「歩き方」を考えたいと思った。そこで頭に浮かんだのが「ナンバ歩き」である。「ナンバ歩き」を知ったのは、おそらく二十年以上前になると思う。武術研究家 甲野善紀氏の著書を通してである。通勤の往復時にちょっと試してみたりしていたが、ウォーキングにこれを取り入れてみようと思ったのである。

参考にしたのは光文社新書 『ナンバ走り』 (amazon) である。ナンバ歩きをバスケット競技に応用した経緯が記載されている。ナンバ歩きは右手右足、左手左足を同時に動かすという一般の歩きとは異なる日本古来の歩き方とされる。実際にやってみると歩きにくいこと甚だしいのだが、腕を胸まで持ち上げて上腕で拍子をとるようにすると意外に歩きやすい。

ナンバ歩き

さらに、上の図のように肩と腰で形成する四角形をイメージして、肩と腰で四角形をたわめて動かすようにイメージするとなお歩きやすい。自己流で不完全なものだが、歩くという簡単な運動の背景に複雑な機構があることを知るだけでも意味があると思っている。確かに、坂道、階段を上るにはナンバ歩きの方が楽であることはやってみれば分かる。

甲野善紀氏の日常生活での普段の所作がとても興味深いと語る人がいた。じぶんには、スポーツなどの特別なものではなく、日常の所作にこそ本当の身体の動きの真髄があるのではないか思えてならない。歩く、座る、立ち上がるなどの簡単な運動でさえ、現代人にはぎこちないものになってなってしまった。

じぶんが危惧するのは、{身体}のぎこちなさは{脳}−精神−のぎこちなさに通じるのではないか、ということである。

身近な身体論 (2012/09/04)
身体で考える (前半) (2011/08/22)

再・脱TVのすすめ

  • 2015.05.14 Thursday
  • 20:12
さて、このブログで何回目になるか、TVの悪口は。TVと言ってもハード、つまり受像機に対する悪口ではない。ハードに対しては変わらぬ関心がある。問題は、ソフト、つまり番組の方である。ちょうど定年の頃を境にTVに対する印象が180度変わってしまった。かつて、新聞は一番後ろのTV番組表から見るのが常だったが、今は一番後ろだけ見なくなってしまった。必要性と関心が無くなってしまったのである。

初めは 、”TVは無くてもよい” だったのだが、今は、”TVは無いほうがよい” になってしまった。これは、勿論、TV業界あるいは社会環境が変わってしまったことも大きいが、むしろ個人的な問題であると思っている。定年が過ぎたころから、時間に対する感覚に余裕が無くなってきた。

人生の終わりは「死」、このことが徐々に真実味を帯びてくるのである。若いころは、元気な{脳}と{身体}で理解しようとしても「死」は実感がないのである。これが一定の年齢に達すると、老いによる機能低下よるものか、あるいは老いによって新しい感覚が誕生するからなのかは分らないが、若い頃に比べて「死」に対する感覚が現実味をましてくる。

じぶんは、このTVに対する拒否反応は、この{身体}と{脳}の老化によって始まったと想像している。この{身体}と{脳}の老化は、足腰、記憶力の低下、感情のゆらぎなどに現れてくる。じぶんの{脳}はそれに対する対策としてTVを拒否するようになった。共感してくれる人は少数かもしれないが、TVというものは、他人の時間を奪って(食べて)生きる{モンスター}である。しまいには{脳}が犯される

残された時間を有効(?)に活かしたいという、個人の小さな希望など構ってはくれない。ある調べによると、日本人の一日の平均TV視聴時間は5時間とか。誤差があるにしても、これが現実ならば驚異(脅威)である。勿論、なかには自主的に有効な利用の仕方をしている人たちもいると思われるが、多くは一方的に流されてるくるものを飲み込まされていると想像する。

特に驚くのは、バラエティと呼ばれる番組である。毎日毎日、TV族(TVの中で生きている人々)がとっかえひっかえで出てきて、食べて、おしゃべりして消えていく。かと思うと、また別のchに出ていたりする。情報発信とか、娯楽の提供としては中途半端な存在で、要するに仲間内でワイワイやっているだけなのである。不思議なのはこれがスポンサー番組として成立しているということだ。制作側も視聴者側も無頓着で危機感がない。

しかし、じぶんの考えでは、視聴側は被害者である。制作側は、少なくとも生活の糧、要するに「飯のタネ」になっている。仮に、視聴者も番組を楽しんでいるとしても、それには時間の浪費と、依存症という{脳}障害を伴う恐れを孕んでいる。このネットの時代、防災関連等の報道、そして一部の民間有料放送は除かれるが、通常のTV番組はもはや不要のものとなっている。

改めて ”TVは無いほうがよい” と提唱したいのだが、それには一つの大きなマイナス要因がある。それは日本のGDPに占めるTV関連産業の割合である。どっかにデータがあるのかもしれないが、結構大きいのではないかと危惧している。一人ひとりの心身の健康を考えれば、TVは無いのがベストだと思うのだが、国の経済にとっては致命的な問題なのかもしれない。悩ましい問題である。

この歳になってTV離れをして思うのだが、何の不便も感じないし、かえって気持ちが軽い。かつて、タバコを止めて初めて、身体への害もさることながら、タバコが切れることを気遣う日常がどれほどの負担だったのかに気がついた。TVもそんなものである。一度止めてしまえば何のことはない。

花見のシーズンになると思うことがある。TV番組と花見が似ている。例えば、花見にでかけてみると、たくさんの人々がある宴席を取り巻いている。そこは芸能人やら、著名人らの宴席で、華やかに色取られ、賑やかな音楽が奏でられ、目を見張る御馳走がふるまわれている。取り巻きの見物人は我を忘れて見入っている。

しかし、そこから早く離れて、本物の桜を愛でることのできる場所に移りなさい。たとえ、自分のぶら下げている袋にお茶とオニギリしか入っていなくても、自分だけの桜咲く空間を心ゆくまで味わうほうが、縁のない華やかな宴席を見学しているよりはるかにマシだ。

桜

過去の投稿文を調べて、反TVの内容が多いのに驚いた。じぶんにとって、かなり根が深いテーマのようだ(^^)。個人的には、TV族とは無縁で生きていきたい。それは、じぶんにとって、出来ればウラの社会の人たちと関わらずに生きていきたいというのと同じである。社会は多様なレイヤーで構成されている。これは個人でどうなるものでもない。ただ、強くコミットしたいレイヤーとそうでないレイヤーがあるのは自然なことだ。出来ることなら、終わりまで{脳}が健康であるために。

関連投稿:「TV放送」 ビジネスモデルの転換を (2013/05/29)
     オヤジのはなし (2013/05/22)
     さらば たけし、さんま、しんすけ !! (2011/06/09)
     脱TVのすすめ(その2) (2011/02/15)

臨死体験を科学する

  • 2015.03.23 Monday
  • 14:05
こんな雑誌を買うのは、ひょっとして十年ぶりぐらいかもしれない。新聞の広告欄である記事が目にとまり「文藝春秋四月号」を買いに出かけた。気になった記事は『立花隆 脳についてわかったすごいこと』である。昨年9月に放送されたNHKスペシャル「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」の レポーター立花隆氏とチーフプロデューサー岡田朋敏氏との対談になっている。

文藝春秋2015_424年前に、同じ立花隆氏のレポートによるNHKスペシャル「臨死体験 人は死ぬ時何を見るのか」が放送された。臨死体験とは、病気や事故などで死に瀕した人が、意識が回復したときに語る不思議な視覚体験のことである。じぶんがこの番組を見たのかどうかの記憶はハッキリしない。しかし、その後に出版された立花隆著『臨死体験』は記憶にある。残念ながらまだ読んではいないのだが。

当時、臨死体験はオカルトと考える人の方が多い時代だった、と立花氏は振り返る。そして、20年が経ち、臨死体験に限らず、脳や意識が科学的に解明されつつある時代となった。昨年、立花氏は、その意識研究の最前線を追ってアメリカ、カナダ、スウェーデン、オランダ、フランス、ドイツの六カ国を、約2ヶ月間に渡って取材した。そして、この取材の一部が昨年9月の番組「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」の中で紹介された。

じぶんもあの番組を見て、さらにこの雑誌の記事を読んで大いに触発された。番組放送直後に700件近い問い合わせや感想の電話があったという。じぶんも、意識(脳)の研究についてはずいぶんと前から関心を持っているが、今回その研究の最前線を知ることができて大変興味深く思った。

マイクロソフトの創業者の一人、ポール・アレン(今、戦艦武蔵の発見で時の人)からの莫大な資金援助で、脳科学の最先端の研究を行っているアレン研究所のクリストフ・コッホ博士は、脳科学のおける「ゲノム計画」(ブレイン・アトラス)を進めようとしている。つまり、ヒトや霊長類、ネズミの脳の細胞や結合状態を全て分析するプロジェクトだ。本来の「ゲノム計画」は全てのDNAの塩基配列を解読するのが目的だったが、ブレイン・アトラスはこれに似た、いやそれ以上の壮大なプロジェクトになるだろう。さて、この計画にどこまで欧米の物量作戦が通じるのか。

その他、脳の持つ「ケミカルマシン」としての働きを解明しようとする研究がある。ミシガン大学准教授ジモ・ボルジギンの研究が象徴的だ。生きたネズミの脳に、化学センサーと管を埋め込み、脳内のさまざまな生理化学物質をリアルタイムでモニターするのだという。この実験で、死の間際にネズミの脳の中で、セロトニンという幸福感を感じさせる神経伝達物質が大量に放出されることが確認された。これは臨死体験が「脳内現象」であるという説の有力な証拠になる可能性を秘めている。

立花氏は、世界トップの脳科学研究所は、検体を扱うウエットラボとコンピューターや情報だけを扱うラボの両方を兼ね備えていると言う。ノーベル賞の利根川進氏の研究チームには、情報科学の専門家、手術ができる医師、ロボット工学に通じた研究者などが共同研究をしている。これは日本の研究所とは違う、と岡田氏も言う。

「夢の科学」も進化を遂げている。夢というと、一般にフロイトやユングの研究ぐらいしか思いつかない。しかし、アメリカの明晰夢研究所所長のスティーヴン・ラバージ博士の研究は「夢をコントロールする」というものである。「自分が夢を見ている」と自分が分っている夢を「明晰夢」と呼ぶ。博士の理論をもとにしたアイマスクが売られているという。中にLEDが装着されており、特定のパターンの光で刺激を与える。立花氏の体験によれば、「夢の中の鏡の風景が変わってほしいと思うと変わる」のだという。博士は、これは意識と無意識の境界にある「変性意識」における現象と考えている。

また、博士の理論の延長線上に、渡辺謙とレオナルド・ディカプリオ共演の映画『インセプション』が生まれたのだという。他人の夢に入り込んでアイディアを盗むスパイが、夢と現実を行き来するうちに、夢か現実なのかが分からなくなってしまうという物語。面白いのは、夢か現実かを判別する方法としてコマを使うこと。コマを回し、回り続けたら夢、止まったら現実と判断する。
インセプション
そして、これはラバージ博士自身が、実験で、夢か現実かを判断するためにしていることなのだというから驚きだ。まるで映画の世界だ。この映画は未だ見ていないが、ちょっと見てみたい気がしてきた。

さらに、意識を数式化するという研究をしているのがウィスコンシン大学のジュリオ・トノーニ教授、「主観的な意識の量は数学的に表現できる」とする。意識は脳の特定の分野に存在するのではなく、脳の情報と情報の「つながり」が作るネットワークによって生みだ出されるのだとする。教授は、この意識のつながりが作る「こんがらがり」が複雑であればあるほど意識レベルが高く、単純であるほど意識レベルが低いとする説を唱えている。高校生のころ、「神」を数式化できるのではないか、と妄想したことが思い起こされる。

この雑誌の記事で、今世紀は脳科学(意識の科学)の世紀だ、と言われていることを改めて認識した。個人的にも興味ある対象だ。中でも、個人的にもっとも注目したのは臨死体験の大御所レイモンド・ムーディ博士の言葉だ。立花氏が、二十年前ムーディ博士を取材したときは「死後の世界」に否定的だったという。しかし、精神を病んで自殺を図り自ら臨死体験をしてから「死後の世界がある」との立場をとるようになった。立花氏はムーディ氏の言葉を次のように解説する。

 すべては「ナラティブ」、つまり「語り口」の問題だというのです。ナラティブという言葉はわかりにくかもしれませんが、国文学者の三浦佑之さんが、『古事記を読みなおす』という本の中ですごく面白い言い方をしています。
 『古事記』と『日本書紀』は、その中味の相当部分が共通していて、同じ内容が異なるコンテクストで書かれている。『古事記』はあくまで物語(神話)ですが、『日本書紀』は年表を辿るような歴史的な語り口で書かれています。臨死体験も科学的なアプローチで解明する方法もあれば、宗教的、神秘的な見方で捉えることもできる。そして、それはどちらも否定することはできない、とムーディはいうのです。
 約二十年前に科学的に語ったことと、今回の取材で神秘的な見方で語ってくれたことは、脳の中で実際に起きていることを別のコンテクストで語ったものに過ぎないというわけです。


なんか誤魔化しに聞こえるかもしれないが、じぶんにはとても大切な「メッセージ(考え方)」として響いた。いま、じぶんは「言語」というカテゴリーに強い興味を覚えるのだが、そのことに強く関連した提唱であるという確信がある。言葉、論理、情緒が統合されて初めて、意識の構造が見えてくるのではないか、おぼろげながらそんな意識が生じてきた。

終わりに、番組プロデューサー岡田氏が、番組で使ったケンタッキー大学・神経学教授ケヴィン・ネルソン教授の言葉を紹介する。

科学者に言えるのは、どのようにして神秘的な感覚が生じるかだけだ。なぜそのメカニズムが起こるのかという問いへの答えは個々人の信念にゆだねるしかないケヴィン・ネルソン


関連投稿:読書は脳をどのように変えるのか? (2013/12/09)

論理:ロジックについて

  • 2015.02.23 Monday
  • 20:45
今年の一番目と二番目の投稿はじぶんにとって、今とても関心のあるテーマだ。初めの「体の知性を取り戻す」は、人は{身体}でも考える(適切な表現が見つからない)という話である。そして、二番目の「論理の知性を育てる」は{脳}が生み出す言語世界に関わることで、これはずっと我々が慣れ親しんできた観念であり、論理の象徴である数学を通して再認識した。

問題は{身体}の知性の方だろう。これは、今の常識では「?」と感じる人たちの方が大勢を占めているに違いないと想像する。じぶんも「われ思う、ゆえに我あり」ではないが、若い頃より知性は{脳}が作り出す心理的現象か、もしくは霊的現象と思っていた。一方、少年の頃から、一般的にそのような少年は多いとは思うのだが、メカ的(機械的なもの)な構造体に強く惹かれた。しかし、メカ的な構造体と知性に関わる言語的なものとの間には一線を画していたような気がする。

この境界が、現実にあやふやとしたものに感じられるようになってきたのは、コンピューター(パソコン)に身近に触れることができるようになってからだろうか。コンピューターは不思議な機械で、その構造をストラクチャではなくアーキテクチャ(※)と呼ぶ。ハードウェアとソフトウェアを一体で考えなければならないということである。
ハードウェアOS、ネットワーク、アプリケーションソフトなどの基本設計や設計思想のこと。元来、建築学における設計術あるいは建築様式を表していたのが、転じて、コンピュータ用語として用いられるようになった。(IT用語辞典)

初期のパソコンは手間がかかり処理速度は遅かった。しかし、それでも身近に新鋭のアーキテクチャに触れることができただけで感動したものだ。コンピュータ言語 BASIC はOSの役割も兼ね、ハードウェアとソフトウェアのパイプ役的な存在感があった。後に、「コンピューターはソフトが無ければただの箱」などとちょっと揶揄されるようになりソフトウェア(プログラム)偏重に傾いて行ってしまったが、それは大きな間違いだったと思っている。

歴史的な初期のコンピュータ(ENIAC)では、スイッチ群とプラグボードを使い人手でプログラムを入力(正確に言えば配線を変えていた)していたという。ENIAC の場合はプラグボードによる配線そのものがプログラミングになっていたということなので、その頃はまさにハードウェアとソフトウェアが一体であったと言える。後に、コンピューターはプログラム内蔵方式となり、ハードウェアとソフトウェアとの間に明確な役割分担がなされようになって行く。

初期のパソコンは起動すると自動的に ”入力待ち” となった。この状態から、キーボードからの手入力で、もしくは外部記憶装置(カセットテープ、フロッピーデスクなど)からプログラムを取り込むことができた。今思えば、この ”入力待ち” のパソコンは既に知性的だったと言える。そこには、プログラムを入力すれば計算したり画を描いたりすることができる「内部体制」が整っていた訳で、「さあ、何でも入力してくれ!」の臨戦体制にあったということだ。

我々は、プログラムが無ければパソコンは ”死んでいるも同然” という認識に囚われてきたように思われる。しかし、パソコンはその内部に初めから ”プログラムを稼働させる” 構造を持って生れてきたのである。どんなに重要なソフトウェア(プログラム)でもそれを起動そして稼働させる環境(ハードウェア)が無ければそれは記号の羅列にすぎなくなる。もっとも、その記号の羅列を自らの{脳}でダイレクトに稼働することができるヒトがいれば話は別である。その時は、{脳}がハードウェアの役割を果たすことになる。

どちらにしても、ソフトウェアだけでは立ち行かない。ハードウェアだけでは虚しいだけだ。これは人間のアナロジーとも言えないだろうか。実体である{脳}がハードウェア、そして言語である{論理}がソフトウェアとなる。このことは、{脳}と{論理}を分離して考えてはならないということを意味する。双方は相関な存在である。かつて、このことは昔の人、また宗教的修行者にとって当たり前のことではなかったのか。しかし、現代人にとっては非常識な観念となってしまった。

3月に日本で公開となる二本のイギリス映画に注目している。『THE IMITATION GAME』と『THEORY OF EVERYTHING』である。同時にこの二本の作品が公開になるということは、じぶんにとって象徴的である。

イミテーションゲーム
http://imitationgame.gaga.ne.jp/

博士と彼女のセオリー
http://hakase.link/

『THE IMITATION GAME』は数学者アラン・チューリングの物語である。チューリングはプログラム内蔵方式計算機の原理を提唱した人物の一人で、第二次大戦でドイツのエニグマ解読に挑むという史実に基づいたストーリーが展開される。いろんな視点があると思うが、個人的には、コンピューター草創期の社会背景と、{論理}がプログラム化されていくプロセスに興味がある。

THEORY OF EVERYTHING』は理論物理学者スティーブン・ホーキング博士の物語だ。作品としては、妻ジェーンとのラブストーリー(?)がメインストリートのようだ。しかし、じぶんは、難病ALSに関わらず ” 究極の{論理}の世界 ” に生き続けてきた博士の{脳}と{身体}に強い興味を覚える。もっとも、その強い生きる力を支えたものが ” ラブ ” であったのかもしれないが。

{身体}が{脳}を支え、そしてその{脳}が{論理}を構築かつ解読する能力を持った。人間の存在なしに{論理}は存在しない。一方、人間が存在するか否かに関わらず{論理}は存在する、という考え方もある。今、じぶんは前者の立場にいる。しかし、人間は存在しないが{論理}を解読するマシーンが存在するケースはどうか、という問いには「イエス」と応える。どちらにしても、{論理}には受け入れてくれる実体の存在が不可欠だ、という視点は変わらない。

さて、この一年でこの考え方にどんな変化が訪れるのか、楽しみではある。

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