DNAと個人と社会

  • 2017.04.19 Wednesday
  • 12:28

安藤寿康著『日本人の9割が知らない遺伝の真実』(SB新書)

 

この本はPodcast「武田鉄矢:今朝の三枚おろし」で知った。内容は、著者も”はじめに”の中で書いているように、誰もがうすうす感じていることを著者がエビデンス(双生児法と確率・統計による検証)をあげて明らかにしている。

※双生児法とは、身体・心理・行動発達に対する遺伝と環境の要因を明らかにするために、双生児を用いる古典的な方法である。遺伝子を100%共有する一卵性双生児の相関と約50%共有する二卵性双生児の相関とを、環境変化のもとで比較することで、その発達形質の遺伝性を見る。

 

人の知能を含む心的形質は遺伝するというものなのだが、このことは誰もが何となく気がついていたことではないだろうか。顔や、体格が親に似るのだから知能、学力だってそうなのだろうと思うのが自然だ。しかしながら、なぜか運動も学力も努力で達成できるものだと思ってきた(思わされてきた)。それが社会的に都合がよく、また事実を上手に説明する手法が欠けていたということもその理由の一つなのかもしれない。

 

社会が成熟?してきた今、その準備が整ってきたということなのだろうか。しかし、社会の成熟というのもまた眉唾という気がしないでもない。しかしながら、統計的手法が理論的、技法的に洗練されてきたというのは間違いないような気がする。これにより今までスッキリしなかった現象の解説が可能になったということはあるだろう。

 

問題は我々一般人である。専門家が駆使する確率・統計の表現に不慣れなのである。個人的に確率・統計に興味あるのだが、それでもその意味することを理解するのは難しいと感じている。特に確率・統計に関心のない一般の人々にとって、著者の解説はチンプンカンプンか、もしくは思いっきり勘違いされるかのどちらかではないかと思ってしまう。

 

もっとも、最近は天気予報がパーセント(確率)で表示されるのが常で、確率的な表現に多少は馴染んできていると言えなくもない。予報の正確さが増しているとは言え、思いっきり予報が外れることがあることを肌身に感じている。このことが重要なのである。パーセント(確率)と異なる事象が実際に起きるというのが「自然・社会現象」なのである。

 

著者は、形質の種別で異なるとしながらも、人の心的形質の遺伝率は凡そ50%程度だと言う。しかしながら、この50%という数値は集団レベルのものであり、個人にそのまま当てはまるものではないと補足する。個人でみればバラツキがあるが、集団でみれば平均値に集約される。この辺りが確率・統計の分かりにくところである。

 

しかしながら、知能、学力などの心的形質が統計的に半分程度は遺伝的なものであることを知ることは重要であろう。ここは表現が難しいのだが、無駄?な努力を回避できるかもしれないからである。心的形質はいま認知できているものも含め数多く存在すると考えられる。このことを前提に、著者はすべての人が同じ方向に向かって同じ努力をすることに疑問を呈しているのである。

 

本書は6章からなり、「第5章 あるべき教育の形」と「第6章 遺伝を受け入れた社会」は著者の革新的教育論となっている。教育学博士である著者の主旨はこの二つの章にあるのではないかと思われる。本書の刺激的なタイトル「日本人が知らない遺伝の真実」は、著者が ”あとがき” 書いているように、営業的事情により付けられたのではないかと推察する。

 

著者の本旨は、一人ひとりが遺伝で引き継がれた様々な心的形質を活かせる教育、そして社会をどのように創り上げるのかということにある。そのためには、教育が往々にして個人間の格差を拡大させる方向に働くこと、そして最終的に遺伝的な差を顕在化させることを知ることが重要だとしている。

 

 人間が持っている能力は多種多様なのですが、社会的に特定の能力がフォーカスされ、そこに教育資源が投入されることで、遺伝的な差がより顕在化していくことになったのです。

 その結果、ほとんどの人間が不当な頑張りを強制されるようになりました。

 

著者の「学校は売春宿である」説には初めギクッとした。人間の三大欲求としてあげられるのが、食欲、性欲、そして三つ目に何を持ってくるかということになるのだが、著者は知識欲をあげる。そして、今の学校制度は知識欲を充足させるためにすべての人を「売春宿」に閉じ込めるようなものだと言う。ここまでズバッと表現することには驚くが、しかしその主張には一理ある。

 

このような状況を踏まえ、著者は二つの教育改革を提唱する。いまの教育制度の大枠はそのままにして運用を変える小さな教育改革と、働き方をも含めた大きな教育改革である。

 

 12歳頃に形を取り始めた「その人らしさ」は、教育を始めとした環境の影響を受けて増幅され、能力として発言していく。どのように能力が伸びていくかは、その人が本来持っていた遺伝的な素養によるところが大きい。

 

著者は、12歳以降の教育は社会とつながった本物を学べるものでなければならないとし、教師ではなく「本物の知識」を体現できる社会人に教えを乞うことの重要性を説く。さらに大きな教育改革として、社会の「キッザニア化」と「能力検定テストの創設」をあげる。

 

「生涯現役」という言葉があるが、著者は「学びの生涯現役」を達成できる社会を目指そうとしているのではないか。結果として、このことが日本人、そして日本社会に幸せをもたらすと考えているのではなかろうか。このことについては、じぶんも強いシンパシーを覚える。学び直しの必要性を考えてみたいと思ったことが、当ブログを始めた動機の一つだったのだから。

 

 あらゆる能力が遺伝することをきちんと認め、多彩な才能を評価する文化をみなでつくり上げていく。小規模なコミュニティを維持、活性化できる社会的な制度をつくる。そうした取り組みによって、遺伝的な素質が発現する可能性は大きく高まります。

 素質を高められる環境を探求し、適応し、生存する。そして旅をしながら私たちは「本当に自分」になっていくののです。

 「かわいい子には旅をさせよ」といいますが、それは大人も同じ。私たちはみな死ぬまで旅をし続けるのです。

 

著者の提案は傾聴に値する。

著者は、人間は年齢を重ね、さまざまな環境にさらされ、遺伝的な素質が引き出されて、本来の自分自身になっていくようすを行動遺伝学は示唆していると語る。じぶんも今年で七十になる我が身をふり返り、残された余生を生ききるには、との想いが廻っている。

 


 

日本人が知らない遺伝の真実(kindle版)

2016年12月 発行(SBクリエイティブ:amazon)

 

著者 安藤寿康

1958年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、慶應義塾大学文学部教授。教育学博士。専門は行動遺伝学、教育心理学。主に双生児法による研究により、遺伝と環境が認知能力やパーソナリティに及ぼす研究を行っている。著書に『遺伝子の不都合な真実』、『遺伝マインド』、『心はどのように遺伝するか』など。

 

 

歴史を科学すること

  • 2016.11.25 Friday
  • 19:53

河合 敦監修『最新トピックで歴史を見直す日本史』(池田書店)

 

ワゴンセールで見つけた日本史の本を買った。日本史をもう一度学び直してみたいという気持ちがあって、つい手が出てしまった。本書は五名の担当が執筆したものを高校講師の河合 敦氏が監修したものである。縄文からバブル崩壊まで記されている。

 

読み始めて直ぐに中高生の頃の教科書を思い出した。歴史上の年号、人物、出来事がびっちりと書き記されている。三百ページほどの単行本に全日本史を詰め込むには仕様がない事のかもしれないが、昔の年号、人物、出来事も読み方が常用的ではないので正直閉口する。そして、これがずっと時系列に解説されていく。

 

高校を卒業して半世紀経つのだが、歴史の教科書の記述スタイルは不変(普遍?)なのかとしみじみ思う。しかし、これでは読み物としてはつらい。それじゃ意味がないのかと言えばそうでもない。初めから日本史上の年号、人物、出来事のリサーチの目的で読むには利用価値があるように思える。つまり、リファレンスのための「日本史辞書」として使うという方法がある。もっとも辞書を読むのが好きという人もいるというから、そのような人なら本書も一気読みできるのかもしれない。

 

そして、本書を読みながら感じたことは、やはり歴史も科学の範疇に属するのではないかということである。本書の中の表現も正に論理的なのである。ただ、その論理の証明が自然科学に比して非常に困難であるということであろう。日本人がよく識る「関ヶ原の戦い」は以下のように記されている。

 

 秀吉死後、家康は諸大名の婚姻・同盟を禁じた御掟を破って伊達氏、福島氏らと縁組みし、豊臣政権に揺さぶりをかけた。家康に反感を抱いていた光成は前田利家を担いで対抗しようとしたが、利家は慶長4年(1599)に病死。天下の声望は家康に集まっていく。

 翌年、家康は上杉景勝が上洛要請に応じず軍備を整えていることを口実に、上杉征伐の大軍を催して東下した。光成はこの隙に毛利輝元を盟主に、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋、島津義弘ら西国大名を見方につけ、家康の罪を糾弾して挙兵した(西軍)。一方、この方を知った家康は下野小山で評定を開き、福島正則、池田輝政、黒田長政ら上杉征討軍をほぼすべて見方につけ西に向かわせた(東軍)。

 9月15日、10万4000の東軍と8万5000の西軍は、美濃関ヶ原で天下分け目の決戦に臨んだ(関ヶ原の戦い)。合戦は小早川秀秋の裏切りにより東軍が大勝した。

 

教科書にあるような懐かしい表現である。学校でこのように教われば疑問なくそう思い込んでしまうだろう。しかし、この歳になってこの解説を読んでみると、この文章にどれだけゆらぎ含まれているのだろうかという方向に思いが行ってしまう。疑ってかかれば全てが怪しく見える。

 

とは言え、年号と歴史的事象はかなりの高い確率で確証がとれるものと想像できる。しかしながら、歴史的人物の想いとか意志とかは想像の域を超えないように思われるのである。かつて世間では、歴史の年号と事象を記憶するのは意味がないと思われていた時もあったと記憶している。しかし今や、年号と事象が歴史の中で最も信頼のおける情報源ではないのかという気がする。

 

化学の世界に「周期表」というものがある。

 

もし歴史的事象の中に、これに似たような法則性が発見されたとしたら面白かろうと妄想してしまう。

 

 

 

 

 

今、「歴史を科学する」ことの意義を問い直してみることに意味があるのではないかと思うのである。そうすることにより、歴史書、歴史教科書の表現の仕方もまた自ずと変わってくるのではないかと想像する。ITの時代、ビッグデータを駆使した歴史の研究、学習方法が待たれる。

 


 

最新トピックで歴史を見直す日本史

池田書店(amazon

 

監修 河合 敦

1965年、東京都に生まれる。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。文教大学附属高校講師。難しい日本史をわかりやすく解説するのをモットーとしている。第17回郷土史研究賞優秀賞、第6回NTTトーク大賞優秀賞を受賞。著書に『マンガでわかる日本史』、『早わかり江戸時代』、『読めばすっきり!よくわかる天皇家の歴史』、『河合敦のぶらり大江戸時代劇散歩』など多数。

 

 

 

学び直しの制度化について

  • 2016.08.18 Thursday
  • 16:34

定年後の全く個人的な「学び直し」を主たるテーマに始めた当ブログだが、当初から 「学び直し」 はじぶん自身だけの問題ではなく、この邦の社会一般に関わることではないかと感じていた。終戦から2年後に生れたじぶんは、定年を迎え社会の主たる要員であることから卒業していくとき、戦後社会も同時に定年を迎えつつあるのではないかというようなイメージを持っていたからである。じぶんも、この邦の社会も再生が必要な時期を迎えているという認識である。

 

政治家、企業家に考えて欲しいことは ”「学び直し」の制度化 ” だった。 この邦の未来にとってもっとも必要なものは人材であろうという考えからである。この邦の人々は歴史的に学ぶことが好きだと言えるのではないか。しかしその割には、教育・学習のための社会制度(文化)が貧弱であるとしか思えない。現に6・3・3・4制のワンセットに頼るしかないという現状は、あまりにも寂しい限りだろう。

 

ネットニュースで見つけた記事。

 

株式会社セレブレイン社長・ 高城 幸司氏(wikipedia)による記事だ。全く同感である。このような提案を目にする機会が増えてくることは望ましい限りだ。

 

 世界では25歳以上の大学での入学割合について、第1位はアイルランドで32%。以下、ニュージーランド、スウェーデンと続き、日本が最下位。OECDの 平均は18.1%。さらに就業を目的とする高等教育機関への入学者のうち25歳以上の割合は、OECD各国平均で3割超にも達し、社会人学生も相当数含ま れる一方、日本人の社会人学生比率は約21%と同様に低い状況です。つまり、社会人になってからの自分の社会人としての成長機会は会社における人材開発に限定されるのが実態ということになります。はたして、これで働き方の改革はできるのでしょうか?

 

高城氏の問題提起である。じぶんが初めイメージしていたのは50代からの「学び直し」だったが、サラリーマン時代をふり返ってみても、高城氏の提案のように25歳ぐらからニーズがあっても不思議ではない。行政も企業もこの事にもっと刮目すべきであると思う。

 

本記事の中に、「日本政府は閣議決定した事業規模約28兆1000億円の「未来への投資を実現する経済対策」に経済界から特に要望の強い働き方改革を盛り込みました」とある。政府が本腰をあげて動くことには賛成だが、これらの対象として、若年、女性ばかりではなく、ぜひシニア世代をも内包すべきであることを付け加えたい。

「想定外」のはなし

  • 2016.05.20 Friday
  • 21:58
「想定外」という言葉を意識するようになったのは東日本大震災の福島第一原発事故からだ。津波の高さが想定外だったというわけである。問題はこれが「言い訳」に聞こえてしまったことだ。原子の力というSF的エネルギーを使うことに対し使う側の心が尊大に過ぎたということであろう。

この頃からじぶん中で「想定外」という言葉が動き出した。そしてじぶんの人生そのものが想定外だったことをしみじみと考えるようになった。ただ福島原発の教訓として言い訳けがましくならないようには意識した。しかし各人の人生も地球上の一個の生命体ということが前提になっているわけで分子の力が関わっていることも真実だ。人は自分自身を考える時、一つの原発に対するかのように謙虚であらねばならないのかもしれない。

理屈として想定外から逃れるには想定しないことが一番だ。しかし皮肉にも人生は想定の連続だ。誰もが夢を見て思い込みを大量に内含する。そして多くは想定通りにならないが普通は強く意識することなく生きていくことができる。しかし時に事の重大さを自分自身が気づかされることがある。これを「想定外」というのだろう。福島第一原発事故は制御不能の怖さを教えてくれた。しかしもっと身近な自分自身も社会体制も制御不能になる側面があることを忘れてはならないのだと思う。

ふり返れば、終戦の二年後に東北の田舎町に生まれ少年期は貧しかったと思う。食べることに窮するということはなかったが社会全体がまだ貧しかったのである。口にしていた飴玉が遊びのうちに跳びだして地面に落ちても土を払って躊躇無く口に戻した。洋服の破れは継ぎ当てが当たり前だった。今風のおシャレでやるのとは違う。まだまだ物が貴重なご時世だったのである。

こんな少年期を経て社会は年々豊かになっていった。このままずっと社会は成長を続けていくと信じて疑わなかった。しかし高校三年の始業式の日に母親が他界し、この頃から少しづつじぶんの中の歯車のリズムが変わり始めた。でも未だ社会は成長の歩みを止めなかった。

東京で学生生活を止めて働き出した頃も社会はバブルに向けて突き進んでいた。会社での待遇も年々改善されていった。この間に結婚し家族もできた。およそ1986年から1991年の間をバブル景気と呼ぶようだが、実際にじぶんのサラリーマン生活もバブルの終焉と共に低迷していった。

気がつけば「想定外」である。

そして定年後、じぶんの生活もじぶんを取り巻く環境も変わらず想定外の連続である。この現実にはなかなか慣れあることができない。しかしじぶんの中に、もはやジタバタしても仕様がないという気持ちが生じてきていることも事実である。じぶんはこれを「明らめ」と称して、悟りまでは至らぬとしてもせめて「気が明らかになる」ことを目指して頑張りたいと思っている。

ばかぼんパパ
人間万事塞翁が馬 & 人生万事想定外。
 

2015年を振り返って

  • 2015.12.30 Wednesday
  • 21:58
 先日、時が過ぎる速さを悲観したばかりだが、この年の時間の経過はなお一段と速かったという感覚に襲われている。来る2016年で定年からもう九年目となる。定年後は学び直しの人生にしようと第二の人生をスタートした。やはり、学び直しのツールとして読書は大切と考えていたのだが、遅々として進まぬ読書量にがっかりする。

この一年の読書量は何とか月一冊と言った程度だ。量が多ければ良いというものではないにしても、ある程度の量が不可欠であるのは間違いない。一年間に50〜100冊程度は読みたいものだと思っている。特段の趣味があるわけでもなく、誰もがやっているような日々の雑事の他に月8回程度のパートの仕事というような余りパッとしない生活なのだが、何故か思ったように本を読む時間がとれない。

TVを見るのは還暦辺りから漸減し、今や居間のTVは iPhone 用の外部モニターと化している。そのため、番組を見るのは稀になってしまったが、YouTube や Gyao! などを視聴することが多くなった。それと、Radiko が意外に便利で、TVを使ってラジオを聞いている。この辺りはニッポン放送の電波状況が悪いのだが、Radiko だとバッチリと聞くことができる。

各種メディアの環境が変化してきており、本は電子版も手軽に利用できるようになり、読書の形態も多様になってきた。その割に読書がはかどらないというのは不可解で、じぶんにとって大きな課題である。とにかく読書量を増やしたいと思う。そういう意味で2015年は最悪の年だった。

読書のテーマははっきりしていた。人間は物的存在であり、かつ心的存在である。物的存在であることは、老化と共に、思い通りにならない自分の体でそのことを思い知る。一方、人間が心的な存在であること、これも老化に伴い体と同様に思い通りにならないことを身にしみて感じる。本当は、体も心も理屈ではどうにもならない。それでも、人間の多くは理屈に振り回される。

やはり、人間は言葉から逃れられない存在なのだ。個人も社会も言葉の呪縛に囚われている。日々のじぶんの生活や、メディアで報道される社会の出来事を見れば、いかに言葉の力が大きいかが分かる。そこで言語体系の学び直しである。

言語体系として国語、外国語(英語)、論理(数学、特に統計学)、コミック等を考えた。2015年は、これら関係関連の書籍、雑誌等を数多く読んでみたいと思っていた。しかし、このことは2016年に繰り越しだ。

急に日韓の関係に動きが出てきた。「日韓外相会談 慰安婦問題で最終的解決」のタイトルが踊る報道に、何が真実なのかをうかがい知ることはできない。新聞記事を読み切りたいという気力もない。韓国による歴史問題はさんざん言葉で弄ばれてしまった。記事の言葉に真実味が感じられない。

個人、特に国を代表する人物の言動の影響は大きい。安易な言動は慎むべきであろうと痛切に思う。年の瀬の日韓関係の報道を見て、言葉の持つ意味を改めて考えた。

脳
最終的に、言語体系は{脳}というハードウェアに統括される。さらに、2016年にますます注目されるであろうロボットとも密接に関連する概念であることは間違いない。

安保法案の周辺が騒がしくなってきた

  • 2015.07.27 Monday
  • 13:53
参議院で安保法案の審議が始まる。この件は前にも取り上げたのだが、よく分からない。分からない理由は、マスメディアから流れるいいかげんな賛成、反対の主張だけが情報源だからだ。じぶんで本気になって調べればいいのだろうが、そこまでの気分になれない。この法案が通る、あるいは廃案になることが、どれだけの重要性を持つことなのかが分からないのである。

「安全保障関連法案に反対する学者の会」が設立された。抗議声明文は以下の通りである。

7月15日衆議院特別委員会、翌16日本会議で、集団的自衛権の行使を容認することを中心とした違憲性のある安全保障関連法案が強行採決されたことに、私たちは強い怒りをこめて抗議します。

各種世論調査では、戦争法制としての本質をもつ安全保障関連法案に反対が多数となり、8割を超える大多数が今国会での成立は不必要としていた状況の中での強行採決は、主権者としての国民の意思を踏みにじる立憲主義と民主主義の破壊です。

首相自身が、法案に対する「国民の理解が進んでいない」ことを認めた直後の委員会採決強行は、現政権が国民世論を無視した独裁政治であることを明確に示しています。

衆議院憲法審査会で3人の憲法学者全員が安全保障関連法案は「違憲」だとし、全国のほとんどの憲法学者が同じ見解を表明しているにもかかわらず、今回の強行採決が行われたことは、現政権が学問と理性、そして知的な思考そのものを無視していることのあらわれです。

戦後の日本は憲法9条の下で、対外侵略に対して直接的な関与はしてきませんでした。政府は「安全保障環境の変化」を口実に、武力行使ができる立法を強行しようとしていますが、戦後日本が一貫してきた隣国との対話による外交に基づく信頼関係こそが、脅威を取り除いてきたという事実を見失ってならないと思います。

私たちが6月15日に表明した見解は、多くの学者、大学人に共有され、いくつもの大学で、学生と教職員が一体となった取り組みが行われました。私たちは参議院での審議を注意深く見定めながら、立憲主義と民主主義を守り、この法案を廃案にするために、国民とともに可能なあらゆる行動を実行します。


2015年7月20日

安全保障関連法案に反対する学者の会



困った!! この法案の是非を個人的に決着をつけるには、少なくとも戦後70年の歴史を個人的に勉強し直さなければならないだろうと思っている。個人的に興味のあるテーマではあるが、今、それを実行するほどの元気(動機)と時間がない。正直、この法案については、政府が完璧とは思えないが、しかし又そんなに的外れな方向でもないのではないかという印象を持っていた。積極的賛成というわけでもないのだが。

しかし、この国の多くの学者先生方が決起?して反対の活動を決意したということは、じぶんの感覚が間違っていたのだろうか。それぞれの専門分野で一流?の先生方ばかりである。また、やはり優れた知性というものは大したもので、それぞれ多忙な中で時間を割いて「戦後70年の歴史と現安保法案」という課題をクリアされた先生方ということである。よもや、ムードに流されて意思の表明をされたということではないだろう。

この先生方の表明に協調するという選択肢も出てきたが、しかし声明文がよく分からないのである。要旨は、
 1. 強行採決には反対
 2. 世論調査で8割の反対がある法案には反対
 3. 首相が自ら「国民の理解が進んでいない」とした法案には反対
 4. 審査会でさ3人の憲法学者が違憲とした法案には反対
 5. 政府は「安全保障環境の変化」を口実に、武力行使ができる立法を強行している
 6. 廃案にするためにあらゆる行動を実行する、
と考えられる。

1〜5は「見解の相違」で決着がつかない恐れがある。しかし、6は行動の決意表明なので刮目に値する。しかし、問題は廃案にした後の事だろう。また、「安全保障関連法案に賛成する学者の会」というのは設立されないのだろうか。一般国民には、その方が比較ができて解りやすいと思うのだが。

関連投稿:安保法案が特別委員会で可決?! (2015/07/15)

ギリシア危機に学ぶこと

  • 2015.07.04 Saturday
  • 11:28
真実は分からない。今のギリシア危機に学ぶことがあるとすればこれではないか。専門家と呼ばれる人や、評論家、さらに素人まで入り乱れて侃侃諤諤の様相だが、借りるのが悪い、貸す方も悪いなど、どこに真実があるのやらさっぱり分からない状況だ。しかし、大事なのは分かった気にならないことではないか思う。

分からないということを認識することが重要で、もはや、そこからしか始らないというのが個人的な印象だ。おそらく、専門家と呼ばれる人々の多様な意見は、全て一理ある事柄なのだと思われる。しかし又、それらで現象全体を網羅できているのではないことも確かなような気がする。

自然現象、生命現象、そしておそらく社会現象も「システム」として捉えなければならない複雑系の現象なのだと確信する。仮に一つのセオリー(論理モデル)が、ある条件である現象を旨く説明できたとしても、環境の変化でもはや現実の現象と解離してしまっているかもしれないことを、常に考慮にいれなければならない。そして、それはその論理モデルの是非とは無関係なことでもある。

そうでなく、自分のセオリーが絶対だと考える人がいるとすれば、もはやそのセオリーは論理モデルではなく宗教になってしまっていると言わざるをえない。個人的には宗教的事象を否定するものではないが、「システム」を議論する際には科学的視点(ツールとして論理モデルを使う)が前提条件だと考えている。

ギリシア危機がどういう結果に落ち着くのかは分からない。しかし、その結果がどのようなものであっても、ある専門家の主張が仮に結果に近似したものであったとしても、その専門家とその主張を過大評価するのは止めたほうがいい。次はしっぺ返しを食らうかもしれないからである。「システム」を甘く見ないほうがいい。これが七十年近く生きてきたじぶんの感想である。

だから、学び続けること、考え続けることが大切なのである。

Ein

ブログを振り返る

  • 2015.06.16 Tuesday
  • 14:25
今月はじぶんの誕生月で、これを機にブログ_my2ndlife.jp を振り返ってみることにした。元々、定年後のライフスタイルを構成する要素の一つとして始めたものだ。じぶんには無条件で楽しいという ”趣味” がない。それでも、時折々に、やらなければいけないこと、やってみたいことが出てくるので、趣味がなくて困ると思ったことはない。そんなわけで、定年後も、趣味中心の生活というものは考えにくかった。

人間である以上、定年後も、眠る、食べる、動く、想う(考える)という欠かせない生活要因というものはあるもので、むしろ、これらの根源を意識したライフスタイルにしたいという願望があった。そこで、自然・社会の学び直しをしてみたいと考えたのだが、このプロセスの中には何らかのアウトプットの手段というものが必要だろうと思った。そして、ブログの活用ということになった。

無名の個人のブログなどは見向きもされないことは百も承知だが、個人の ”学び直し” と ”心の整理” のために使うことを考えると意外に便利なものである。ブログというものはネット検索にかかりやすいものらしく、こんなブログでも月に1000件程度のアクセスがある。ほとんどは、何らかのキーワードで検索されたリストの一つとして通り過ぎた足跡だと思われる。

しかし、このことが重要で、ブログが人の目に触れる可能性(恐れ?)があるということが、書く側に適度な緊張を強いる。じぶんの学んだこと、考えたこと、感じたこと、想ったことを整理してアウトプットしてみるということは必要なことである。実際にブログを書いてみてつくづく思う。

初めに意図して書き始めても、考えが未整理なのに気付いたり、まったく思ってもみなかった方向に展開していったりすることがある。書くということは思いのほかアクティブな行為なのである。

しかし、時折、過去の投稿記事をチェックする機会があり、読み直して唖然とする。一体何を言いたいんだ?、それを言うにしても表現がおかしいだろう、という現実に直面することになる。多少は ”書きのリテラシー” が向上しているかなという、じぶんの期待が無残に打ち砕かれる。

質を高めるには初めは量も必要では?ということで、一年間に100投稿を目指したが、情けないことにこちらも達成せずじまい。せめて Last Message だけは何とかまともな文章にしたいという願いがあるのだが、さて、どれだけの修行時間が残されているかは ”神のみぞ知る” だ。

しばらくぶりに Podcast「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」を聞いた。文化放送のラジオ番組だが Podcast でも聞ける。サラリーマン時代は通勤電車の中で聞いたり、定年後は Podcast で聞いたり止めたりしていたが、またしばらくぶりに聞いてみた。武田鉄矢氏は1949年生まれで、じぶんより二つ下だが、まあ御同輩と呼んでも怒るまい(?)。

先方はビジネス(仕事)でやっていることなのだが、妙に共感を覚える。おそらく、じぶんも自分の人生を三枚におろしてみたいのである。Podcast の場合はタイムラグがあるが、今週の配信では『捏造の科学者』を取り上げていた。
https://itunes.apple.com/jp/podcast/wu-tian-zhi-shi-jin-chaono/id625024986?mt=2

じぶんも、前に『捏造の科学者』を取り上げたが難解だった。武田氏は二週に渡ってこの難題に挑戦する。とにかく自分で何とか理解しようとする努力の跡が感じ取れた。武田氏は、スタップに関わった人物たちの善意を前提として、運命のイタズラがこの事件を引き起こしたと纏めていたが、じぶんはより個人と組織の影の部分に注意した。

かように、人の感性は異なる。しかも、もう一度同じ本を再読して考察し直したとして、武田氏も、じぶんも同じ認識になるかどうかはこれも疑わしい。読み、考え、書く(話す)ことは ”生きること” そのものなのだから。これが、今のじぶんの結論だ。

関連投稿:スタップ細胞事件の真相 (2015/03/11)
     武田鉄矢という人 (2013/04/26)

これはハウツウ本とも人生論とも言える

  • 2014.10.05 Sunday
  • 16:07
東京大学にも、こんな異色の教授がいるのかと感心した。新聞の広告欄でこの本のタイトルが目に留まった。時々寄る近隣のショッピングモールにある書店を回ってみたが、このタイトルの本は見つからなかった。 ???。そして、十日ほど前、車検の待ち時間を利用して町の小さな書店を覗いてみたら二冊発見、一冊買い求めた。新聞広告に載りながら店頭で見つからない本もあるのだな、と改めて思った。

独学勉強法東大教授が教える独学勉強法
草思社 発行 (amazon
2014年7月 第一刷
     9月 第二刷

著者 柳川範之
1963年生まれ。東京大学経済学部教授。中学卒業後、父親の海外勤務にともないブラジルへ。ブラジルでは高校に行かず独学生活を送る。大検を受け慶應義塾大学経済学部通信虚行く過程へ入学。大学時代はシンガポールで通信教育を受けながら独学生活を続ける。大学を卒業後、東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士(東京大学)。現在は契約理論や金融関連の研究を行うかたわら、自身の体験をもとに、おもに若い人たちに向けて学問の面白さを伝えている。


著者の経歴が面白い。所謂、コースに乗って東大教授になったわけではない。東大も、最近の大学世界ランキングを見てみれば、呑気に構えている余裕はないはずで、多少異色の教授が登用されるぐらいでなければ立ち行かないだろう。

それにしても、著者は現在51歳、じぶんも、せめてこの歳に本書にあるような心境・考え方にあったならばと悔やまれる。もっとも、著者は、青年の頃から家庭の事情により独学の道を探らざるを得なかったという環境にあったわけで、にわか仕立ての勉強法ではない。それなりの修行(?)の時期があったわけである。

いきなり勉強してはいけない。まず、正しい「学び方」を身につけよう。

この歳になって、この意味が分かるようになった。学校、特に高校以降では知識よりも「学び方」を教えるべきだというのが持論だが、残念ながら現実はそうではない。本書を高校の教科書にすればいいとさえ思う。「学び」は「生きる」に通じる。決して進学と資格取得のためにだけ「学び」があるわけではない。「学び」が薄ぺっらになってしまった。もっと大事な目的がある。早い時期に、そのことを若者たちに伝えるべきだ。

本書には著者の想い(ノウハウ?)が詰まっている。特に若者に読んでもらいたいと思うが、シニア世代にとってもまだ間に合う。

 情報を選ぶには、そのための基準が必要です。その基準を与えてくれるのが学問です。ほとんどの学問は実はそのためにあるんだと思います。情報をうまく選ぶための基準を与えてくれるのが学問であり、ここに学問を学ぶ基本的な理由があるのです。

さらに、著者は語る。

 学問に限らず、世の中のほとんどのことについて、何が正解なのかよくわかっていないのです。だから、仕事においても、生活においても、本当に重要なのは、正解のない問題にぶつかったとき、自分なりに答えを出そうとして考えていくことだと思うのです

人生は死ぬまで続く。情報に溢れた社会を生きて行かなけれればならないのはヤングもシニアも同じだ。ところで、著者は「勉強のコツ」と「作業のコツ」の違いを指摘する。今、学校で散々させられるのは受験テクニックという「作業のコツ」を研くこと。著者は、それに対し、「勉強のコツ」とは頭の使い方を工夫すること、人によって異なる理解のパターンやクセを自分自身で把握して、自分の頭に入りやすい勉強の仕方を工夫することだと語る。

教科書が絶対の学校では、教師がこんなことを教えてくれることはない。著者は、勉強や学びのプロセスとはいったん押し返してみること、何でも疑ってみること、本の書き手である偉い先生と違う理屈を語れるようにしてみること、これが大事な学びの過程なのだと説く。

じぶんが本当に腑に落ちるメッセージがあった。それは「要点はまとめない、要約もしない」というものだ。これは世間一般の考えに反する。我々は、逆に「要点をまとめること、要約する力を養うことが大切」と教わってきた。しかし、著者のこのメッセージは、この歳になって府に落ちる。社会の中では要求される能力だが、しかし、深く考えるための勉強という視点では、「下手(安易)に要約しようとするのはマイナスだ」という著者の言葉に共感する。

このことは、著者の「勉強は加工業、自分の中での ” 熟成 ” が大事」というメッセージとも関連する。即席生産、促成栽培に偏重した社会への批判ともなっている。じぶんは「学び」を第二の人生の中心に据えてみようと考えた。しかし、これはアカデミックなこととは無関係で、じぶんの好奇心と、じぶんの人生の総括という意味合いが強かった。しかし、今回この本を読んで、「学び」には、好むと好まざるとに関わらず情報化社会の中で生きざるを得ない自分たちにとって、我が身を護るプロテクターとなり得るのかもしれない、という思いを新たにした。

 私の中では、著者の言っていることが本当かという疑いと、自分が本当にわかっているのかという疑いとは、ほとんど区別がありません。結局のところ、その両者は同じことだと思うのです。自分の側に疑いの比重が置かれれば「じぶんが分かっていない」と思い、著者の側に比重が置かれれば「著者の言っていることはおかしい」と思うわけです。

すべて、環境は書物のようなものだ。上記メッセージを頭の隅に、余生を生きることが出来たなら、これに超したことはない。今、そんな想いである。

文科省が女性の「学び直し」拡充政策を発表!

  • 2014.08.20 Wednesday
  • 11:33
先日、次のような注目すべき報道があった。

<女性>「学び直し」拡充 再就職支援拡充へ 文科省
文部科学省は来年度から、出産や子育てで退職した女性がキャリアアップする「学び直し」施策を大幅拡充する方針を決めた。公民館や大学で、再就職先に応じ た専門知識・技能を学ぶ体制を作り、退職後のブランクを補うことで社会復帰を支援する。政府はすでに来年度から5年間で、学童保育(放課後児童クラブ)の 定員枠を30万人分拡充する方針を決めているが、女性が地域で働きやすい環境をさらに整備し、成長戦略の中核に位置づける「女性の活躍」の推進を図る。 (
2014年8月14日毎日新聞)

文科省の退職女性キャリアアップ施策

当ブログ開始の動機は、じぶんの「学び直し」、そしてシニア世代の「学び直し」について考えることだった。定年を間近に、定年後の人生を考えたときに、後の人生では、なぜか今までの体験が生かせるものとは考えられなかった。人類は、高齢化社会という未体験のゾーンに入って行こうとしているわけで、「想像」と「創造」しかないという想いだった。

それには「学び直し」しかないというのが、当面の結論だったのである。個人的にも、高校生の頃、純粋に自然・社会への興味に刺激を受けていた時期があった。あの頃に戻って、もう一度「学び直し」をしてみたいという気持ちもあった。もちろん、このことは個人的な課題だけではなく、広く人間社会が抱える問題ともリンクするものだという確信でもあった。このことに対する想いは今も変わりはない。

社会には多彩な情報が溢れている。しかし、それは個人の「学び直し」にとってほとんど関係ないことは、じぶんの過去の経験から十分に学習できている。意識的に行わなければ「学び直し」にはならないのである。問題は何をどのうように学び直すのかということになるのだが、これについて社会は未だ「整理」できていない。

これから社会を担う若者に対する「教育」は、各社会ごとに長い歴史を持っている。まだまだ未完成なものだとは考えられるが、多くのモデルが存在し、今なお研鑽がすすめられている。しかし、現役社会人あるいはリタイア世代に対する「学び直し」の制度・カリキュラムの研究に関してはまだ始まったばかりか、もしくは、まだ手つかずの状態である。

今回の文科省の取り組みは評価できるものである。今、社会は大きく変化しつつある。現行の教育制度に頼り切りというのは、あまりに知恵がなさすぎる。人類は社会を築き維持していくために、「教育」(使い古されたこの言葉以外に適切な言葉が思い浮かばない)というシステムを発明したのではなかったか。

今後、人間社会がいかに環境の変化に対応できていくかは「教育システム」にかかっていると確信する。このことは、この国にとって新しい日本人の創造へとつながるのである。そして、じぶんという個人にとっては、余生の在り方−生き方死に方に−に直接関わる深刻な問題なのである。

calendar

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< May 2017 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM