3rdlifeに向けて

  • 2016.02.03 Wednesday
  • 10:09
今年の6月で満69歳になる。シクスティーズ最後の一年が始まる。セブンティーズは、もはや林住期(秋)から遊行期(冬)への移行の時期となるだろう。この一年は人生のラストステージに向けての準備の期間としなければと考えている。じぶんとしては、当ブログを my2ndlife から my3rdlife にしたいぐらいの気持ちでいる。

このブログのタイトルは五木寛之著『林住期』に触発されて付けた。語源は「四住期」から来ている。
ネットで調べると。

…インドのバラモン教徒が生涯のうちに経過すべきものとして,バラモン教法典が規定する四つの段階で,〈住期〉と訳す。これによれば,バラモン教徒すなわちシュードラを除く上位3バルナは, (1)師のもとでベーダ聖典を学習する学生(梵行)期brahmacarya,(2)家にあって子をもうけるとともに家庭内の祭式を主宰する家住期 gārhasthya,(3)森に隠棲して修行する林棲期vānaprastha,(4)一定の住所をもたず乞食遊行する遊行期saṃnyāsaの4段階 (〈四住期〉)を順次に経るものとされ,各段階に厳格な義務が定められている。古代インドではダルマ(宗教的義務),アルタ(財産),カーマ(性愛)が人生の三大目的とされ,この三つを満足しつつ家庭を営み,子孫を残すのが一つの理想とされた。…(「世界大百科事典」)

これを現代風に解釈しているわけだが、学生期と家住期は社会において家族と仕事を中心に生きるための準備と実行、林棲(林住)期は自分を見つめ直す、そして遊行期は???。人生を四住に分けると言っても、明確に年齢で割りきれるものでもない。個人的には、定年を境に林住期・遊行期に入ったと解釈している。

問題は林住期と遊行期の境であるが、じぶんは七十歳から三年ぐらいを移行期にしたいと考えている。まだ生活に支障をきたしているわけではないが、現実に記憶・足腰・視力等に一層の老化を感じるようになった。また、時折 フッと ”死” に想いが行くようになった。人生の変わり目に来ているのかもしれないという感覚がある。

このブログを始めたころ−プロローグ−に戻って、もう一度、下山する方向を見定めたいと思う。
 

ショッキングなはなし

  • 2015.09.23 Wednesday
  • 20:38
新聞でショッキングな本の広告を見た。それが五木寛之著『嫌老社会を超えて』(amazon)だ。嫌老って何?。いやな予感。十年前、第二の人生を前に、どうしたものかと考えた。ほとんど無趣味なので、初めっから、楽しさを追いかける人生は想像もつかなかった。

財産は全部残さず自分で使うと言っていた会社の先輩がいた。定年を待ちわびたかのように第二の人生が始まると直ぐに逝ってしまった仲間もいた。じぶんにとって、セカンドライフとは、適度な時間とお金で何ができるのかということだ。

人生を二十四時間時計に喩えると、第二の人生の始まりは夕方頃と言われている。昼間の活動を終え就寝−人生の終わり−までの一時で、家族団欒の時でもあろう、また、娯楽で好きなテレビ番組を観るという選択肢があるかもしれない。

そこで、じぶんの見つけたテーマが「学び直し」だった。社会生活を始める前に学校がある。ならば、社会生活を修了するための学びにも意味があるのではないかと思ったからだ。そして、このことを示唆してくれたのが五木寛之著の『林住期』−PORCO−だった。

こうしてセカンドライフがスタートした。そして「学び直し」の背景には「高齢化社会」があった。人類−いち早く日本社会は歴史的な高齢化に突入しようとしている。それを我々団塊世代が高齢化を加速させる。それが社会にどんな影響を与えることになるのかは誰も知る由もない。ならば、少なくとも、じぶん自身の生き方は出来るだけ社会に過度の負担をかけないものにしようと思った。

アマゾンで五木寛之著『嫌老社会を超えて』の内容をチェックした。

 戦争を経験し、戦後70年を生き抜いてきた作家の五木寛之氏。80歳を超えたいま、気になり始めたことがあるという。老人が足を踏み入れた途端に、若い人でにぎわうコーヒーショップの空気がしんと冷える。五木氏自身も、若者の冷ややかな視線を何度も経験した。
 この寒々とした空気、居心地の悪さとは何か。多くの人生論、仏教哲学を語ってきた五木氏が、戦後70年にして感じる「違和感」とは何か。その正体こそ、五木氏は「嫌老感」、つまりは「嫌老社会」の出現だと言う。貯め込む老人、暴走する老人、いつまでも死なない老人は、もはや「弱者」ではない。一方の若者は将来に希望がもてず、非正規雇用に苦しみ、車ももてない現実がある。老人VS若者はもはや世代間格差などと生ぬるい言葉では表せない。 
 今日本で起きていることは、「搾取する老人」と「搾り取られる若者」による階級闘争にほかならない。この行き着く先は、老人に対する「ヘイトスピーチ」の蔓延である。戦後70年に出現した「嫌老社会」という先鋭な時代を生き抜き、人生に「豊かさ」を取り戻すには何が必要なのか。五木氏は、50歳で「心のリタイアをせよ」と説く。心のリタイヤを経て下り坂にのぞむ。そこにこそ本当に豊かな人生が待っているのだと。
 そのために、いまから準備しておくことは何か。中高年のみならず、老人と激しく向き合う若者世代にも読んでもらいたい、「戦後70年の人生哲学」である。巻末には、五木氏より53歳若い、社会学者・古市憲寿氏との対談を収録。まさしく、老と若の論客が「嫌老社会」の正体、そして未来を語り尽くす。

本当にこんな現実が存在するのか?。もしこれが事実だとしたら大変な事である。じぶんは、未だ著者のような深刻な状況を体験してはいない。しかし、身近に、シニア世代のマナー、特に交通マナーなどが気にかかることがある。そんな時、もう少し神経を使おうよ、と心から思う。

今回、本書の解説文を読んで、そんな事が本当にあるのか?と疑った。と言うより、そうあって欲しくない、何かの間違いであって欲しいという気持ちの方が強かったのである。一方、じぶんには、シニア世代が社会の中で鬱陶しい存在になってはならない、という想いがあった。それは、そうなるかもしれないという漠然とした不安を感じていたからである。

しかし、今、じぶんのセカンドライフの方向を示唆してくれた著者から突きつけられた「嫌老」という言葉に、じぶんが感じていた不安が現実化してしまうのだろうかと戸惑いを感じている。

まだ社会問題とはなっていないが、もし「嫌老社会」が現実となれば高齢化現象の中で最大の問題になるかもしれない。そして、それはセクハラ問題に似てる?かもしれないとも思う。かつて、” セクハラ問題は、男がもう少し気配りをし、女がもう少し大らかになれば解決する ” と言った人がいた。現代社会の悩ましい問題の一つである。

「嫌老社会」はセクハラ問題以上に悩ましく、厳しい問題になる恐れがある。取り敢えず、問題なのはほとんどの人が未だこの事に気が付いていないか、あるいは自覚していないということだろう。

以後、シニア世代(加害側?)には注意深い社会的観察力が問われることになる。各自が自分自身の生き方を問う必要がある。人類が未だ知らないことを、先ず我々日本人が体験していくことになるかもしれない訳で、事は重大なのだ。

じぶんのセカンドラフのプロローグで社会的背景と考えたことが、じぶんが思っていたよりもずっと緊迫した緊急の課題なのかもしれない、という想いを強くしている。

オヤジのはなし

  • 2013.05.22 Wednesday
  • 13:04
定年からもうすぐまる六年になる。気がつくと、いつの間にか団塊世代は社会の悪役になっており、何とも腑に落ちない。じぶんは、どんな世代をも十把一絡げで論じるのはあまりにも乱暴だと考えるほうなのだが、自らに直接火の粉がふりかかってくる気配を感じてくると、やはり本当のところを探りたくなってくる。

そんな時、内田樹/木村政雄著 『内田さんに聞いてみた 「正しいオヤジ」になる方法』 (宝島社:amazon) を読んで、改めてじぶんの世代とその周辺の世代について思いを新たにした。内田樹(※)氏 はじぶんにとって馴染みの先生だが木村政雄氏は初めて知る方である。

木村政雄氏 プロフィール正しいオヤジ

1946年京都市生まれ。同志社大学卒業後、1969年吉本興業株式会社入社。横山やすし・西川きよしのマネージャーを務めた後、漫才ブームのなかの東京事務所を開設するなど、吉本興業の全国展開を推進。2002年常務取締役大阪本社代表を最後に退社。以降、講演・執筆活動、新聞・テレビ・ラジオのコメンテーターの他、エンターテイメント事業や地域活性などにも取り組み、堺市などの顧問を務めていた。また、2003年から10期5年、大阪で 『有名塾』 なる 「大人のための小学校」=塾 を設立し、塾長を務め、「俺を踏み台にしろ」という広告が話題になった。2005年、大人のためのフリーマガジン 「5L(ファイブエル)」 を創刊、編集長を務め、実部数10万部を超える媒体に育てる。著書に 『笑いの経済学』 『やすし・きよしと過ごした日々』 など多数。

木村氏はまさに団塊世代、内田氏も’50年生まれなので、ご本人は不本意かもしれないが、大きく括ると団塊世代と言えなくもない。本書は木村氏が内田氏に問うという形をとっているが、いつもながら内田氏の解説は痛快で面白く示唆に富んでいる。木村氏も、現在のお笑いブームを築き上げた立役者の一人だけあって突っ込みがするどい。マイナーだったお笑いがメジャー になってつまらなくなって(?)、吉本興業を辞めた。そして、次に発見したマイナーな存在が団塊世代だっというわけである。もう一度、団塊世代の再生をはかりたいというのが信念のようだ。(拍手)

今の日本の急激な高齢化は、内田氏が言うように、”有史以来初の出来事”のはず。年金、医療などが深刻な社会問題であり、それに団塊世代が深くコミットしていることは間違いない。まず、そのことを我々当事者がちゃんと認識しなければならないことも事実である。その辺りの意識の希薄さは批判されてしかるべきかもしれないが、この大きなテーマを矮小な議論にすり替えてしまうのはそれ以上に問題だ。

 「ロストジェネレーション」ていうのは、2007年から朝日新聞が仕掛けたキャンペーンなんです。卒業年次の景況によって人間の一生は決まってしまうという変な運命論と、バブルの恩恵に浴していた世代は 「良い思いをしている」 という変な世代間格差論と、世の中は老人が資源を独占しているから再分配がうまくゆかないのだから老人たちを追い出してしまえいう若さ礼賛・老人嫌いのイデオロギーでした。
 ここまで日本社会が住みにくくなったのは、成員全員が 「これでいい」 と思ってやってきたことが間違っていたということだと思うんです。それなのに相変わらず、「誰がワルモノなのか」「誰を叩き出せば、世の中はよくなるのか」というスケープゴート論の枠内で論争している。
 僕はむしろ思いもかけないところから、思いもかけないかたちで新しい動きがぽこんと出てきて、「あああ、こういうソリューションがあったのか!」とみんながびっくりしながら得心する。そうやって古い対立が雲散霧消していく、そういうふうに社会システムがいきなり変わっていくような気がしますね。

  
内田氏の説だが個人的に腑に落ちる。TVでもよく見る慶應大学(SFC)の特別招聘教授(四十代後半)が講師を務める講義を iTunes U で覗き見したことがあるが、その人物は若い学生の前でちょくちょく業界の中高年を非難、揶揄するような発言をしていた。講義の内容自体は決して悪いものだとは思わないのだが、やはり安易な若さ礼賛は気になる。時折ゲスト講師として話をする現役の若手IT起業家の方がずっとさわやかで魅力的に見えた。安直な批判は何の解決にも結びつかないと思うし、自分は特別という意識があるのかもしれないが、最終的に自分自身への呪いの言葉にしかならないと思う。こんなことは、もう気がついてもいいほどの年齢だと思うのだが・・・。

本書で初めて知った言葉に ”B層” がある。木村氏からこの話題が出てきたのだが、じぶんにとって初耳である。

 小泉純一郎元首相が郵政選挙のときに広告代理店に依頼して選挙民を分析し、構造改革に肯定的でかつIQの高いA層、構造改革に肯定的でかつIQの低いB層、構造改革に否定的でかつIQの高いC層、構造改革に否定的でかつIQの低いD層に大別しました。そしてこの中のB層というのを、「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクターを支持する層」「主婦や老人、低学歴の若者」と規定しています。これは言いかえれば、マスコミ報道に流されやすい人たち。小泉郵政改革に熱狂し、民主党マニフェスト詐欺に欺され、流行のラーメン屋に行列をつくるような人たちですね。
 つまり今の日本というのは完全にB層化しており、オルテガが言った大衆社会の最終形にある。だから、何か事を起こすんだったらB層をターゲットにしろというものなんです。


おれって ”B層” か?。 これがどこまでが真実なのか知るよしもないが、ありそうな恐い話ではある。しかし、社会がB層化しているという話はリアリティがある。その元凶はTV(テレビ)である。木村氏は、最近のTV番組がつまらない のはメインターゲットを ”B層” に置いているからだと言う。逆から見ると、TVは ”B層” にとっては面白いということになる。まるで踏み絵だ。個人的には、ますますTV離れをしているので ”B層” ではないと言えなくもないが、安易に一喜一憂してよい問題とも思えない。
脱TV&脱B層!!

内田、木村両氏が賛同する 「六〇の手習い」 というのがある。これはじぶんの持論でもあり興味深く読ませてもらった。新たな能力を身につけるという意味でも六〇歳で退職したらもう一回みんな学校に通ったらいいと、木村氏が言えば、内田氏もいいですねと速答する。内田氏はさらに私塾の効用を説く。木村氏はかつて 『有名塾』 を開き、内田氏も凱風館という道場と社会人のための寺子屋塾を開いている。私塾は年齢も職業も関係ない繋がりができる。学校教育が機能不全に陥るなか、これから私塾の時代になる、と内田氏が強調。

そしてさらに、内田氏の説で大いに賛同するのが、日本の生き延びる道は 「教育立国」 であるという主張である。20年前までは日本は東アジアで最高の教育水準だった。それがぼろぼろになってしまった。それは教育政策の失敗であって、教育のインフラは依然他のアジア諸国を圧倒しているという。大学は短大も含めると1200もある。

 大学は教育機関であると同時に、研究機関であり、情報センターであり、図書館であり、体育施設であり、緑地であり・・・・・という多様な機能を持っています。学生教職員が大学の周りに住んで居るわけですから、アパートも要るし、銭湯も定食屋も本屋も喫茶店もライブハウスも劇場も受容がある。
 その街に大学が一校あるだけで、その周辺に小なりといえども大学門前町のようなものが出来上がる。それが地域経済にも多大な影響を及ぼすし、地域の文化活動にも大きな活力をもたらしている。


内田説、もっともだと思う。日本に1200もある大学キャンパスを活かさない手はない。少子高齢化が問題と言うのであれば、青少年を最優先にすることは言うまでもないが、キャンパスを中高年そして社会人に開放すればよい。国が適切な法律と適正な補助金で支援体制を整えれば遊休キャンパスも再生できるのではないだろうか。技術を支えるのも人、サービスを支えるのも人、やはり、日本の資源は”人”であることを、それも老若男女に関わらず "創造力 豊かな人” が醸成される環境を整えることが、この国の最重要課題なのだと思うのだがいかが。さて、現実にどうすればこれがムーブメントになりうるのか。

さて、本書には外にまだまだ面白い話が載っている。「青年」を輩出した明治期から、親父、オヤジの時代を経て、今は 「あんちゃん」 の時代。あんちゃんは親父的なものを嫌う傾向がある。代表的あんちゃんとして石原慎太郎、橋本徹がいる。しかし、「あんちゃん」 の時代ももはや末期で、また「青年」の時代が到来するのではないかという話。しかも、この新「青年」(現二十代の若者ら)は我らオヤジと意外と相性がいいかもしれないというのである。(期待)

確かに相性というものはある。我が家のわんこも、理由は判然としないのだが、吠えあう関係もあれば嗅ぎあう関係もあるのである。世代間に相性があってもおかしくはない。しかし好き嫌いに関わらず、この国に3千万を超える老人が現に生存しているのは否定できない事実、であれば、このことを大前提として、なんやかんやの方策を考えるしかあるまい。悩むだけ批判だけでは何の益も得られない。

今日本人は未曾有の社会現象を体験しつつあるわけで、簡単にはいくまいが、何とか老若共生できる社会を創りあげていくしかないのだろう。ずっと関心あるテーマだったのだが、本書を読んで、さらにその重要性を確認する機会となった。やはり、老若双方の ”意識かいかく” がキーなのだと思う。

内田樹と言えば 「身体論」 である。
木村氏が 「要領よくとか、オヤジはこうあるべしといったことを横に置いて、もっと自分らしく生きたほうがいい」 と投げかければ、

 決断するときの最終的な規準は 「これは嫌」 ということですね。理屈では受けいれられるけど、身体が受け付けないということって、あります。自分の身体が納得してくれないことは、やっぱりできません。ものごとを決定するのは、最後は身体性ですよね。どんない正しいことだと周りから言われても、「オレ、それダメなんだ」 ということありますから。
 今の日本は 「あんちゃんの時代」 だという話をしましたけれど、「あんちゃん」て、頭ばかりで身体性がないんですよ。感情的ではあるけれど、ことの良い悪いを断定的に語るでしょう。自分の判断に理屈をつけて、一般性があるかのように語るじゃないですか。若者はナントカでなければならない、とか。大人というものはナントカである、とか。そういう一般性を要求する命題って、身体を使って考えていると出てこないんですよ。身体が言うのは 「オレは嫌だ」 というところまでで、「世間の人すべてが同じものを嫌うべきだ」 というふうにはならない。だから、攻撃的にならない。
 身体は一般論を語らない。わかるのは、自分があることをしたいとか、したくないと感じているのだけれど、その理由はまだわからないということだけですから。


という答えになる。
むむー。  


※ 内田樹 − 1950年東京生まれ。
       1975年東京大学文学部仏文科卒業。
       1990年神戸女学院大学文学部総合文化学科助教授、
96年より教授。
       2011年定年退職。
       神戸市東灘区に武道と哲学研究のための学塾「凱風館」を開設。
       専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。
       著書 『日本辺境論』 など多数。

新年を迎えて

  • 2013.01.04 Friday
  • 11:10
定年から6年目の年を迎えた。定年後、契約社員として4年間勤務を継続していたので、完全リタイアしてから2年目となる。本ブログでも何度も触れているが、本当に時が過ぎるのは速い。定年前に考えていたことを殆ど実現出来ぬままに5年が過ぎてしまった。

改めて定年前のことを考えてみると、定年後は、高校生の頃の自然・社会に対する好奇心を取り戻したいという気持ちがあった。人生時計(24時間)で考えると定年は夕方の6時、人によっては夜の街にくり出し盛り上がろうという時間かもしれないし、TV番組的にはこれからゴールデンタイムが待っていると言えなくもないが、概ね一日の終わりに向けて静かに時間が流れていくという印象ではないだろうか。

第二の人生-「人生の整理期」-が始まるという感覚だった。本ブログのタイトルもそこから来ている。じぶんの今までの人生をどう解釈し、残りの人生をどう生き、逝くかがテーマだ。しかし、その時になぜか、じぶんの人生に併せて、現代社会も整理期を迎えているのではないかという想いを持った。それなら、じぶんの人生と現代社会のフェーズを一緒に考える、つまり「学び直し」ができるかもしれないと思ったのである。

こんな風に定年を迎え第二の人生が始まった。個人的にはまずまず穏やかな時間を過ごしていると言えるが、社会・自然環境の方は国内外共に大荒れとなった。国内も震災、外交、経済と問題山積みである。昨年の暮れ、政権が民主党から自民党に移り安倍政権が誕生した。当面、経済問題に力を入れていくようだが、これも参議院選に向けた対策との話もあり、安倍氏個人としても自民党としても、まだまだ不安が残る。

2013年のキーワードは 個人的には 「数」 と考えている。昨年、一冊にの新書が目に留まった。ダレル・ハフ著 『統計でウソをつく法』 (ブルーバックス:amazon) 、1968年出版で若い頃に読んだ本なので、まだ出版が継続されていることに正直驚いた。しかも、それなりに売れているようだ。

統計でウソをつく方法じぶんが二十代初めの頃に読んで、統計等に興味を持つきっかけになった本だと記憶している。まだ処分していないはずだと思い、本棚を探してみたが見つからなかった。家のどっかに仕舞い込んでしまったのか、処分してしまったのか分からない。

しかし、これも何かの縁かなと思う。是非、新たに購入して読んでみたいと思っている。この本は、人は数字にだまされ易いことに警鐘を鳴らしていると思うのだが、近頃は、逆に数字を省略してしまうが故に本質を見逃してしまっていることが気になって仕様がない。

例えば、昨年の衆議院選挙は ”圧倒的な自民党の勝利” と報道されている。当選者数は圧倒的多数だが投票数は前回より減少しているという事実がある。やはり、現実の数字をも把握する必要があると思うのである。

アメリカの大統領選挙も同様だ。選挙人の数だけみるとオバマが圧倒的だが、投票数からみると民主党と共和党に大きな差は無いという。選挙は投票数が僅差でも当選か否かで、くじの当りと外れの様に、天国と地獄の様に、二者択一の全く異なる結果を生んでしまう。メディアは、その結果だけを大きく取り上げ、自民の圧倒的勝利とか、アメリカ国民は民主党を選んだ、とかの報道をしてしまう。

我々一般市民は、メディアが強調する報道しか頭に残らないので、そのことを信じてしまうことになる。しかし、事実はメディアの言うところとは大きく逸れたところにある可能性もあるのである。電圧が閾値を越えると ”0” と ”1” という異なる特性を持つというのはディジタルコンピューターの特質だが、このお陰で自働論理演算を可能にするというシステムを得ることが出来た。

しかし、その背景にアナログ的な電圧のゆらぎがあることは忘れてはならない。我々の住む自然・社会はアナログ的で且つディジタル的であることが本質なのだと思う。そこに優劣はない。アナログはディジタルを内包し、ディジタルはアナログを内包する。そのキーワードは 「数」 だ。  「数」 には自然数もあれば無理数もある。全てが割り切れるわけではない。しかし、時には四捨五入とかの方便が有効なこともある。

新年早々、こんなことを考えている。
この一年も前途多難、我ながら先が思いやられる。

国公認の老人となりました!

  • 2012.07.31 Tuesday
  • 10:45
2〜3日前に市から一通の封書が届く。差出先は介護福祉課。今年の6月で満65歳を迎え、介護保険対象者になりましたとの通知は届いていたのだが、その時は特に意に介さなかった。今回は 「あなたの平成24年度の介護保険料が決定されましたのでお知らせします」の文面に納入通知書が同封されている。

定年前に、年金、税金、保険に関する情報はほぼ全て入手していると思っていたのだが、不覚にも、この案件は ”寝耳に水だった” 。65歳になると第1号被保険者となり、新たに算定された保険料を支払わなければならないとは知らなかった。しかも、65歳未満(第2号被保険者)の場合は医療保険と併せて納める仕組みになっているが、支払い時期によっては第1号、第2号の支払い分がダブル場合があるとのこと。

今日、市役所の介護福祉課に行ってみた。情報についてはネットで充分入手できると思ったのだが、担当部署を見学してみたかったので直接でかけた。窓口のおねえさん(?)と若い男性職員が対応してくれたのだが不十分な対応だった。中核的存在とおぼしき男性職員もいたのだが動こうとはしなかった。昔から比べると役所のサービスも向上しているとは思われるのだが、想像した通り、業務知識不足と責任感の希薄さは否めない。

国から”老人”のお墨付きをいただいたわけだが、併せて医療保険・介護保険の重みをも負わせていただくことになった。これも国民の義務でしょうか。義務ばかりではなく ”老人” の権利の方もあるのだろうが、これについて役所が積極的にご案内してくれるとは思えない。取る方は積極的だが出す方は消極的、これは役所のお決まり。

何とか、お互い、積極的に義務と権利を果たすというような関係の社会にならないものでしょうか。

本当の第二の人生!!

  • 2012.01.24 Tuesday
  • 14:55
本屋さんを覗くのは楽しみの一つなのだが、なかには本屋さんらしからぬ本屋さんもある。わりと好きななのが遊べる本屋がテーマの「VILLAGE VANGUARD」、店内のBGMが煩くてかなわない店舗もあり、小物が多く本のスペースが限られているので、書棚に置かれる本には騙りよりがある。そこが面白い。『風の谷のナウシカ』(全7巻)もここで手に入れた。

近くにホームセンンター「ジョイフル本田」がある。ここもホームセンターなのだが、インテリア、文具、趣味のグッズなども豊富でときおり徘徊する。四五日前、ふと、ブックコーナーに立ち寄りすぐ目についたのが藤原和博著 『坂の上の坂』 (ポプラ社:amazon) だ。

新聞、ラジオの紹介で知り、ちょっと気になっていた本だったのだが、著者の藤原和博氏については『五体不満足』の乙武洋匡さんが、ラジオ番組で、杉並の区立中学校の校長先生と言っていたので、中学校の校長に民間人を採用したというニュースを思い出した。

坂の上の坂著者 : 藤原和博
1955年東京生まれ。
1978年東京大学経済学部卒業、株式会社リクルート入社。
1996年同社フェローとなる。
2003年より5年間、都内では義務教育初の民間校長として杉並区立和田中学校校長を務める。
2008年、当時の橋下大阪府知事の特別顧問に。
著書は『人生の教科書』(ちくま文庫)、『リクルートという奇跡』(文春文庫)、『35歳の教科書』(幻灯舎)など多数。

  「藤原和博のよのなかnet」
  http://www.yononaka.net

さて、本のはじまりはタイトル”坂の上の坂”の意味。
司馬遼太郎著 『坂の上の雲』 からの連想のようだが、現代は明治期とは異なり老後が長く、坂の上にあるのはぼんやりした「雲」ではなくもう一つの「坂」ではないか、という提言だ。

司馬遼太郎の”坂の上の雲”というタイトルについては、じぶんは著者とは違った捉え方をしているが、その事はさて置いて”坂の上の坂”という考え方には同感だ。著者がじぶんよりずっと若い世代なので仕様がないことだが、もっと早く出逢いたかった本である。

坂の上の坂右の図は著者が40から50代の人へ提案している「人生エネルギーカーブ」である。横軸に人生の歩み、縦軸に人生のエネルギー量を示したグラフである。定年が谷底の辺りだろうか。

しかし、多くの人はピーク時を頂点にした「山なりカーブ」を描いてしまう。ひたすら、死に向かって下っていく人生イメージである。今がピークと思っている人、既にピークが過ぎてしまっていると思っている人それぞれだが、「山なりカーブ」の人生イメージは変わらない。

著者は、考え直せと言う。もう一山あるよ。そして、人生の終わりにエネルギーが最高位に達する。じぶんも定年を迎えて、そのまま下っていくのには抵抗はあったが、ここまで前向きで積極的なイメージを持てるというのは驚愕である。

著者は、東大を卒業して当時中小企業のリクルートという会社に入ったときを、一回目の ”いい子” からの逸脱だっと言う。平均的東大生とは異なる道を行くことになる。営業マンとして一気に出世の階段を駈け上がり、30歳でメニエル(三半規管の異常)に襲われる。そして、この病気を期に、自ら出世街道を外れ専門職へと舵を切る。

その後ヨーロッパに赴任、特にパリの生活体験から自分人生を大きく見直すようになる。パリの人びとの”アール・ド・ヴィーブル”、直訳で”生活術”というような意味になるらしいが、「人と人との間を取り持つコミュニケーション手段としての芸術的生活術」に触れ、日本人の ”上手く生きる” とも言うべき現世御利益的人生観に疑問を持つ。

著者は、元来「人生に正解なんてない、自分で納得できる解を作り上げていくしかない」という考えを持っていたようだが、パリの体験を経て尚その意を強くしていったように思える。「納得解」を多様に導ける「情報編集力」が問われる、とか、成熟社会では戦い方のルールそのものが違ってきている、先ずは第一歩、そして修正する、などの ”生き方” を提唱する。

ヨーロッパからの帰国後、リビングからテレビを追放、哲学の必要性、宗教の役割、そして子ども達のメディア・リテラシーの必要性などを考える。その結果として、 ”住宅、介護を中心とした医療、教育そして組織の壁を超えて個人と個人を柔らかくつなぐネットワーク社会” を目指すようになる。

著者は本書の中で、「坂の上の坂」を目指すための具体策にも触れており、「会社を利用し尽くす」 「消費の作法」 「コミュニティをシフトする」 「パートナーと向き合う」 「死とお金を考える」 「本当に必要な備えをする」 などの章を設けて、さまざまな提言をしている。

本書は、我々のような既に定年を過ぎたものにとっても参考になるが、それよりも、ばりばりの若き社会人のあなたにとってこそ ”良き指南書” になるのではないだろうか。今は社会の変換期、若い世代こそ自分の新しい人生観を作り上げていかなければならないのだと思う。しかし、それは本当に難しいことであるとも思う。

じぶんのサラリーマン生活体験からしても、あの中で、違った価値観、ルールの生き方があるということを認識するというのは簡単ではない。 ”人生ゲーム真っ直中のプレーヤー” が別のゲームを想像しうるかと言えば、それは稀少なことであろう。しかし、それが可能か否かで、一人ひとりの人生が、この国の未来が決まってくるような気がしてならない。

そう生きてみたい !

  • 2011.11.26 Saturday
  • 17:30
割と楽しみにしている 『ラジオ版 学問ノススメ special edidion 』  、iPod で podcast 版 を聞いているのだが、最近 「菊池夏樹(プロデューサー、編集者)[2011/10/30放送]」 を興味深く拝聴した。

菊池夏樹 プロフィール
1946年東京生まれ。作家であり、文藝春秋の創設者である菊池寛を祖父とする。
祖父が設立した文藝春秋に入社し文芸誌の編集者として活躍。
2007年、定年後、高松市菊池寛記念館名誉館長就任。
ディジタルアーカイブ株式会社代表。2011年、総合プロデューサーとして
電子総合文芸誌『ALLEZ!』創刊。


じぶんは1947年生まれなので、菊池夏樹氏は一つ年上なのだがほとんど同世代だと言ってよいと思う。その同世代の男の生き方に共感する。氏はプロフィールにある通り作家 菊池寛の孫であり、祖父 菊池寛のエピソードなども面白く語られている。氏は祖父の設立した文芸春秋に入社するのだがその経緯、心の葛藤も興味深い。

祖父 菊池寛は文藝春秋の創設者なのだが、その目的は偏に新人作家を育てることにあったという。当時、菊池寛の原稿料は破格の価格だったらしいが、亡くなったとき所持金はほとんどゼロに等しかったらしい。人生の全てを文芸、新人作家のために−結構、女性にも注ぎ込んだらしいが−費やしたということか。

じぶんがもっとも惹かれるのは、菊池夏樹氏が文芸春秋を退社してからの生き方である。氏は祖父の生き方に共感しその意志を継ごうとする。電子総合文芸誌 『月刊アレ!(allez!)』 を創刊する。敢えて”紙”を捨て新しいメディアに賭けてみる。紙媒体も電子媒体もあくまでツールであり文芸、文学の発展のためには双方が元気な方がいいと語る。 (月刊アレ!購入サイト  http://hon-to.jp/ ) 

立ち上げた電子総合文芸誌 『月刊アレ!(allez!)』 の315円という価格設定は、祖父 菊池寛の立ち上げた文藝春秋が他の雑誌に比べて安価に設定されたという精神を引き継いだものと思われる。ともかく、将来のこの国の文芸のために、読者に受け入れてもらえる ”媒体” を立ち上げたいという熱意が伝わる。そして、自分はその礎になる。

なんとも潔く格好いい。じぶんも、出来ることならそんなふうに生きてみたいと願う。
しかし、これは我々団塊世代のものが一度は考えてみる課題ではないか。むかしは高齢者も少なく、長くもない年月を、社会にぶら下がって生きていればよかったのだと思う。それはさして社会の負担にもならなかったろう。

しかし、今はどうか。高齢者ばかりが増加し少子化がすすむ。今や社会は、片方は若者がそしてもう片方はシニア世代が担がなければならない時に来ているのではないか。定年後は”面白可笑しく”生きたい − 諸先輩たちの声も聞こえる。もちろん、そのことは否定する気はないが、”面白可笑しさ”の「量」だけではなく「質」も考え直してみるというのはどうだろう。

孫は来てよし帰ってよし

  • 2011.10.14 Friday
  • 10:20
「孫は来てよし帰ってよし」 とはよく言われていることだが、じぶんも孫持ちになり身にしみて感じることである。しかし、若い頃に受けたニュアンスとは異なったものとして捉えるようになった。勿論、これも個人差があるものと思うが。

まず、孫が無条件に子どもよりかわいい、ということはない。じぶんの感覚としては同じくらいと思う。むしろ、接するに孫のほうに戸惑いがある。じぶんの子どもと同じように接することができたら、もっと楽だろうにと思う時がある。

やはり甘くなる。役割と言えなくもないが、親も含め全般的に甘い環境にある子ども達が多いことを考えると、この役割も無意味という思いが強い。

還暦も過ぎて4年も経てば ”マイペースの人生” に焦がれる。じぶんとしては、正直いって、孫よりもマイ・セカンド・ライフのほうが愛おしい。むしろ、人生のラストステージを ”自分らしく” 生きて見せることのほうが、かわいい孫のためになるのではないかと、じぶんに言い聞かせている。

「孫は来てよし帰ってよし」  もどちらかと言えば、”来る” ことが前提にあるような気がするが、”来ぬ” こともありだと考えるようになってきた。要するに 「孫は来てよし来ぬもよし」 なのである。もっと言えば、「孫は居てよし居ぬもよし」 と言える。武道に ”居つく”(※) という考えがあり、極意のひとつであるようだが、これは ”人生の極意” でもあるように思う。


※ 居つく − 主に武道の世界で使われている言葉のようだが、スポーツでも捉えられるようになってきた概念。動きがとまらない、こだわらないというような意味。ネットで検索すると面白いサイトが見つかるが、ここでは「小関アスリートバランス研究所」を紹介する。
http://www.kablabo.com/

自遊生活2日目

  • 2011.07.02 Saturday
  • 18:24
自遊生活が始まって2日目。(自遊生活≒年金生活)

一日の生活のリズムを作らなければと思っているのだが、何となく起床は6時半に決まりそう。
愛犬の早朝散歩を終わらせたら、7時からウォーキングにでかける。およそ50分のコース。
ウォーキング後朝食。

我が家の愛犬は13歳と高齢(?)で心臓が弱ってきており、過度な運動、急な環境の変化などドクターストップとなっているのだが、散歩とドライブの好きなワンコなので家に閉じ込めておくのは可哀想と思っていた。
今日は終日曇りとの予報に、久々にドライブに連れ出したが、あまり具合が良さそうにないので、途中で引き返す。


散歩ワンコを家においてヨーカ堂へ。
買い物と昼食。

帰宅後、予報に反し日差しが出てきたが、ワンコの散歩につきあう。外は日差しが強く、ほとんど抱っこしたまま、いつものコースを歩く。工事中の高速道路の下に日陰があり、地面に下ろし歩かせる。

散歩の後シャワー浴び、『ワープする宇宙』 を読み始める。
不思議なもので、自遊生活前は”積ん読”状態だったのだが、読んでみようという”気”が起きる。
これだけでも、”仕事”が終わって良かったと思う。
やっぱり、環境の変化は大きい。

会社・職場から解放されることが、逆にストレスになる場合があると聞いたことがある。
先輩達にもそんな話をする人がいた。
しかし、自分にはこんな生活の方が合いそうな気がする。


学べ、祈れ、働け、遊べ

  • 2011.06.30 Thursday
  • 19:20
今日で生活のために働くことが終了(修了?)した。
来月からは、いわゆる年金生活になる。
しかし、悠々自適とは言い難い。

第二の人生が経済的に楽でないのは”運用の失敗”か”キリギリスの生活”と断言した人物がいたが、
的を射た分析かもしれない。
たしかに、生活の面で経済的要素は大きい、いや現代人にとって大きすぎる要素となってしまった。
これはこれで興味あるテーマ(※)である。

しかし、第二の人生で重要なのは”マネー”だけではない。
むしろ、より重要な要素は”タイム”(時間)ではないか。
Time is money (時は金なり)とは旨い表現だ。
これは歳とともに実感する。

残りが決して大きくはない時間をどうするか。
定年の3年ほど前から、自分なりにシナリオを描いてみて”本ブログ”のような人生テーマになった。
3.11の震災を経て、なおその意を強くしている。

我々団塊世代を含めたシニア世代は人口の何パーセントか。
おそらく、60歳以上が3割近くを占めている。
これほどの高齢化社会は人類の歴史上初めての現象ではないか。
しかも、おおむね元気で、所有する金融資産も巨額であるという。

このような世代に社会的役割が無い訳がない。
ただ個人の享楽のためだけに貴重な”タイム”(時間)と”マネー”(金)を浪費するのはもったいない。

シニア世代の方々に強く提案したい。
学べ、祈れ、働け、遊べ

リタイア組が社会のために出来ること。
忙しい社会人の代わりに ”学べ” 、行動できないのであればせめて ”祈れ” 、力(技術、資金)があるのであれば ”働け” 、そして自らを本当に解放できるように ”遊べ” と言いたい。


※ 興味あるテーマ − 人間社会にとって”マネー”がこれほどまでに重要な要素になってしまったのは何故か。他にもっと良いシステムがあるのではないか。これは「社会的事象」だけではなく、「生物学的事象」として捉える必要があるのではないか。個人的にこんな妄想にとりつかれている。

calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< July 2017 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM