核兵器が間近に

  • 2017.09.21 Thursday
  • 13:25

前回は「THE HUMAN BODY SHOP」をテーマに、近年急激に注目されてきているバイオテクノロジーの発展に伴う新しい医療技術の倫理問題について考えてみた。これは現代社会の抱えるクライシス(※)の一つと考えられる。そして今、もう一つのクライシスとしてあるのが核兵器である。ただ、こっちは72年も前の広島、長崎から始まったものだが、今、北朝鮮の核開発に伴い新たな展開を見せようとしている。

※クライシス_ 危機、重大な局面、運命の分かれ道、といった意味。

 

残念ながら、唯一の核被爆国の民の一人として、じぶんの核兵器に対する感度(感覚)は鈍い。他人のせいにしたくはないが、しかし、これは大方の日本国民の感覚ではないか。一部の良心的な人、一部の狂信的な人は日頃から核兵器に対して高い感度を維持し続けてきたのかもしれないが、大半の日本人は何か他人事のような気がしていないだろうか。

 

十数年前、SF作家・豊田有恒 著『いい加減にしろ 中国』を読んで、改めて隣国の中国が核兵器保有国であることを再認識したことを思い出す。じぶんの核兵器に対する感度はこんな程度だったわけで、しかも直ぐにまた日常生活にかまけて核兵器のことなどは意識の範疇から遠のいていった。

 

しかし、昨今、北朝鮮が金正恩体制になってから核兵器とミサイルの開発が急転、直近の9/3の水爆実験、9/15のICBM発射実験は共に成功したものと思われ、北朝鮮を取り巻く国々の思惑が混沌としてきている。そして、これに呼応したものか、この週明けに安倍首相は10月の衆議院解散の意向を打ち出した。

 

個人的な思惑、予想などはどうでもいいが、予想を超えた急転回である。じぶんは、核戦争を望む人間など、極一部の原理的思想に取り憑かれた者以外、右にも左にもいるわけがないと信じている。話し合いで決着することが最善であることは間違いない。しかし問題は、話し合える状況を作れるか否かということ、そしてうまい落とし処を創発しうるかということである。

 

かつてミュンヘン会談で、ヨーロッパ連合とドイツ(ナチス)は話し合いでケリが付くかに見えたが、その宥和政策が皮肉にも戦争への誘因となった。話し合うとしても、充分な知恵と運に恵まれるかどうかが成功のカギとなるだろう。平和を唱えていれば何とかなるというものでないことは確かだ。

 

日本の場合、非核三原則が問われることになる。もたず、つくらず、もちこませずの三原則だが、議論になるのは三つ目のもちこませずだろう。NATOの核シェアリングというモデルがあるという。しかし、この施策どころか、たよらず、ぎろんせずも付け加えて非核五原則を提唱する勢力が出てきそうな気がする。

 

核の問題は議論で解決できるような案件とも思えないが、その議論すら拒まれることを想像すると万事休す、如何ともしがたい状況しか見えてこない。仮に非核三原則(もしくは五原則)が、お題目としてではなく本当に力のある法則であれば、これを国の基本法に据えることもできようが、右も左もこれをもてあそび過ぎた。残念至極。

 

この度の衆議院解散を受け、また政府vs野党・メディア連合との対立になると思われるが、ぜひとも加計・森友と同じ不毛な遣り取りに終わらぬことを願うしかない。また、国民も一人ひとりがこれを機に核兵器のある現実を見つめ直してみることが肝心である。中には、核攻撃も甘んじて受けるべしなどと語る人物/グループの出現も予感するが、論外である。

 

関連投稿:困った隣人、中国 (2012/12/10)

 

敗戦の日に

  • 2017.08.15 Tuesday
  • 22:00

ある書で地政学(※)という思考法があることを知ったのは青年期だが、今はその著者も書名も憶えていない。今も似た状況にあるのかもしれないが、地政学は当時はより日本社会から遊離した思考法だった。これも先の敗戦がもたらした現象の一つであったかもしれない。しかし、これは戦前の社会ではより一般的なものであったろうと考えられる。

※地政学−地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を、巨視的な視点で研究するもの (wikipedia

 

じぶんが定年を迎えようとする頃から、世界的に自然/社会が変動期に入ったような印象に捕らわれてきた。定年から十年を経て、現に様々な現象が惹起されるのが見うけられる。特に国際情勢は西も東も緊迫しており、若い頃はじぶんの老後がこんな国際情勢になるとは予想もしなかった。より安定した国際情勢を期待していたのである。

 

じぶんは敗戦から二年後の1947年生まれで、今思えば少年期の世間にはまだ敗戦の空気がうっすらと残っていた気がする。学校の教師はほとんど左派の色合いが濃かったように思う。厭戦気分が強く、特に自衛隊に対する感情は否定的なものだっと思う。そんな中、少年期のじぶんは軍艦、軍用機のメカに対する興味から第二次大戦に興味を持ち始めていった。

 

その為、太平洋戦争域を表す下図のイメージは少年の頭に入っていた。勿論、太平洋戦争の歴史的意味などはほとんど理解していなかった。ほとんどゲーム感覚だったように思う。

 

しかし、じぶんも太平洋戦争時の軍事に対する関心を表に出すことはしなかった。何となくそれはタブーという、そんな空気があったのである。そんな社会状況の中、この国の大人たちもあの大戦を反省(悔やむことではない)することを怠った。

 

太平洋戦争史を読んで、日本が海洋国家であることは少年の頭でも何となく理解できた。連合艦隊はその象徴だったのである。最初に空母を核にした機動部隊を稼働させたのは大戦期の日本だった。

 

じぶんはこんな少年期をおくったので、戦後の日本を表す下図のイメージも普通に認識していた。しかし、今、このイメージすらこの国の多くの人々に欠けているのではないかと危惧している。

 

じぶんの少年期、日本の仮想敵国?はソビエトだった。少年の頭の中には、この国の防衛には広大な太平洋海域を活用した防衛構想が必要であるとの妄想があった。日本列島内の自衛隊基地もさることながら、太平洋海域の島々と艦船を利用した防衛システムを構築し、大洋側から本土を防衛するという構想である。

 

このガキの構想にリアリティがあるかどうかではない。少年期にこの位の想念を持っていたということなのである。今は、大の大人ですら、少なからぬ人々が左図のイメージすら自らの頭に無いのではないかと思われる。

 

北のミサイルがグァム近海を狙っているとのプロパガンダ報道があるが、グァムは日本圏から見て遙か遠方の島ではないのである。

 

事は右派、左派の話ではない。現体制を全否定というアナーキーな人種は別として、多くの人々にとって取り敢えず現体制が出発点のはずである。好戦的、厭戦的な人々は右派にも左派にもいる。現体制を変革しようと活動している人々も現体制から生活の糧を得ている。勘違いをしてはいけない。

 

要するに、地政学とは「ご近所付き合い」を考えることだろう。ご近所には常識人もいれば困ったちゃんもいるのである。この現状に目をつぶっても何も変わらない。この敗戦の日に、地政学的思考法を我々一般市民の常識とするような社会的取組みが必要なのではないか、ということに思いを廻らせてみた。

幻のジャパニーズ・ホスピタリティ ”お・も・て・な・し” ?

  • 2017.03.02 Thursday
  • 20:36

2020年東京オリンピック誘致活動の中で話題になったフレーズが ”お・も・て・な・し” だ。今流に言えばホスピタリティということになるのだろう。じぶんもこの国の ”お・も・て・な・し” の精神は実在すると信じたいのだが、十年前に定年を迎えようとする頃から少し疑問に感じるようになってきたのである。

 

前に当ブログでもそのことを書いているのだが、正直、これが客観的な認識と言えるかどうかは定かではない。もしかしたら、この感覚はじぶんの老化現象によるものではないかという思いもある。そしてこの思いは今も続いている。じぶんは終戦後まもない1947年の生まれだ。いわゆる団塊世代である。

 

ふるさとは宮城県で福島県との県境に程近い小さな町である。今から思えば、子どものころは質素な、どちらかと言えば貧しい暮しではなかったかと思う。農家が多く、学校の先生、医者などを除いて高学歴の人はほどんどいない社会である。じぶんの両親も明治生まれで学校は尋常小学校だけだったと思う。

 

しかし子どものころを思えば、じぶんの周囲の大人たちは学歴はなくとも人格者が多かったような記憶がある。中には乱暴な人、怖い人もいたのだろうが、どちらかと言えば純朴な東北弁の記憶と共に ”優しい大人たち” の印象が強く残っている。要するにあの頃の田舎には、幕末から明治期にかけて日本を訪れた西洋人が書き残した ”古き良き” 日本人がまだ残っていたということではないのだろうか。

 

そしてじぶんは、これがこの国の ”お・も・て・な・し” の源泉ではなかったのかと思うのである。この精神が時代と共に形を変え今なお受け継がれきているというのであれば何も言うことはないのだが、じぶんの身近な体験から ”お・も・て・な・し” の精神は薄れてきているのではないかと思わざる得ないのである。

 

じぶんの些細な体験というのは、具体的には車のディーラー、携帯ショップ、ケーブルTV、医療機関、そしてパート先(公共施設)のセキュリティ会社などに関するものである。関係者の顧客目線が非常に希薄なのである。じぶんの関心はこの国のサービスはもっとマシだったのではなかったかということであり、一方これはじぶんの勘違い、思い違いではなかろうかという懸念もあるのである。

 

しかし、これが老化による勘違いとなると一人の情けない老人の話で終わるだけなのだが本当にそうなのだろうか。もし我々が思っている以上にこの国から ”お・も・て・な・し” の精神が薄れているのだとしたら、これは単にビジネス案件に留まらない国のあり方にまで関わる大きな問題だと思うのだが。しかしこれもまた老人の世迷言と切り捨てられるのだろうか。でも本当に気にかかるのである。

 

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           近頃の乱暴な営業マン (2011/06/12)

バイリンガルは社会問題?

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 18:20

茂木健一郎著『最強英語脳を作る』(ベスト新書)

 

 英語は学ぶというより、英語を生きることが大事です。英語を身につけるということは、英語の「マインド・セット」を身につけることで、それは単に単語や表現を知っているということとは違います。

 英語の「マインド・セット」は近代に入って世界で最も成功した「マインド・セット」になりました。したがって、英語ができないと、人類の文明の最先端の現場にいられない。これが英語をやらねばならない最大の理由で、受験や就職のために勉強するものではありません。

 英語はもはや、文化ではなく、文明なのです

 

本書の表紙裏に表記されている本文からの抜き書きだが、本書を「マインド・セット」と「英語は文明」の二つのキーワードで要約している。本書はとても刺激的な内容の本である。しかし、二度読んでも理解できたとは言い難いが、著者の言わんとする方向には強く引き付けられる。

 

数年前にドクター苫米地の『バイリンガルは二重人格』(amazon)に触発されて身近な外国語_英語に関心を持った。じぶんの興味は全く個人的なもので、そもそも人間は二重(多重)人格ではないのかという思いから、もしかしたらバイリンガルは二重人格を自覚?できる手近な方法ではないかと考えたのである。

 

しかし、還暦過ぎて本格的にバイリンガルを目指すというのはさすがにハードルが高いので、取り敢えずの方法として洋書を読んでみるとか、ネットで英語のトーク番組、ニューヨークタイムズのビデオを見るなどをやってきた。最近アマゾンTVスティックを買ったので、家にいるときはNHKワールドニュース、Yahoo!などをBGM代わりに流している。

 

今はIT環境で辞書機能なども充実してきているので外国語の学習には本当に便利な世の中になった。じぶんがやってきた程度の努力でも多少の成果はあるもので、英語を無意識に翻訳しようという衝動からはかなり解放されてきた気がする。英語のトークを、意味を理解できるかどうかを別として、音楽を聞いているかのように聞き流すことが出来るようになってきたのである。変なはなし、始めは日本語の雑念にジャマされて、このことすら困難だった。

 

さて、著者・茂木健一郎氏が本書で提唱していることは、じぶんの私的な関心などとは質を異にする問題である。あるコミュニティ/企業の英語公用語とか、低学年からの英語教育とかが話題になったこともあるが、著者のテーマはこれらとも少し異なるのである。

 

自分流に解釈すると、英語とそのマインド・セット(※)が、例えば石油産業のような現代社会にとって不可欠な構成要素(文明)になってしまっているということだと考えられる。もはや ”善し悪し好き嫌い” ではどうにもならない。現代社会では石油産業を認めることからしか何事も始まらない。同様に英語を使えることからしか何事も始まらない。別の視点から見ると、今や、英語はインターネットと共に現代文明を形作るメインフレームであると考える方が適切なのかもしれない。英語はもはやこの地球上に無数にある言語の中の一つであるという存在を超えた、と考えるべき時代になったのだろうか。

(※)マインド・セット -- ある種の世界の見方、価値観、行動様式、そういうものの複合体(本文から)

 

著者は、何事(特に経済的側面では)の最前線も英語によるコミュニケーションが主流となっており、誰もが英語なしではその現場にすら立ち得ないのが現実だと言うのである。じぶんは実情がそこまで逼迫した状況か否かを判断することはできない。しかしこのような状況を踏まえると、著者の認識では、今の日本の英語教育は問題外ということになる。

 

著者は毎年TEDトークに出演しているとのことだが、日本人からの揚げ足取りが多いのだという。それも内容に関することよりも「その表現は変だとか」「この発音は変だ」とかがほとんどで、日本人の完璧主義がマイナスに働いてしまっているのだろうと解釈される。こんなことでは、むしろ、英語は受験科目から外した方がよいのではないかとの意見すらあるという。その方が、各自が社会のニーズに応えて必死に英語習得に努めるのではないかとの期待からである。

 

英語の必要性を説く著者だが、世界中にある様々な言語を排除することを唱えてはいない。むしろ、それぞれの母国語は大事にして、英語を現代社会のリンガフランカ(共通語)として認識すべきだと主張しているのである。ただ、その英語はマインド・セットと一体であるというのが著者の主張の核心である。じぶんにとってもここら辺りが理解の難しいところである。リンガフランカとマインドセットは相反するのでは?と思ったりする。

 

しかるに著者の主張は、現に「英語というマインド・セット」が、その善し悪しは別として、世界中特に先進国エリアを闊歩しているではないかという認識なのである。もしこれを是認するならば、この国も政府として何らかの対策をしなければならないということになるのだろうが、さて、どこまで対応できるのやら。著者の懸念もその辺りにあるのではなかろうかと推測する。また、ここまで来ると、英語学習の問題は単に個人の外国語習得の是非を超えた社会(国体)問題と考えざるをえなくなる。

 

さて、著者は英語を習うための具体例としてAIをあげる。2006年3月、グーグルが開発した囲碁ソフト「アルファ碁」が韓国のイ・セドル九段に勝利した。このAIはポリシー・ネットワークと強化学習ネットワークの二つのソフトから成り、前者は何百万局という過去の棋譜を読み込んでパターン化、後者はいろんな手をランダムに打ち込んで自分自身と対局するという試行錯誤で絞り込みを行うのだという。

 

著者はこれが英語学習にそのまま当てはまるという。ポリシー・ネットワークでは良い英語を読みまくり、聞きまくりして、強化学習ではアウトプットで書きまくり、喋りまくりで相手の反応をみる。そして、今の日本の英語教育ではこのどちらも不十分である、AIに学ぶべきだと著者は言う。

 

著者は、さらにAIが進化して同時通訳が可能になれば、もしかしたら英語(外国語)学習も不要になるかもしれないが、自分自身のために外国語学習を続ける人たちは残るだろう予測する。しかし、この点に関してはじぶんは少し異なる意見を持っている。人間は肉体を持つ存在であり、意識を司る{脳}も結局この一部にすぎない。じぶんは、通常では人間は肉体から離反できない、と考えている。しかしながら、日本語と性格の異なる英語とのバイリンガルは日本人の{脳}に好影響を与える?という著者の説には共感する。

 

これほどに運動機能を補助する文明が発達した社会でも、いやむしろだからこそ、人間はこれほどまでにスポーツ世界を巨大に発展させた。さらに、健康を理由に生活の中にフィットネスなどを取り入れせっせと身体を動かしている。おそらく、自分の{脳}をバイリンガルにすることと、AIの通訳機能を使ってコミュニケーションを取ることとは次元の異なるテーマのような気がする。今、将来どんな現実が現れるのかは分からない。出来ることならば、じぶんの生存中に何らかの回答が得られることを楽しみにしたい。

 

関連投稿: 英語という外国語のはなし (2012/01/18)

 


 

最強英語脳を作る

発行 2016年7月 KKベストセラーズ(amazon

 

著者 茂木健一郎

1962年、東京生れ。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職はソニーコンピューターサイエンス研究所シニアリサーチャー。

専門は脳科学、認知科学であり、「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究するとともに、文芸評論、美術評論にも取り組んでいる。

2005年、『脳と仮想』で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年、『今、ここからすべての場所へ』で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。

 

ほんものの教育人(びと)

  • 2016.07.12 Tuesday
  • 21:03

植松努著『空想教室 好奇心を”天職”に変える』(サンクチュリア出版)


時間潰しに書店に立ち寄り見つけた植松努著『空想教室』に思わず手が伸びた。前に買った『NASAより宇宙に近い町工場』と内容は同じように思えたのだが、植松氏にもう一票投じるつもりで購入した。しかし本当に、著者の文章は文字数が少なく言わんとすることも分かりやすい。だが、反して内容は深く重い。

 

本文のほとんどの部分にウンウンと頷きながら読んでしまえるのである。書いてあることは難しいことではない。しかし、ほとんどの市井の人々はこれを実行することができない。著者は、それは永く社会に蔓延った「どうせムリ」というコトバの所為だと説き続ける。著者がそのコトバに初めて出合ったのは小学生のときだった。しかもそのコトバをパスしてきたのが担任の先生っだった。著者の人生はこのコトバの ” 呪縛 ” との闘いと言ってもいいのかもしれない。

 

http://uematsudenki.com/

 

本書は、

Lesson1 思い描く

Lesson2 思い込む 

Lesson3 思いやる

Lesson4 思い切る

Lesson5 思い続ける

から構成されている。

 

各レッスンの中のチャプターの終わりにそれぞれ短いメッセージが記されているのだが、この言葉に触発される。チャプター3の「お金があるから手に入るのではなく、作った人が売ってくれているから」というメッセージがある。この世の中で、子どもから大人まで、こんな風に考えたことがある人はどれだけいるだろうか。お金はシンボルでしかないことを、本当は多くの人々が薄々感づいているのではないかと思うのだが。

 

本書は教科書として一級の本だと思う。しかも小学生から成人、そしてシニア世代まで啓発する力を持っている。しかも、童話のようにファンタジックに。著者は会社経営、ロケット開発、そしてモデルロケット教室(学校用)をも実施している。 モデルロケット教室では、初め自信なげだったり、ツッパっていた子どもたちが自分の作ったロケットが空高く飛ぶのを見ると、自信を持ち優しくなるのだという。

 

この国は工業立国で行くとか、観光立国を目指すとかの意見があるが、じぶんは教育立国あるいは人材立国がいいのではないかと考えている。教育と言っても、グローバルで即通用する云々ということではなく、四季があり震災多発の極東の島国に育まれた民人(たみびと:人種を問わず)として学ぶべき作法といったような意味である。

 

それには、歴史の知識が貧弱のため近い明治期の喩えになってしまうのだが、社会制度としての学校教育もさることながら、松下村塾の吉田松陰、神戸海軍操練所の勝海舟、海援隊の坂本龍馬などのような教育人(びと)が必要になるのではないかと思うのである。じぶんは、この現代の日本にはそれに相応しい人材が数多くいると確信している。著者・植松努氏もその一人であろう。

 

日本には、これら人材の活動を少なくともジャマしない風土と、出来れば彼らが望む社会的支援制度の確立が重要になると思われる。この国の未来はこの社会風土と制度にかかっている。本書を読んでそんな想いを強くした。

 

関連投稿: まともな人 (2013/01/23)

 


 

空想教室 好奇心を”天職”に変える

発行 2015年11月 サンクチュリア出版(amazon

 

著者 植松努

1966年、北海道芦別市生まれ。株式会社植松電機・専務取締役。株式会社カムイスペースワークス・代表取締役。NPO法人北海道宇宙科学技術創成センター・理事。幼少の頃より紙飛行機が好きで、大学では流体力学を学び、卒業後に入った会社では航空機設計も手がけた。

現在は植松電機にてロケット開発、宇宙空間と同じ無重力状態を作り出す微少重力の実験、小型の人工衛星開発、アメリカ民間宇宙開発企業との共同事業、これら4つの宇宙開発を軸に各研究を進める。

その一方で、全国各地の講演やモデルロケット教室を通じて、年間10000人以上の子どもに”夢をあきらめないことの大切さ”を訴えている。

また2010年4月からは、「住宅に関わるコストを1/10、食に関わるコストを1/2、教育に関わるコストをゼロ」の社会システムをめざす「ARCプロジェクト」を開始した。

失われた古代史

  • 2016.04.21 Thursday
  • 21:06
ケン・ジョセフ著『失われたアイデンティティ 』(光文社)

十年ほど前に購入した本だ。本棚の整理中に目について読み直してみた。とても興味深く刺激的な内容である。この手のモノは青年期に興味を持って読んで結構愉しませてもらった。世間的には裏の歴史・セオリーと呼ばれるものだと思うのだがある種の説得力を持っている。個人的には裏のモノも表のモノと同程度に評価している。少なくともバカにしたことはない。

よくエセ科学(疑似科学)と言われるが、じぶんは全ての科学の分野がエセっぽい要因を持っていると考えている。何が表で裏かというのは時代の社会的背景によるのではないかという気もする。本書は本当の日本人のルーツを知らなければならないと提唱する。そして日本人に元気がないのはアイデンティティを喪失しているからだという。

今、東アジアでは歴史問題で波風がたっており、近現代史に異常なほど注目が集まっている。これはこれで研究・検証してもらいたいとは思うのだが、併せて紀元前の古代史をも研究・検証すべきではないかと考える。虐待の歴史は千年忘れないと言ったお隣の大統領がいるが、それならば寧ろ自分たちの歴史を一万年単位で考え直してみてはどうだろうか。

息子たちがまだ小学生だったころ、夏休みにキャンプで青森県の十和田湖に行ったことがある。帰りがけに、じぶんの好奇心から、新郷村のキリストの墓に寄ってきた。本書を読んで、簡単にトンデモ話では済まないのではないかとそのことを思い出した。日本、あるいは日本人というものは歴史的に決して特別な存在ではないという著者の主張には耳を傾ける価値がある。当の日本人がそう考えたがるところがあるからである。

そもそも人類の起源はアフリカでありグレートジャーニーの末に世界に広まったとされる。であるならば、極東最果ての地に固有のピュアな人種など誕生するわけがない。次の著者の提唱も現実味を帯びてくる。
 
 日本の原点は、あなたが信じているような「単一民族国家」homogeneous nation ではなく、「多民族共生国家」multi-ethnic nation です。また、日本人は本来の「仏教徒」Buddhist ではありません。「隠れキリスト教徒」The Hidden Christian と言った方がいいのです。
 仏教より早くキリスト教が伝来し、飛鳥・奈良・平安時代の日本にはさまざまな人々が住んでいました。日本人はもともと「国際人」cosmopolitan だったのです。空海が唐の都・長安から持ち帰った「教典」texts は仏教の経典ではなく、景教の「新約聖書」New Testament でした。そしてザビエル Frsncis Xavier は、日本人がすでに「デウス」(神)を知っていたので驚いたのです。ですから、日本人がこうした自分たちの「本当の姿」を知れば、日本は必ず復活 rebirth し、あなたもきっと元気になれるのです


古代史の世界は想像以上に人間の移動があり文化の交流があった ということである。今の日本が置かれた国際状況を考えると、近現代史もさることながら古代史の検証が外交問題解決の糸口になりはしないかという期待が出てくる。この島は大陸の人々が最終的に ” 何かを求めて ” 辿り着いた地ではなかったのか。大陸からはじき出された人々によって築かれた国、それが日本ではなかったのか。そこでは大陸の表の中華思想と相容れるはずもなく、危険で豊かな自然の中で強く静かな風土・文化を作り上げてきた。

この当たりになると個人的な思い入れが強くなってくるのだが、「この国は辺境のコミュニティとして静かに在る方がよい」 というじぶんの願いもこの新しい歴史観と共鳴するのではないかと思えてくる。と言って鎖国を推奨しているわけではない。交流は自然に、そして時に応じて我がルーツの国々に必要なフィードバックをするのが良い。著者等が行っている活動のように。

著者のルーツはアッシリアで、そして聖徳太子の治世に活躍した秦氏 Hata people のルーツもアッシリアにあるのだという。アッシリアとはイラク北部辺りの地域で、紀元前10世紀頃全オリエントにまたがる世界帝国を築いた。著者も秦氏 Hata people もその末裔だというわけだ。そこで、日本の中にこの血筋の人たちが少なからずいることになる。雅楽の東儀家のルーツも秦氏らしい。

さらに著者は天皇家の公然の秘密に触れる。2001年12月、天皇誕生日を前にした記者会見の席上で、陛下自らが天皇家はその昔韓国とゆかりがあったと発言されたという。翌年開催のFIFA日韓ワールドカップに配慮された発言と思われるが、日本のマスコミにほとんど無視された。じぶんもはっきりとした記憶がない。しかし、古代史が本書のようであったとしたら、東アジアは境界の曖昧なエリアで人的交流も現代より自然であったと想像できる。天皇家が朝鮮半島にゆかりがあったとしても変ではない。

現在の東アジア情勢を考えるには、近現代史だけから見るよりも古代史を通して近現代史を見る方が、急がば回れではないが、問題の核心に迫れるのではないだろうか。本書を読み終えてそんな感想を持った。中韓と日本は何故こうも対立し続けるのか。その争点が70年ほど前に終わった戦争に関わる歴史問題であり、しかも当事者たちではなく何も知らないその子孫達が熱く叫び続けているのだから奇怪である。近現代史をどんなに詳細に吟味してもこの問題の解決につながるような気がしない。

また、本書には国内外での著者等の活動(JET(日本緊急援助隊))も紹介されている。その中で、日本の被災地(阪神大震災、有珠山噴火、新潟中越地震)における非常識な役所の対応なども記述されている。東日本大震災のときは被災者同士の助け合い、自衛隊・警察・消防・米軍などの活躍が表向きに注目されてあまり表沙汰にはならなかったが、自治体の働きはどうだったのだろうか。

そして進行中の熊本地震だが、今日の時点でまだ物資が十分に被災者に届いていないとの報道がなされている。予想を越えて震源が広い範囲に拡散して今までにない内陸地震の様相を呈してきているために、救援体制の準備も予想よりも随分と遅れてしまっているのかもしれない。何度も立て続けに震災を経験しても体制が追いつかないという感じだ。困ったことに、ちょっとした出来事に対するネット上の過敏な反応だけが目立ち、世間を苛ただせる。

 構造改革 structural reform 、行政改革 administrative reform 、教育改革 educational reform など、いろんな「改革」reform が叫ばれていますが、いちばん大事なことは、先が見えなくなったときには原点 roots に戻ることです。
 自分たちが、この地球上にどのように存在しているのか? 日本人と日本の国のあり方とはなにか? という原点がわかれば、がんばる目的 purpose は見えてきます。元気が出てきます。そうすれば、必ず道は拓け、未来は輝きます。


この著者のメッセージが 、これも回り道になるかもしれないが、もっとも確実に強い国そして民を育てる手立てなのかもしれない。青年海外協力隊に参加することが頭をかすめたこともあったあの頃から半世紀が経つ。社会のお役に立てないまでお荷物にならないようにと想いながら9年になる。まだ乱の時代は始まったばかりと感じながら、せめて祈る力を身につけたいと願うばかりである。
 
失われたアイデンティティ
失われたアイデンティティ
発行  光文社(
amazon) 2005年6月 

著者 ケン・ジョセフ
1957年東京都生まれ。米国カリフォルニア州バイオラ大学大学院卒。1979年ロサンゼルスに、1989年東京に国際ボランティア組織を設立。現在は「日本緊急援助隊」(JET)を組織して世界各地の被災地でボランティア活動で活躍。キリスト教宣教師として太平洋戦争後来日した父の影響から、景教研究科として、これまでいくつかの著作を発表してきた。

   
 

日本のライバルは日本

  • 2016.02.14 Sunday
  • 08:33
佐藤智恵著『ハーバードでいちばん人気の国・日本』_PHP新書

昨年の10月、安倍内閣は「一億総活躍社会」プランを打ち出した。直後から、世間では不評の声が多かったが、なぜか個人的には良いんじゃないのかなと思っていた。確かに、一億総××などというと、何か戦時中のプロパガンダのような響きがあるので、ちょっと退いてしまうのは分かる。

しかし、超高齢化社会へ向かってまっしぐらのこの国にとって、色んなプランをトライしてみることは必要なことだろう。「活躍=労働」のイメージに捕らわれてしまうと窮屈だが、「活躍=元気に生きる」と捉えれば、それは全てのジェンダーと世代に当てはまる。全ての日本人が元気に生きることのできる国を目指す、というのは悪いことではない。

佐藤智恵著『ハーバードでいちばん人気の国・日本』は、そんな元気な日本の復活を予感させるような本である。ハーバードというと、じぶんには映画・ドラマの中の出来事としか思えない。本書でハーバードと称しているのはハーバード大学経営大学院のことである。二学年で約1800人の学生が学んでいる。学生の多くは、いわゆる各国の要人の子女、富裕層の子女であり、卒業後は財政界で養殖につき、世界に大きな影響を与える地位につく確率の高い人たちである。

この大学の教員・学生に日本が大人気であるというのが、タイトルにあるように、本書の主旨である。しかし、ハーバード大学などへの日本人学生の留学者が年々減っており、中韓の留学生が増加しているということが以前から話題になっている。そんな状況で本書のタイトルを見たとき、本書のタイトルを俄に信じることはできなかった。また、似たような自国賛美のタイトルの本が多く出版されているが、あまりに我田引水的な空気に抵抗があり、今まで手に取ってみることはなかった。

本書を読んでみようと思ったのには著者の経歴の影響が大きいかもしれない。著者が、その多様なキャリアに関わらず未だ無名?の女性ライターであるということで、逆に本書の内容に信憑性があると思える気がした。有名であるということが思うほどに価値のあることではない、ということが納得できる歳になったということでもある。

ハーバードの学生は年間に約250本、二年間で約500本の事例を学ぶのだという。日本の企業の事例は、数の上では欧米、中国、インドの事例よりも少ない。しかし、日本の事例のほうが、「忘れられない事例」「私の人生に影響を与えた事例」として、学生に強い印象を残すのだという。なぜ?。

2013年、ニティン・ノーリア学長が『ボストン・グローブ』紙に寄稿した記事が紹介されている。

私は日本経済を立て直そうとしている経営幹部、起業家、ビジネスリーダーと出会い、「欧米諸国から日本が学ぶことは何もない、と考えるのは大きな間違いだ」と確信した。(中略)
「ソニーなどの日本企業は、かつて革新的だったが、いまや他国の競合企業の後塵を拝している」と世間では認識されているかもしれない。しかし、日本からはいまも、世界を席巻しそうな企業が密かに輩出しつつあるのだ。(中略)
経済は停滞していても、他国がうらやむほど国民の質が高いことに、私は感銘を受けた。多くの国々では経済的な格差が危機的に拡大しているにもかかわらず、日本国民の貧富の差は驚くほど小さい。日本社会は秩序と調和が保たれている。2011年の東日本大震災からの復興を見れば、この国がたび重なる戦争や天災から立ち直ってきた国だということをあらてめて実感する。


アメリカ型資本主義、市場原理主義、株主至上主義は間違っていないのか、今、ハーバードのエリートたちの課題なのだという。中国は、現在最も経済成長を遂げたと言われるが、人権や社会体制に問題をかかえる国がアメリカのモデルにはなりえない。そこで、ビジネスを歴史から学ぼうということになった。そして、世界初の企業(金剛組)がうまれた国、世界初の先物市場(堂島米会所)が生まれた国、類を見ない経済成長を遂げた国−日本が再び注目されるようになった。

今、日本は世界の政治・経済の面では後退したとされているが、最高峰の教育の場では注目されている。もし、これが事実であるとするならば、個人的には大変嬉しいことだ。実は、じぶんはこの国が世界の辺境でひっそりと、穏やかなコミュニティとして存在していくことを願っている。だからと言って、鎖国を推奨しているわけではない。しかし、どちらかと言えば、グローバル化とは相反する考え方だ。世界中の政治、経済、民族、文化をガラガラポンするような在り方に強い疑念を覚え、信用ができないのである。

これから世界の中で日本が果たせる役割、それは政治・経済ではないのではないか、そんな想いを抱いている。ノーベル経済学賞のマートン・ミラー教授が、NHKスペシャル「マネー革命」のインタビューで述べている。

先物市場は日本で発明されたのです。米の先物市場が大阪の真ん中の島で始まりました。それは現代的な取引制度を持った最初の先物市場でした。(中略)2,3年前のことですが、私は大阪に行ったとき、花を買って最初の先物市場の跡地に捧げました。それは人類に対するすばらしい貢献だったからです。

自由市場の信奉者であるマートン・ミラー教授の想いと、江戸時代に先物市場を作り上げた先人たちの想いが同じであるとは、とても思えない。江戸時代の商人たちの課題はローカルで切実なものだったのではなかろうか。まして、この先物市場がグローバルな仕組みに向いているのかどうかは未だ白黒がついていない。

なぜ、シカゴの商品先物市場が誕生する約120年も前に、日本で先進的な市場が生まれたのか。ハーバードの教員たちは、その一つの要因として、日本人の知的水準が高かったことをあげる。当時、日本人の識字率も就学率も、世界的にかなりのレベルにあったと思われる。多くの町人の子女が寺小屋に通い、読み書きと計算を身につけた。ジョーンズ教授が次のように指摘する。

経済成長の要因は複雑で、何が経済をさせるのかについてははっきりと解明されてはいませんが、確実に言えるのは、人的資本(ヒューマンキャピタル)が経済成長を左右するということです。なかでも読み書きができる国民がどれだけいるか、というのは非常に重要な要素です。日本には、江戸時代から、優れた人的資本がありました。日本は閉ざされた封建社会のなかに、優れた人的資本を抱え、高度に発達した社会をつくりあげていたのです。

教授は、経済発展の要因については正確には解らないのだと言う。ただ、確実に人的資本が果たす役割は大きいと提言する。この教授の正直な提言は傾聴に値する。じぶんも、素人の直感だが、経済は最終的に人に、より端的に言えば人の{脳}に帰着すると考えている。よって、そのコミュニティにどんな人的資本−その質と量、そして経過年数−が存在するかが、そのコミュニティの経済を左右するという考えには得心がいく。

本書の「終章」は、日本人が気づかない「日本の強み」を自覚せよ、というタイトルで書かれている。この中で、ハーバードの教授陣に「日本の強み」をあげてもらっているのだが、もっとも多くの教授が「日本の強み」として指摘したのは「人的資本」であったという。つまり、日本の強みは日本人だということである。目から鱗という感じもするが、灯台もと暗しという感じもある。

日本人のプラス評価すべき点としては、
     1.高い教育水準
     2.分析的な特性
     3.美意識、美的センス
     4.人を大切にするマインドと改善の精神
     5.環境意識と自然観
     6.社会意識
などが指摘される。

同時に、時にマイナス評価になり得る点として、恥の文化、謙遜の精神などをあげる。さらに、教授陣が指摘した日本の課題は次の三つに集約されるという。
1.グローバル化
2.イノベーションの創出 _ 高齢化社会はチャンス
3.若者と女性の活用

じぶんは、2と3は納得がいき ” 一億総活躍 ” とも共有できる提案だと思うのだが、1のグローバル化には懸念を持つ。もっとも、このことはグローバル化の定義にもよる。ハーバードの教授陣の、日本ほどの長い歴史と、長い経験が蓄積された国は世界に類がなく ” 世界はもっと日本について知りたがっている ” 、それに応えるべきだ、という提言には賛同する。現状は、英語に翻訳されている情報はあまりに少なく、それを伝える人も不足しており、日本の本当の価値は日本に来てもらわないとわからないのだという。このことに応えるためのグローバル化は大賛成である。そのための具体的な策は議論を要するだろうが。

本書では、ハーバードで実際に使われている日本の事例を紹介している。トヨタ、ホンダは分かりやすいが、「テッセイ」と「福島第二原発」が取り上げられているというのには驚いた。「テッセイ」は新幹線お掃除劇場としてTV番組で紹介されており、「福島第二原発」もメルトダウンをくい止めた組織の活躍を漏れ聞いてはいたが、じぶんはその詳細を認識していなかった。

テッセイ 福島第二原発

ハーバードの教授陣は、日本のモノではなくソフトウェア(組織の在り方)、ヒューマンウェア(リーダー、人事)を取り上げ評価する。このことを、日本人自身はほとんど自覚していないような気がする。個人的にも、この国はモノづくりではなくヒトづくりの方が得意なのではないか、と考える。モノはその結果として付いてくる。日本のライバルは日本なのである。

ただ、定年前後から気になっていることがある。それはいろんな身近にある店舗・施設のサービスの劣化である。車のディーラー、携帯ショップ、TV関連、そして病院、役所等々、日々生活の中で個人的に関わる処のサービス力が落ちていると感じるのである。いつも、それはじぶんの老化による被害妄想?の所為ではないかと自問するのだが、どうしてもそれだけでは納得がいかないのである。

日本再生のキーはやはりヒトだと思う。ヒトづくりには、教育機関だけではなく、政府も、企業も、自治体も、そして個人もその責を負わなければならないと思う。本書はその事を示唆しているのではないだろうか。
 

ハーバードでいちばん人気ハーバードでいちばん人気の国・日本
なぜ世界最高の知性はこの国に魅了されるのか
PHP新書(
amazon
2016年1月発行

著者 佐藤智恵(さとう・ちえ)
1970年兵庫県生まれ。92年東京大学教養学部卒業後、NHK入局。ディレクターとして報道番組、音楽番組などを制作する。2001年米コロンビア大学経営大学院修了(MBA)。ボストンコンサルティング、外資系テレビ局などを経て、12年作家・コンサルタントとして独立。著者に『外資系の流儀』、『世界最高MBAの授業』、『世界のエリートの「失敗力」』ほか多数。近年はテレビ番組のコメンテーターも務めている。


 

H2Aが静止衛星の送り届けに成功!!

  • 2015.11.25 Wednesday
  • 18:06
昨日H2Aロケットが種子島宇宙センターから打ち上げられた。4時間半後にカナダ・テレサット社の通信放送衛星を起動に乗せることに成功した。H2Aはエンジンの改良を行い、静止軌道3万6千キロに近い3万4千キロ上空まで衛星を送り届けることができるようなった。従来は数百キロ上空で衛星の切り離しを行っていたということなので、この技術力は格段の進歩と言える。

H2A

個人的にも、若い頃からこの手のトピックスは大好きで、オリンピックを見ているかのように感動する。しかも、初の商業衛星の打ち上げの成功ということで、事情通の人もよく事情の分からない人たちも一緒になって盛り上がっている。ドラマ「下町ロケット」が話題になっていることも追い風になっているのかもしれない。

以前、スーパーコンピューター開発の議論の中で、「二番じゃダメなんですか?」という発言をした女性議員が槍玉に挙がったことがあった。じぶんは、かならずしもその女性議員の発言が間違っているとは思わなかったのだが、技術力で一番を目指すことの価値をないがしろすることは出来ないとも考える。

特に、日本の未来を考えると、色んな途(みち)があるとは思われるのだが、まだまだ技術立国という途は捨てがたい。ただ、スーパーコンピューターのように、処理速度のみが突出して評価されるというのは如何なものか?という懸念は残るのである。オリンピックの本当の意義が問われるように、エンジニアリングの意義もしっかりと議論されるべきではないかと考えるのである。

静止衛星を打ち上げるには赤道に近いところから打ち上げるのが有利なわけである。そういう意味で、種子島のような場所からの打ち上げは不利になる。今回、そのハンディキャップを克服するために新しいエンジニアリングが必要とされた。

一方、不利な条件をクリアするために発射基地を赤道に近い場所を確保するという考え方もある。これには政治力(国内外の)が必要とされるかもしれないが、これはこれで議論の価値のある選択肢であると言える。

しかしながら、様々な規制がある環境の中で目的を達成しなければならないということが、エンジニアリングを高めていくということもまた真実なのである。

関連投稿:下町ロケットを考える (2015/11/07)

安保法案が特別委員会で可決?!

  • 2015.07.15 Wednesday
  • 20:18
今日、安全保障関連法案が衆議院の特別委員会で採決され可決した。世間の一部と隣国一部で大騒ぎ?となる。困ったことに、この法案の中味をよく知らない。また、よく知りたいという気にもならない。憲法に反するとかしないとか、護憲、改憲ばかりが取りざたされているが、いろいろ主張されている方々の中で本当にこれを理解して人たちがどれほどいるのだろう、と正直疑問に思う。

マスメディアの報道などを参考にすると、この法案は不明瞭な自衛隊の運用規則を少しでも明確にしたい、ということではないかと推測する。中には、自衛隊を使えるようにしたいという関係筋の思惑も含まれているかもしれないが、元々、自衛隊の存在が違憲かもしれないということが曖昧にされている状況があるので、法案賛成側の主張も反対側の主張も今一つ説得力に欠ける。個人的には自衛隊の存在を是としている。

この安保法案関連の主張を聴いていると、じぶんがガン患者で、医者たちが手術派と反手術派に分かれて激しく議論しあっているような状態を想像してしまう。それで、あなたはどっちを選びますかと言われても、実際にその時になってみないと分からないとしか言いようがない。しかし、結局はどちらかを選択し、それなりの結果が出ることになる。そして、「言った通りになったろう」とどちらかの派が勝ち誇ったように言うのである。

安保法案は可決、廃案のどちらを選択しても課題山積である。しかし、今、じぶんがどちらかを選ばなければならないとしたら、取りあえず、ジブリの宮崎駿監督の会見を参考にしたいと思う。

宮崎駿監督の会見
http://blogos.com/article/122316/

会見は、日本外国特派員協会に所属する海外メディアの報道陣限定で行われた。この会見の内容で、監督の意見に共感するところあり、違和感を感じるところあり、言わんとするところの意味が理解できないところありで、まさに参考書として最適であると思う。一人ひとりが自問自答してみればいい。

 今、安倍政権のやっていることは、そのことを考えてどういう方法を取るかだと思います。私は正反対の方が良いと思いますが、つまり軍事力で中国の膨張を止 めようとするのは不可能だと思います。もっと違う方法を考えなければいけない、そのために私たちは平和憲法を作ったんだと思います。その考えは今も変わっ ていません。

概ね理解できる。先日、ある国際政治学者が「中国が核保有国であることを知らない日本人って意外と多いんです」と語っていた。中国相手に軍事力でどうにかなるとは思えない。では、どうするのか。おそらく、正解はない。

 もうひとつ、先ほどの、日本と中国の問題、共同声明について、私はあの侵略戦争は完全な間違いで、多大な損害を中国の人々に与えたことについて深く反省し ていると明言しなければならないと思っている人間です。これを政治的な駆け引きとして双方で何かごちゃごちゃやるのは良くない。あらゆる政治と関係なく、 この日本は長期に渡る、大陸における愚劣な行為について深く反省しなければいけないと思っています。それを忘れたがっている人ががいっぱいいることも知っ ていますが、忘れてはいけないことです。

主旨は理解できるのだが、具体的にどうすべきなのかが分からない。何年かごとに、あるいは毎年、首相が談話で詫びの言葉を述べるのか、靖国参拝を固辞し続ければいいのか、あるいは教科書で取り上げるべきなのか、先方が拒否するまで賠償をし続けるのか、などなど。結局、「総論賛成各論反対」で収拾がつかなくなるのがオチとしか思えない。

 社会の右側の端っこにいる島の人間たちで、平和に暮らせるはずの人間たちなんです。僕はそれだけです(笑)。
 日本人であるということは僕にはよくわかりません。わかりませんが、本当の必要な知恵は、世界の隅っこでひそやかにいようというのが一番正しいと僕は思っています。
 中国は膨張せざるを得ない内圧を持っています。それをどういう風に時間をかけてかわすか、というのが日本の最大の課題だと思います。答えになっていませんか(笑)?  

これには共感する。本来ならアジアの精神の支柱たるべき中華人民共和国という国は、ドラえもんのジャイアンのような存在になってしまっている。監督は、日本がなだめる役を担えと言っているようにも思える。歴史の皮肉というべきか。これは日本国民の在り方が問われる大きなテーマになる。

 ましてですね、沖縄をなんのために基地にするかと言ったら、それは中国の封じ込めの最前線でしょ。だけどなぜアメリカがグアムに海兵隊を持って行こうとし ているかといったら、それは最前線に最強部隊を置くことはできないでしょう。だって、パールハーバーもクラークフィールドも、そこに最強の基地があったか ら日本海軍が攻撃したんです。必ずそういうことになりますから。沖縄を拠点にすることは、もはやアメリカの戦略でもよくないことになっていると思いま す。ベトナム戦争の時とは違うんです。

これは、今の常識ではない。しかし、我々もこのぐらいの見識を持つ必要があると考える。どの国も自分が一番なのである。自国を含め、全ての国を過大評価も過小評価もしてはならない。

この会見で、一つ違和感を覚えたのは「安倍首相は、自分は憲法の解釈を変えた偉大な男として歴史に残りたいと思っているんだと思いますが、愚劣なことだと思っています」と語っているところだ。個人的にはこれはあまりにも単純で乱暴な考え方に思う。首相の胸の奥に、そのような願望があるかもしれないことは想像できる。ただそれが全てというような単純な人間ではないと思いたい。

じぶんのことを考えてみれば分かることだが、おそらく、どんな人の心も複雑な色の心情模様が描かれている。無論、一国の指導者たる立場にある人間は一般人よりも強い精神の持ち主であることが期待される。しかし、それは安倍首相ひとりの問題ではなく、全ての国の指導者に言えることだろう。できれば、全ての国の指導者対するメッセージにしてほしかった。

安保法案の今後の経緯は以下のようになると思われる。
安保法案の今後

この間、賛成者も反対者も ”国を守る” ということの意味を熟慮する期間にすべきと考える。それは、この安保法案だけの問題ではないはずだ。じぶんと同世代の夫婦が集会に参加し、「戦争反対」のプラカードを掲げているのを見た。この法案が廃案になれば戦争が回避されると信じている心情は、幼児のように、あまりにもナイーブに過ぎると思わざるをえない。

記念艦「三笠」を訪問する

  • 2015.06.25 Thursday
  • 20:50
先週、息子たちが、私ども夫婦(二人とも6月生まれ)の誕生祝いを横浜の中華街でやってくれた。当日はそのまま横浜に一泊して、翌日、横須賀の三笠公園に向かった。30代の半ばに司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読み終えた頃から、機会があれば、記念艦「三笠」を訪れてみたいと思っていたのだが、やっと念願がかなった。

記念艦三笠
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/

東郷平八郎像を前にした「三笠」を目にしたとき、よく遺せたものだと感慨深かった。旧日本海軍の軍艦で、現在残っているのは「三笠」だけかもしれない。少し前、戦艦「武蔵」の生映像が話題になったが、「大和」も「武蔵」も今は深い海の底だ。

『坂の上の雲』は歴史小説だ。勿論、著者が豊富な取材と資料に基づいて書かれたものであるにしても、一人の作家が紡ぎだした物語であることには違いない。よって、史実と異なる表現があるかもしれない。と言うより、唯一絶対の史実(事実)などは想像し難く、人により資料の解読の仕方も異なるだろうし、特に人の心の中の話になると、歴史学者、作家などの想像力に頼るところが大なのは致し方がない。

宇宙から見える人工物は万里の長城だけだったという話は有名だが、人類の遺産として最後まで残るのは、ピラミッドなど自然の鉱物で作られたものだけかもしれないと思ったりする。しかし、少なくとも、歴史の遺産として残された人工物の存在のインパクトが大きいことは間違いない。「三笠」は本物の歴史遺産である。

「三笠」は明治35年、イギリスのヴィッカース造船所で竣工した。明治38年5月27日、28日の日本海海戦で旗艦を務め、ロシアのバルチック艦隊を撃破し、日露戦争を勝利に導いたという話はあまりにも有名だ。この勝利が他のアジア諸国ばかりではなく、西欧諸国にも強い影響を与えたことは歴史的事実である。

個人的には、好むと好まざるとに関わらず、国民の総意とも言うべき力が富国強兵という国の方針を支えたという事実に驚愕する。 『坂の上の雲』の冒頭の文「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている」にあるように、西欧の列強に比べれば本当にひ弱な共同体であったに違いない。

先月は、世界遺産「富岡製糸場」を見てきた。今見ても斬新に見える木材とレンガを組み合わせた建物群には感心する。自動繰糸機は昭和62年の操業停止まで稼働していたという最新のものしか見ることが出来ないのは残念だが、この製糸場に始まった生糸の生産が国内に広がり、後に女工哀史に語られる劣悪な労働環境もありながら、数少ない外貨を稼ぐ製品として国を支えたことを思うと、現在の日本と比べ今昔の感がぬぐえない。

富岡製糸場
http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html


「三笠」を建造するのにどれだけの生糸を必要としたのだろう、と思うと気が遠くなる。日清・日露戦争を回避できなかったのかという問いに、じぶんは答えることができない。しなしながら、時の指導者たちの心情はまるで綱渡りを目の前にした者のようであったろうことは推測できる。バルチック艦隊との会戦に際し掲げられたZ旗はそんなことを物語っているような気がする。

元々Z旗は国際信号旗で固有の意味を持つが、アルファベット終わりの文字で ”後がない” の意味を込め、日本海軍は「皇国の興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」の信号旗とZ旗して使用した。

これは単なる檄文ではなく、日本軍幹部の本音だったのではないか。本当に国の存亡をかけた戦争だったのではないか。少なくとも当事者たちの深層心理はそうであったと推測する。

繰り返しになるが、じぶんに彼の戦争の正誤を判断することはできない。内心、このことは多数派ではないかと想像しているのだが、じぶんはこの明治期の国体と国民を理解する上で、司馬遼太郎著『坂の上の雲』によるところが大きい。前に記したように本書は歴史書ではなく小説である。作者の歴史観というバイアスがかかっているのは言うまでもない。

小説『坂の上の雲』とは異なる視点があることを前提にした上で、今、じぶんの明治期に対する歴史観を変えるつもりはない。しかし、その明治期の歴史観を無条件で肯定するつもりもない。この小さな国が明治期に開化を成し遂げ、紆余曲折の末に昭和の敗戦を迎えることになった。その原点が明治期にあったのかもしれないことを否定することはできないのである。

しかし、時代の変動期に、どの道を選択をするかというのは単純な正悪論で埒が明くものではないことも確かだ。かつて、それぞれの指導者の決断の背後にはそれ相応の覚悟があったはずである。この覚悟を伴わない決断にはそもそも意味がない。このことは時代が移っても変わることはない。

今、安保法案が世間を騒がせている。それぞれ支持論、反対論が声高に叫ばれている。しかし、ほとんどの国民は、戦争することには反対に決まっている。このことはこの法案の支持者も反対者も同じだろう。また、支持者が好戦家で反対者が平和愛好家ということでもない。このことは議論の大前提でなければならないだろう。

所詮、どっちの道を選んでも、良いとこ取りですむわけがない。どちらにしても、清濁併せ呑む覚悟がいるのである。「三笠」はそのことを教えてくれる。イフとして、日露戦争が無かった歴史、日本がロシアに敗れる歴史もあったろう。しかし、どの歴史にも別の艱難辛苦が待ち構えていたであろうと想像する。

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