言葉の進化と今

  • 2017.11.13 Monday
  • 15:16

他所でTV番組の音声が聞こえる。バラエティ番組でゲストの語りに反応する出演仲間たちのヘーッという言葉が聞こえてくる。番組を盛り上げようとする意図がなのだろうが、それがデフォルメされてヘーッ、ヘーッ、ヘーッと連発して聞こえると耳触りになってくる。また別の日に他の番組では、ゴリラがフッフッと鼻を鳴らすような発声をすることがあるが、これは敵対心がないことを伝えようとするものだと解説していた。

 

なるほど、ヘーッもフッフッも仲間とのコミュニケーション手段なんだと気がついた。そもそも言葉の始まりはと考えれば、仲間に危機を伝えるための、あるいは外敵を威嚇するための奇声だったのではないかと想像する。そう考えると、ヘーッやフッフッはキャー(奇声)に比べてより言葉の進化の過程を経たものであるように思えてくる。

 

とは言え、ヘーッやフッフッも言葉の進化の歴史の中ではかなり初期の段階のものに違いない。これに対して、このことはじぶんも今まではっきりと認識してはいなかったのだが、論理性が言葉の進化の過程で最後発の機能ではないかということが脳裏を過ぎった。

 

言葉は文字(記号)の発明によって論理性の進化を早め、その機能を拡大してきたと推察される。そして論理学という学問分野が形成されるまでにいたったわけだが、個人的に論理と言えば数学がその象徴である。そして、じぶんの数学に対する関心がこの論理性にあることを再認識できた。さらに、言葉が論理性を持つようになったのはどの時代なのかという興味もあるが、論理性そのものが明確に定義されるようなものでないことも改めて認識した。

 

論理性は自然の中に完成した形で在る、と青年期までは思っていたが歳を重ねるごとに曖昧になり、今は論理性も科学性も自然の中にあるものではなく、別途の情報空間の中に在るものではないかと考えるようになった。そして人間は、時に、その論理性、科学性を自然・社会現象を測る物差しとして利用するという幸運に恵まれたのである。

 

どっちにしても、言葉の持つ論理性とは本来の言葉の機能を超越した甚だ抽象的な特性なのである。そして今、我々が使う言葉はヘーッとフッフッに象徴されるような旧機能と数学に象徴される新機能(論理性)が合わさったものになっている。しかし見るところ、論理性は普遍性はあるが対象になる範囲が限定的で理解が困難なため、普段に使われる言葉は大半が脅かす、宥める、おもねる等の旧機能の特性を多用したものになっている。

 

一方、言葉を使う者には自分の言動に論理的裏付けがあるという思いこみがある。この一年、主にネットによる情報で、政治家を含む言論人・メディアのコメンテーターなどの言動を見てきたが、結局は、自作の物語で受取る側の好き嫌いを煽り扇動しようとするだけなのである。しかし、これが言葉が持つ本来の特性なのだと知るべきことでもある。

 

物語には人を動かす力がある。それは人を勇気づけるというような側面ばかりではなく、不可思議なことではあるが、物語に書いてある事を実現させるために行動するという動機づけをしてしまうことも否定できないのである。

参照: 東日本大震災は人工地震だった? (2011/04/30)

 

しかしながら、社会の変化と共に判断を論理に委ねた方がよいケースが増えているのは確かだ。しかし、情動のざわめきの中でこのことに気づくことの困難さは計り知れない。そして又、このことによる社会的損失の大きさも計り知れないのである。取りあえずアカデミックな話は置くとして、我々が論理性をいかに身につけるかということは社会的に重要な課題なのである。

 

   wikipedia

 

 

 

 

 

 

パターン・ランゲージという言語のかたち

  • 2017.04.06 Thursday
  • 21:48

井庭嵩著・編集『パターン・ランゲージ:想像的な未来を創るための言語』( 慶應義塾大学出版会 )

 

本書は3年前に購入したままになっていた本である。当時iTunes_Uで、慶應義塾大学SFCの一部の講座が視聴できた。いろいろと事情があるのだろうが、現在はほどんど更新されていない状態だ。大変残念に思う。SFCの興味あるコンテンツの一つが井庭嵩氏の「パターン・ランゲージ」の講義だった。井庭嵩氏は慶應義塾大学SFC総合政策学部准教授で「パターン・ランゲージ」をテーマとした講義を担当していた(いる)。

 

人間が創出するものの中で、言葉(言語)、音楽、絵ほど興味深いものはない。これらを無くしては他のすべての創作も無に帰するのではないかと思えるほどだ。特に言葉(言語)の意味はとてつもなく大きい。もしじぶんが言葉を使えなかったとしたらという仮定すら想像できない。しかも、視聴覚を前提としない言語活動が在ることをヘレン・ケラーは証明している。実に不思議である。じぶんの人生を考えてみても、”人生=言語活動” と言っても過言ではない。

 

地デジ番組に縁遠くなり、家ではよくアメリカのネット・ニュースを見る(流している)。困るのは英語なので話されている内容がほとんど分からないことである。しかし、それでは日本語のニュースはどうかと考えれば、英語とは違って分かった気になれるということである。今は、日本語と英語のニュースの違いは分かった気になれるか否かということではないかとすら思っている。

 

しかし、言葉(言語)にとってこの分かった気がすること(理解&誤解)が大きな意味を持つ。なぜなら、これで人、社会が活動を始めるからである。しかしながら、社会の複雑化が増すにつれ、自然言語のやり取りだけでは対応しきれなくなってきているのが現状ではないか、というのがじぶんの認識である。

 

個人的な見解だが、「パターン・ランゲージ」は、このような社会状況を背景に自然言語の再定義の必要性を問うているのではないかと推測する。

 

 パターン・ランゲージは、1970年代に建築の分野で、クリストファー・アレグザンダーという建築家によって考案された。彼は、住民参加型の町づくり・住まいづくりを実現するためには、建築家が持っているデザイン(設計)の知を、住民と共有しなければならないと考えた。そこで、質感があり、美しく、いきいきとした町や建物を生み出すための秘訣を、253の「パターン」として記述し、それらを関係づけ体系化した「パターン・ランゲージ」を生み出した。

 

後に「パターン・ランゲージ」の手法はソフトウェア・デザインの分野に応用されるようになった。著者等はさらに、「パターン・ランゲージ」を人間の行為そのもの、学び、教育、プレゼンテーション、コラボレーション、組織変革、政策デザイン等にまで進化させようと試みてきた。

 

パターン・ランゲージでは、デザインにおける多様な経験則をパターンという単位にまとめる。パターンには、デザインにおける「問題」と、その「解決」の発想が一対となって記述され、それに名前が付けられる。パターン・ランゲージの利用者は、自らの状況に応じてパターンを選び、そこに記述されている抽象的な解決方法を、自分なりに具体化して実践する。

参考:井庭研究室「ラーニング・パターン

 

本書では、建築、情報、ソフトウェア、政策のプロである中埜博、江渡浩一郎、中西泰人、竹中平蔵、羽生田栄一との対談、鼎談で「パターン・ランゲージ」の活用について議論されている。しかし、本書の内容を実感を伴った理解まで達するのは困難だ。やはり何らかの実体験/実践が不可欠であり、読んで理解するというのは甚だ難しいという印象を持った。

 

しかながら、じぶんは、「問題」と「解決」の発想の一対の記述に名前がつくというパターンの形にずっと強い興味をもってきた。今、新聞、雑誌、TV等のマスメディアの中では、刺激的な短フレーズの言葉−キャッチコピー−が乱れ飛ぶ。CMはともかくとしても、社会的事象でその真偽などは二の次で心的インパクトのみが強調されるような見出しのあり方などを見聞きするにつけ、不安な想いにかられるのである。

 

せめて、社会的課題の解決にはもっと真摯に取り組んで欲しいと切実に願う。しかし、それには自然言語というツールだけでは力不足なのだろうと考える。新しい言語のかたち、「パターン・ランゲージ」のような新しい言語体系が必要なのだと思うのである。

 

日本の文学界には、5・7・5の17文字で千文字の随想に負けない表現力を有する俳句がある。社会活動にここまでの高尚さは不必要かもしれないが、現状ではあまりに低俗な表現が多すぎると思わざるをえない。そういう意味で、著者等の研究/活動に期待するところ大なのである。そして、これはこの国だけの問題だけではなく他の多くの国でも事情は同じであろうと考えられる。

 

関連投稿: やはり、経済は複雑系? (2013/04/11)

 


 

パターン・ランゲージ_創造的な未来をつくるための言語

2013年10月 慶應義塾大学出版会発行(amazon

 

著者 井庭 崇

慶應義塾大学総合政策学部准教授

1974年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業後、同大学大学院政策・メディア研究科博士課程修了。博士(政策・メディア)。千葉商科大学政策情報学部専任教員、マサチューセッツ工科大学素ローン経営大学院客員研究員等を経て、現職。

 

 

 

されど統計学!

  • 2017.01.16 Monday
  • 20:46

長沼伸一郎著『経済数学の直感的方法 確率・統計編』(ブルーバックス)

 

昨年、東京まで出かけたのは二回で、二回目の時に東京駅前の書店で買い求めたのが本書だ。昨年から読み始め、途中で振り出しに戻って改めて読み始め、明けて松の内の過ぎて読み終わった。読み終わったとは言え理解にはほど遠いのが実情だ。前著『物理数学の直感的方法』は知っていた。関心はあったが未だ読んではいない。

 

著者の名前は何処で知ったのだろうか、はっきり思い出せない。雑誌かPodcastか、まだ著書を読んだことはなかった。ただ気になる人物の一人であったこと確かだ。なぜこの本を買ってしまったのかと言えば、まず書店で目につくところにあったのと、著者名、そして経済と数学というワードである。これだけ条件がそろえばつい手が出てしまう。

 

本書は『経済数学の直感的方法 マクロ経済学編』の姉妹書ようで、書店でも双方が展示されていた。どっちから読むのがいいか迷ったあげくに確率・統計編を選んだ。今から思えば二冊手にいれてしまえば良かったのだが、他に買いたいモノもあり一冊にしてしまった。

 

経済学も統計学も個人的に興味があるのだが、どちらも理解度が進まないという共通点がある。本書はこの双方がテーマなのだからやっかいだ。と言うより、経済と確率統計は元来深く関わり切り離せないものと考える方が適切なのかもしれない。著者も序文で、経済学(特にブラック・ショールズ理論)をネタにして確率統計を根本的に学び直してほしいと書いている。確率統計をツールに経済を読み解くのが目的かと思えば、著者は逆のことを提唱するのである。

 

じぶんにとって、経済学と確率統計学についての新しい視点である。どちらかと言えば、一般的に経済学に比して確率統計の方がツールという印象があると思うのだが、著者にはそのような常識はなさそうだ。経済から確率統計を読み解くというベクトルも有りということだ。一つ鱗が落ちた。

 

「最後に−確率統計」の項で、著者は本書を総括している。標準偏差、確率過程、ブラック・ショールズ理論、確率微分方程式のはなしの中で、著者が一貫して主張しているのは「この世界の誤差やばらつきは2つの部分、つまり一定方向のバイアス部分と、±両方向にランダムに現れる部分の2つで構成されている」というこである。

 

著者は次のように言う。数学者ガウスによって、後者「±両方向にランダムに現れる部分」が正規分布という ”神秘的な深み” をもっていると同時に ”適度の難しさ” を持った形で表現できることが発見された。そしてこれが後の統計学の発展を決定づけた。著者はこれを「神の指紋あり」と表現する。

 

本書で、標準偏差σが正規分布曲線の変曲点と中心線との幅であることを初めて知った。今まで変曲点など意識すらしなかった。直感的に、変曲点の幅が分布のばらつきを測るには適切だという感じはする。標準偏差にこんな意味合いがあったとは全く認識していなかった。

変曲点:平面上の曲線で曲がる方向が変わるのこと。 幾何学的にいえば、曲線上で曲率の符号(プラス・マイナス)が変化する(このでは0となる)をいう。 これは幾何学的または解析学的に、次の各定義と同値である。 そのにおける接線が曲線自体と交差する

 

 

このあたりの件だけでも、本書を手に入れた価値があったと思える。意識するか否かは別として、この世の中のあらゆることに誤差やばらつきはつきまとう。この誤差やばらつきの世界に科学的に介入するための手段が確率統計であり、さらに経済学、物理学であると言えるのだろう。

 

個人的には、自然界と人工的な経済界に同じ確率統計の論理が当てはまることは概ね理解していると思っている。しかしながら、著者が例え話として分子の運動や金融資産の変動などの話などを自由に行ったり来たりする有り様を読んでいると、じぶんの心がちょっと混乱するのを感じる。

 

 冒頭でも述べたが、一般に理系の人間でも確率統計の話は、宇宙の神秘から遠い単なるトリミング技術として敬遠し、そのため確率微分方程式についても、面倒なだけの理論として学ばないまま一生を終えてしまう人が少なくない。しかし上までの話を読まれた読者は、ここにも意外にそうした神秘性を背後に感じさせる話がちゃんと含まれており、これを全く知らずに一生を終えるのは、理系人間としては如何にも勿体ないということをご理解されたのではあるまいか。

 

物理学者の著者が、あるがままの自然界にではなく人工的な経済界の中に見いだした確率統計的な神秘性、これこそじぶんも実感してみたいと思うことなのだが、残念ながらまだまだ距離がありそうだ。じぶんがブラック・ショールズ理論を解説しようとする文を読んだのはこれが初めてだ。所謂「オプション」と称される金融サービスと関連しており、企業はランダムな世界でも物事の連動性に注目して適切に取捨選択することにより、恒常的にプラスの収益を上げ続け得ることができるという提唱だ。

 

著者は、この理論の背景にある神秘性が一部の先鋭的な専門家だけではなく、人類全体に寄与しうると考えているように思われる。表現を変えれば、叫ばれる「資本主義の終焉」に対するアンチテーゼなのである。じぶんにはこのことの妥当性を判断する力はない。

 

しかしながら、確率統計の論理を自然現象、社会現象の読み解きではなく、「経済システムの創造」のために使うという考え方は、ゲーム理論に近いような印象もあるが、じぶんにとってとても新鮮な感覚である。このような考え方が「思想」として社会に波及することになるならば、この思想がエネルギーとなって斬新な経済システムが誕生することも夢でないだろう。

 

物理界では、かつてアインシュタインの E=mc² という思想が起動して原子爆弾を生み出してしまった。歴史には時にこんなアイロニーが付きまとう。著者の提唱する思想にもそのリスクがないとは言えない。しかし、社会に与えるプラスの側面を強く志向していけば社会の進化に多大な寄与ができるはずと期待したい。

 


 

経済数学の直感的方法 確率・統計編

講談社(ブルーバックス:amazon

2016年11月発行

 

著者 長沼伸一郎

1961年東京生まれ。1983年早稲田大学理工学部応用物理学科(数理物理)卒業、1985年同大学院中退。1987年、『物理数学の直感的方法』の出版により、理系世界に一躍名を知られる。「パスファインダー物理学チーム」代表。著書に『経済数学の直感的方法 マクロ経済学編』『物理数学の直感的方法普及版』『一般相対性理論の直感的方法』『無形化世界の力学と戦略』『ステルス・デザインの方法』等がある。

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新しい数学の見方(補足)

  • 2016.10.25 Tuesday
  • 22:08

前々回、森田真生著『数学する身体』で、著者の岡潔から始まった数学行脚の旅が、結局、岡潔とアラン・チューリングに辿り着くという話を書いた。これはこれで興味深くまだまだ先のある物語になると思われるが、本書の始めに書かれてあったいくつかの逸話も劣らず重要であることを思い出した。

 

第一章 数学する身体、本のタイトルと同名の章となっている。中でも ” 脳から漏れ出す ” ” 行為としての数学 ” ”天命を反転する” と表題のついた話には惹き付けられる。特に ” 脳から漏れ出す ” という話。

 

自然界の進化の仕組みから着想を得た「人工進化」というアルゴリズムがある。多くの場合、コンピューターの中の仮想的なエージェントを進化させるプログラムのことである。ある研究グループが「異なる音程の二つのブザーを聞き分ける」チップの設計を「人工進化」の手法だけで試みた。

 

結果として、およそ四千世代の進化の後で目的に適うチップを得ることができたという。だが、そのチップは、人間が設計する場合に必要な論理ブロック100個のうち37個しか使っていなかった。しかも、37個のうち5個のブロックは他のブロックと繋がっていない孤立したブロックだったのだが、これらのどのブロックを取り除いても回路は機能しなかったという。

 

つまり、人間の論理では不要なブロックなのだが、このチップ上では何らかの役割を果たしていることになる。調査の結果判明したことに驚く。このチップ回路は、タスクを達成するために電磁的な漏出や磁束を利用していたというのである。デジタル情報だけではなく、結果的にアナログの伝達経路をも組み込んだ設計がなされていたということである。

 

 物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりした境界はないのだ。”Whatever Works” というウッディ・アレンの映画があるが、物理世界の中を必死で生き残ろうとするシステムにとっては、まさに Whatever Works 、うまくいくなら何でもありなのである。

 

著者は、ともすると思考のリソースは頭蓋骨の中の脳みそで身体の外側はノイズである、考えられがちだがそれは間違いではないかと言う。問題解決のリソースは身体や環境に沁み出している。じぶんはこの著者の提唱に驚愕する。と同時に ”そうだよね!” と納得する面もあるのである。脳が重要な役割を担っていることは間違いないのだろうが、身体なくして脳が機能するのだろうかというのは、じぶんの長年の疑問である。故に、脳が作り出した論理もまた限定的なものではないかと推測するのである。

 

じぶんは、論理が作り上げることができるのはある種の文様ではないかと思っている。そして、その文様は時に実世界(物理世界)が生み出す文様と一致することがある。これは禅問答か?。じぶんも明快に認識できていない証拠だが、しかし思考は脳のみならず身体をも、さらに環境をも巻き込んだ行為であるというのは実に興味深く愉快な話である。

 

著者がこのような事象に興味を持ったのは、2011年に東大駒場キャンパスで開催された哲学者アンディ・クラークの講演がきっかけであったと語っている。じぶんはアンディ・クラークが認知科学における世界的第一人者と知り、認知科学を Wikipedia で調べてみてアッと思った。

 

  • 心理学 - 認知心理学 - 進化心理学 - 文化心理学
  • 人工知能 - ニューラルネット - コネクショニズム - 計算機科学
  • 言語学 - 心理言語学 - 生成文法 - 認知言語学
  • 人類学 - 認知人類学 - 認知考古学
  • 神経科学 - 認知神経科学 - 脳科学
  • 哲学 - 心の哲学 - 認識論

 

 

 

 

 

 

 

この図と一覧を見て、認知科学の対象が自分の関心範囲とほぼ同じであることを分かった。何かあるような予感と、判然としない感覚が入り混じったような気分だったのだが、少なくともこんな気分を晴らすことを目的とした学問分野があることを知って、ちょっと楽しい気分になってきた。

 

そして、無論のこと、数学者もこれらに無関心ではいられないはずなのである。少なくとも、森田真生はその一人のようだ。

新しい数学の見方

  • 2016.10.16 Sunday
  • 15:27

森田真生『数学する身体』(新潮社)

 

時折、若い世代の著書に感動させられる。今回の著者 森田真生(もりたまさお)氏にも感動した。じぶんも数学という学問(概念)に高校生の頃から興味を覚え、爺の年代になってもまだその関心は続いている。と言うわけで、書店で「××数学」とか「数学××」とかのタイトルを見ると、取り敢えず目に留まる。

 

今回のタイトルは「数学」の他にもう一つ関心のあるキーワード「身体」が入っていたのでダブルで引力が働いた。そして読んで感動した。終わりにサプライズというおまけまで付いていた。じぶんの読書量などは読書家に比べたら無いにも等しいほど貧弱だが、それでもこんな数学の本は本当に稀なのではないかという予感がある。

 

著者は大学に入学して文系の学部に所属していたが、ふとした縁で数学者・岡潔の『日本のこころ』に出合う。岡潔の言葉を読んで、著者は高校時代に熱中していたバスケットボールの日々を思い出す。著者は勝ち負けよりも、無心で没頭しているときに、試合の「流れ」と一体化してしまう感覚が好きだったという。

 

 岡潔にとって数学とは全心身を捧げた行為であり、頭で理屈を捏ねることでも、小手先の計算を振り回すことでもなく、生命を集注して数学的思考の「流れ」になりきることに、この人は無上の喜びを感じていることが伝わってきた。(省略)

 「数学」と「身体」、とてつもなくかけ離れて見えるこの二つの世界が、実はどこか深くで交わっているのではないか。その交わる場所を、この目で確かめたいと思った。ならば、数学の道へ分け入るしかない。

 

私はこれで数学を学ぶ決心をした、と著者は語る。この後の学生生活はまるで修行僧のようであったのではないかと想像してしまう。巻末の著者プロフィールがそれを物語っているように思える。肩書きに「独立研究者」とあり、これだけでビビッとくる。こんな若いのに・・・、何という人生を歩もうとしているのだろうか。

 

じぶんの数学に対する関心は、計算や数式を解くことよりもその考え方(概念)にあった。興味のきっかけは微積分の「無限」の概念だった。それまで全くじぶんの中に無いものだったのである。有限の線分の中にある無限の点?、などは通常は心に無いものだ。じぶんは、こんなものを生み出してしまう数学が不思議でならず、そしてその世界に興味を持った。

 

一方、道具としての数学というものがあり、社会に科学・技術の発展をもたらした。また、学校制度の中に取り入れられ、学科としての数学が確立されていく。この時、学校に導入されたものは、社会の要請もあったかもしれないが、道具としての数学だったと思う。計算力が評価されていくのは当然の成り行きだった。こうして、数学は学生評価の指標として、入試を計る道具としての役割を担うようになっていく。

 

しかし、著者の数学への取組みは全く異質のものであったと想像する。無論、数学者を目指すに必要な一般教養としての数学全般に対する学習に奮闘努力したとは思うが、著者の場合初めから特有の見方を持って取り組んだと思われるのである。

 

 数学では、まず1があり、それに2が続くけれど、人間の一生のはじまりにおいては、2と1が同時に到来する。

 人はやがて世界に向かって、言葉を発するようになる。昼と夜が区別され、嬉しいと悲しいが分離され、こことあそこが呼び分けられるようになる。

 言葉はまた言葉を生み、差異がまた新たな差異を生む。こうして、世界の文節化は、留まるところを知らずに進む。

 あるとき人は、数を数えはじめるようになった。

 1,2,3,4,5,6,7,・・・・・

 数は、無限の差異に、名前を与える。

 

本書の始まりのページに書かれている言葉だ。こういうところから数学を始める人っているだろうか。しかし、今のじぶんはこういう言葉に敏感だ。じぶんは少年の頃からずっと数学を絶対的な構造を持った聖殿だと思っていた。しかし、歳とともに「ちょっと違うんじゃないかな?」と感じるようになってきたのである。

 

著者が数学への道を進むきっかけとなった数学者・岡潔は数学を「情緒」で表現しようとしたいう。何か禅問答のようにも感じられるが、全身で数学を生きようとした証であり、著者もそこに惹かれたのだと思う。なぜ著者が岡潔の言葉に惹かれたのかは「あとがき」を読んでで判明した。

 

著者は、「数字」は道具として作られ、世界の主要な地域で、そして時間を超えて研かれ、相互に依存しあう道具のネットワークである「道具の生態系」が形作られてきたと見る。道具としての「数字」が洗練されてくると、それをますます使い易くするために、新たな道具や技術が開発される。そして数学が誕生した。

 

著者の数学歴史の解析は、古代ギリシャの論証数学、近代ヨーロッパの代数計算、ヒルベルトの現代数学へと展開され、終わりにアラン・チューリングと岡潔に辿り着く。じぶんは、数学の流れの果てにこの二人に流れ着いたというのは、著者特有の資質の所為であろと考える。著者自身も、この二人を同じ一冊の本で扱った本はこれまでなかったのではないかと書いている。

 

個人的には、アラン・チューリングはコンピューターの原理を提唱した人物として、岡潔は日本の著名な数学者ぐらいのの認識しかなかった。また、2〜3年前からコンピューターと数学の関連について関心を持ち始めて、アラン・チューリングを数学者として意識し始めたのはごく最近であり、本書を読んで尚その意識が強くなった。

 

 そもそも物理学が描くように、人間もまた自然法則に従う一つの「機械」に過ぎないのだとしたら、どうしてそこに自由な意志を持つ「魂」が宿るのか。意志や魂という概念を、どうすれば物理的世界の科学的な記述と調和させることができるのか。「心」の世界と「物」の世界の折り合いは、いかにしてつけられるのか。こうした一連の問いが、次第に彼の頭を支配していく。

 

著者が少年期のアラン・チューリングの心を推察した文章である。科学少年アラン・チューリングを数学(数理論理学)の道へと変えたものは何だったのか。著者は、チューリングが ” 計算や証明による記号の操作を「心」の問題に関連づける ” という当時としては独創的な視点を持っていたことがその誘因ではなかったかと推測する。

 

人の心の本質を科学的に理解したいと願ったチューリングは、ヒルベルト流の「数理論理学」の世界に惹かれた。こうして、チューリングは計算や論理についての原理的な考察によって、マシンから心へと迫る道筋を目指すことになる。

 

まず、チューリングは計算する人間の振る舞いをモデルとした仮想的な機械(「チューリング・マシン」)を考えた。マシンにはマス目に区切られたテープが搭載されていて、マシンはそのテープに記号を書いたり、消したり、テープを左右に移動させたりする。チューリングは、計算者(「コンピューター」)ができるいかなる計算も、原理的にこのマシンによって実現できると考えた。現在のディジタル・コンピューターの原理である。

 

 チューリングはその数を人間の身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりではなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピュータの理論的礎石が打ち立てられた。

 

その一方で、チューリングは人間の直感やひらめきなどチューリング・マシンの動作に還元できない要素があることも示唆していた。さらに、チューリングは有名なドイツ軍の暗号「エニグマ」の解読に成功した後に「機械の知能」を論じたテキストを同僚たちに配布している。著者はこれが「人工知能」に関する世界初の論文ではないかと考えている。

 

コンピューターは数学の申し子、これは今のじぶんの想いだが、著者の想いもこれに近いのではないか?と勝手に想像する。著者は、数学者は自らの活動の空間を「建築」するのだ、と表現する。私見だが、コンピューターは歴史上もっとも数学的なアーキテクチャーと言えるのはないだろうか。そして、コンピューターは人間の数学的思考の賜だが、かつ自ら数学する機能をも内包するようになるのだろかということが問われている(この表現はじぶんでも曖昧だなぁと感じるのだが)。これはAI問題につながるはずだ。

 

著者が思索したもう一つ別の数学的思考の道がある。それが岡潔が目指したものであり、おそらく著者が目指そうとしているものかもしれない。ただ、著者はアラン・チューリングの目指したものをも俯瞰できる視点にいるという強み?がある。岡潔は1929年にフランスに国費留学している。初めは異国の文化を存分に楽しんだようだが、1931年の満州事変あたりから何か欠乏感に襲われ、日本から『芭蕉七部集』『芭蕉連句集』『芭蕉遺語集』を取り寄せ熱心に読むようになったという。

 

岡は帰国して広島文理科大学に赴任するが、1938年に休職して、妻と二人の子どもと共に両親の住む和歌山県紀見村に移る。この後およそ十三年にわたり、畑仕事と数学三昧の日々を過ごしたというのだから驚く。

 

「小川のせせらぎを構成する水滴の描く流線や速度は、いずれも重力その他の自然法則によって決定されている。しかし、その水滴の運動を人間が計算しようと思えば、厄介な非線形の偏微分方程式を解く必要がある。ある程度の近似を許したとしても、現実的な時間内でそれを正確に解くことは難しい。にもかかわらず、小川の水は流れている。これはいかにも不思議である」(岡潔)

 

これは俳人の目線のようにも思える。フランス留学中に芭蕉の句集を熱心に読んでいたという話が想起される。これを著者は次のように解説する。

 

 自然は、人間やコンピュータによる「計算」とは違う方法で、しかもそれよりも遥かに効率的な方法で、同じ「結果」を導出してしまう場合がある。そもそも紙と鉛筆を使った「計算」も、紙や鉛筆の持つ物理的な性質に依存いているし、紙を使おうが、コンピュータを使おうが、計算というのは自然現象の振る舞いの安定性に支えられている。自然現象をある目的に沿って、部分的に切り出すことで計算は成り立っているのだ。そういう意味で自然界には、常に膨大な計算の可能性が潜在している。

 

自然環境そのものが、どんな計算機よりも潤沢な「計算資源」の役割を果たす、という著者の言葉に息をのむ。そうなのである。じぶんも以前、完全に自然をシミュレーションできるコンピューターがあると仮定したら、それは自然そのものではないかと妄想したことがあった。人間は自然を創れるのか、人間は心(人間)創れるのかという課題に通じるテーマである。

 

 記号的な計算は、数学的思考を支える主要な手段の一つであることは間違いないが、数学的思考の大部分はむしろ、非記号的な、身体のレベルで行われているのではないか。だとすれば、その身体化された思考過程そのものの精度を上げる −岡の言葉を借りるなら「境地」を進める− ことが、ぜひとも必要ということになる。(省略)

 が、どんな優れたアルゴリズムよりも、芭蕉が句境を把握する速度は迅速だ。

 芭蕉の句は「生きた自然の一片がそのままとらえられている」ような気がする、と彼は言う。

 

本当は身体が一番優秀な計算機(コンピューター)なのかもしれない。「あとがき」で、著者の記述に驚くと同時に納得した。著者は、中学二年生のときに、武術家・甲野善紀氏の「身体的知性」を知ったと言うのである。じぶんも当ブログで何度も甲野氏のことを書いている。じぶんが甲野氏を著書で知ったのは三十年以上前であり、ワークショップなどで直接教えを受けてみたいと思いながら果たせずにきたことを今でも後悔している。

 

著者が岡潔に惹かれたこと、数学への道を歩み始めたこと、これらのことも甲野善紀という人物を介すると腑に落ちるのである。じぶんにとって森田真生という青年ははるかに年下だが、もしかしたらこの老体に何か力の水を与えてくれる人物かもしれないという感じがしている。今、本書の再読と別の著書も読んでみたいと思っている。

 


 

数学する身体

発行 2015年10月

   新潮社(amazon

 

著者 森田真生(もりたまさお)

1985年生まれ。独立研究者。

東京大学理学部数学科を卒業後、独立。

現在は京都に拠点を構え、在野で研究活動を続ける傍ら、全国各地で「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」など、ライブ活動を行っている。

公式ウェブサイト http://choreographlife.jp

 

プログラミングという表現方法

  • 2016.08.22 Monday
  • 14:14

清水亮著『実践としてのプログラミング講座』(中公新書ラクレ)

 

シクスティズ - 最後の年齢になって、今もっとも知的好奇心をそそるものは言語体系(Language)である。じぶんの認識では、母国語に代表される言葉だけではなく数学で使われる記号、電算機(コンピューター)のプログラミング言語なども言語体系に属する。そもそも、言語は{脳}を動かすOS(オペレーションシステム)?のようなものであると考えられる。

 

電算機は基本的に {脳} の働き(機能:目に見えない)をこの物理世界に具現化したものと言えるだろう。初め計算機能に特化した電卓も開発されたが、電算機はより汎用性の高い機器として進化したものである。かつては歯車式の計算機というものもあった。目に見えると言う意味では歯車式は効果的だが、効率という意味で後身の電子式に道を譲ることになる。この電子機器を稼働させているものがプログラミング言語である。

 

”{脳} と言葉 ” vs ” 電算機とプログラミング言語 ” という対比が成立する。しかし、言葉は {脳} が生み出したものだがプログラミング言語は電算機が作り出したものではない−すくなくとも今は。言葉もプログラミング言語も{脳}が 作り出した言語と考えていいはずだ。将来、最先端の電算機AIが自らを動かす言語をも生み出すことができるようになり得るのかどうかは、じぶんの想像力を超える。

 

じぶんは70年代の後半に初めてPC(パソコン)に触れた。まだ国内にほとんどPC教室が無かった頃のことである。Basicで動く米コモドール社のPCだった。二日間の教室で、初めて作ったプログラムは1×1から9×9までを計算して画面に表示させるというものだった。それだけでも感動した。後にNECのPC8001を手に入れ、雑誌に掲載してある色んなプログラムをタイプして、そのプログラムを稼働させて遊んだ。

 

それから二十年後位にインターネットが普及し始め、ウェブという仕組みが世界を覆うようになる。これに伴い、ウェブを機能させるための各種プログラミング言語やスクリプトが開発されていく。 じぶんの関心もスタンドアロンPCからネットへと興味が移っていった。 当然にこの頃は、スタンドアロンPCのアプリ(アプリケーションプログラム)は仕事用、娯楽用共に高度なものへと進化し、プログラミングは一部のプロたちに委ねられるものとなっていった。

 

さて本書だが、時折書店でこんな本を見つけると買ってしまうことがある。また、新たな目を開かせてくれる内容になっている。著者はプロのプログラマーだが、プログラミングは一般の人々の為のものでもあることを説いている。特に子どもたちの教育に有意に供することができるものと考えているようだ。これには共感する。

 

本書で、著者等が開発したMOONBlockを知った。ウェブで使えるのがミソで、JavaScriptがベースにあるようだがユーザーはそれを意識することなく、レゴのブロックを組み合わせるかのようにプログラミングができる。一見オモチャのように思えてしまうが、著者がサンプルとして紹介している「万有引力」(どんな確率で月が地球を周回できるようになったか)を理解するためのシミュレーションを見れば MOONBlock が子どもだましではないことが理解できる。

http://moonblock.jp/#s/56d6a2183ac431456906776 (run → START)

 

さらに、著者はウェブを学ぶためのツールとして、code9.leapやXAMPPを紹介している。特にXAMPPは自分のPCにサーバ機能を持たせてPHPやMySQLを学ぶのに便利なツールなのだが、10年ほど前にじぶんがトライしたころに比べると導入が本当に楽になってきている。 ますます環境は整ってきたということだ。

 

著者はプログラミングは料理に似ていると言う。記述されたプログラムはレシピで、先ずは料理を味わってから作り方に興味を持ったらレシピを読んで挑戦してくださいというわけである。著者は数々のサンプルプログラムを本書の中で紹介している。まず起動して味わってからその仕組みに興味を持ったら解読に取り組んでみてほしいと語る。

 

まったくその通りだと思う。一流のレストランに適わないが家庭料理にも意味はある。現代人は外食に頼りすぎであろう。手作りにもそれなりの意味があることを、著者は改めて認識させてくれているのかもしれない。著者の言うとおり、特に教育/学びのためにプログラミングは最強の教材かもしれないのだ。

 

ほとんどの学問は特有の論理構造を持っている。現代はコンピューターという電子機器が使える環境にあるので、誰もが関心のあるセオリーを表現、あるいは確認するためのプログラミングにトライすることができる。様々な論理空間を自分のPC、あるいはクラウドの中に作り上げることができる。以前は、自分の頭の中か、紙に記述するしか出来なかったことが、今はディスプレイ上でそれが機能することを確認できるのである。

 

このことは、さらに、論理空間が人工のものであることを確認できることに意味があると思う。つまり、プログラミングされた論理空間と自然空間(物理空間)とは全く異質のものであるということの認識である。どんな学問も自然(社会も一部自然的である)を直に表現することは不可能なのだ、とじぶんは思う。自然の中に様々な文様を見るだけなのである。

 

ますます複雑化?する未来社会において、その構成要員(人、機器など)間のコミュニケーションに言語体系(Language)が果たす役割はますます大きくなるものと想像する。じぶんは、人間は多様な言語を活用できるように進化しなければならない、と考えるのである。教育という面で、バイリンガルとプログラミングは突破口のひとつになり得るかもしれない。

 


 

実践としてのプログラミング講座

発行 2016年4月 中央公論新社(amazon

 

著者 清水 亮

1976年新潟県生まれ。株式会社UEI代表取締役社長兼CEO、株式会社ドワンゴ会長室第三課課長。電気通信大学在学中、米Microsoft Corpにて家庭用ゲーム機開発や技術動向の研究・教育に関わり、文部科学省の委託事業などを経た後、98年にドワンゴ入社。エグゼティブゲームディレクターとして携帯電話事業を立ち上げ、2002年に退社。CEDEC(ゲーム開発者向け技術交流会)設立などに関わり、03年より現職。04年度に独立行政法人情報処理推進機構(IPA)より天才プログラマー/スーパークリエイターとして認知され、05年より東京大学大学院情報学環履修生。08年〜10年九州大学大学院非常勤講師。著書に『教養としてのプログラミング講座』、『最速の仕事術はプログラマーが知っている』など。

 

数学という言語を活かす

  • 2016.07.21 Thursday
  • 20:45

苫米地英人著『数学嫌いの人のための すべてを可能にする数学脳のつくり方』(ビジネス社)

 

著者のプロフィールはいつも長大である。しかし嫌みを感じたことはない。著者_ドクター苫米地の場合はこの豊富な履歴にも意味があり、これが彼の個性形成に深く関わっていると感じるからである。よって、当ブログで ドクター苫米地の著書をテーマにする時はこの長大なプロフィールを嬉々として入力しながら、いつも著者はとんでもない人物だと再確認することになる。

 

今回の著書は、近頃、個人的に気になっている事柄に関わる内容の本である。それは数学を一つの言語として捉えるべきではないかというものである。そして、著者は本書でダイレクトにそのことを指摘している。さらに、数学(言語)は物理空間に在るものではなく情報空間に存在するものだと説く。この表現の仕方は著者独特のものだが、じぶんはこの考え方(流儀)に共感を覚える。 物理空間との間に一線を画す。 言ってしまえば、好みの考え方なのである。しかしながら、情報空間を単なる脳内現象と言い切ってしまうのには抵抗があり、何か良い方便(理論)はないものかと思うのである。

 

さて、著者は数学の本質が世間にほとんど理解されていないと嘆く。これが本書を著すことになった動機の一つと思われる。当然、その原因は学校教育に帰する。数学とは問題を解くことにあり。著者はこれが誤りであり、数学とは問題を見つけることにあり、と語る。これは全く一般の常識とは異なる提唱である。しかし米国など、特に大学では著者の考える数学教育がなされているという。

 

 数学は公式を覚えて数字を入れれば答えが出てくるもの。生徒もそう思っているだろうし、たぶん、数学の教師もそう思っている。答えを出すのが数学。そのために使うのが数式。つまり解法のための道具。これが日本における数学教育だろう。

 

著者は、数学は数式でもなければ、ましてや計算ではないと言う。そして、例としてフェルマーの最終定理をあげる。

n≧3のとき、
n+Yn=Zn
を満たす、自然数 X、Y、Zは存在しない

 

著者は、拍子抜けするくらい役にたたない、と揶揄する。しかし著者は、このコンテンツの根幹は ”「君たちはまだ知らないだろうけど、宇宙はこんな変わった世界なんだぜ」というのを最初に知ることができた歓喜なのである” と主張する。そして、360年後初めてこの定理の証明をしたのはアンドリュー・ワイルズという数学者なのだが、その証明は130ページの膨大な論文となった。しかし、この証明を理解できる数学者は世界に何人いるのだろうか。

 

現在、ピタゴラスの定理の証明は500ぐらいあると言われる。著者は証明が価値ある試行であることを認めつつ、「数学の神髄とは断じて問題を証明することではない」と断言する。フェルマーの最終定理も、将来、よりエレガントな証明が見つかる可能性が残されている。しかしながら、歴史的に遺っていく名前はピタゴラスでありフェルマーなのである。

 

 数学的思考で生きるとは、誰にも見えていない問題をいちはやく見つけて、いちはやく解く。できれば、一瞬で解いてしまうことだ。証明はあとでいい。

 (省略)

 仕事という宇宙、自分のゴールという宇宙、趣味という宇宙、お金の宇宙、現実世界の宇宙、それこそなんでもいい。その中でまだ誰も見つけていない真理をいち早く手に入れるのだ。

 数学はそのためにある。数学的思考はそのためだけに使うものなのだ。

 もし、この思考を手に入れることができれば、どのような問題だって解けるだろう。どんな夢もどんなゴールも自らの手にたぐり寄せることができるだろう。

 

著者の専門である自己啓発プログラムに乗せられているのでは、と一瞬考えてしまうほどだが、じぶんはそこまで危惧してはいない。何となくではあるが、著者の提唱していることが理解できるような気がするからである。言語で溢れかえるこの人間社会で、果して正しい使い方?というものがあるのかどうかは分からないが、今少し言語体系が整理されれば随分と生きやすい社会になるのではないかと期待するのである。

 

数学空間というものを念頭に置く。数学はこ空間を構築するものであり、その中で自由に動き回ることをイメージする。著者は論理でさえ数学空間の一部であるとする。これは意外だった。じぶんは「数学=論理」ぐらいに考えていたからである。しかし、不完全性定理で数学の公理系には矛盾が内包されることが示されていることを考えれば、論理が数学空間で部分的にしか有効でないというのは当然のことなのかもしれない。

 

著者は演繹法と帰納法を取り上げ、これらが数学空間の中でさえ限定的であることを説明する。しかしながら、一方で演繹法は人間社会で有効に機能すると主張する。それは社会には法律という公理系があるからだという。社会は演繹法で動いているというわけだ。確かに法の解釈で揉めることはあるが、社会が基本的に法律を前提にしていることは間違いない。著者は考え方として、 法律より憲法さらに国際条約と、より上位の公理系を使うことがコツであると説く。さらに、公理系が不安定なビジネス空間では演繹法はほとんど無意味であると語る。

 

身体が在る物理空間と数学(言語)が在る数学空間(情報空間)をつなぐものは{脳}であろう。そして先ずは、我々がこの二つの異なる空間を生きる存在であることを認識できるか否かが重要なのだと思う。この二つの空間を縦横無尽に飛び回れというのが著者の主張なのではないだろうか。

 

心身一如という言葉がある。身体と心(情動)は一つで切り離せないというような意味だと思うが、じぶんはこれが経済社会と数学空間が乖離する原因ではないかと考える。数学空間で得と答えが出ても、かならずしも人はこの答えに従わない。人は必ずしも合理的行動をするわけではないのである。行動経済学はこのことを明らかにした。

 

著者はさらに裁判制度を取り上げ、損害賠償の場合のように被害者30加害者70のような判決がないのは何故かと問題提起しつつ、裁判は裁判のルールの中で合理的に動いているのだと結論づける。しかし、その良し悪しは別にして、数学空間が新しい裁判のルールを提供する可能性は残されていると言える。

 

 人間の思考は情報空間にあって現実の世界、つまり自然界にはない。

 考えてみれば当たり前の話で、我々の頭の中にある想像が自然界に出現するはずがない。ただ、人間はその想像を自然界にフィードバックすることができる。

 だからこそ、情報不足の中でもさまざまな判断ができるのだ。

 

著者はAIの専門家でもあるのだが、チェスや囲碁の例をあげコンピューターの「フレーム問題」(wikipedia)を取り上げる。その中で、コンピューターの情報処理に代表される論理は自然界にはなく物理空間から出ることができない、と表現している。ここで、じぶんの頭の中で、数学空間(情報空間)の論理と物理空間の論理は同じものかという疑問が生じてちょっと混乱する。しかし一方で、数学の概念を「R」という統計分析ソフトに実体化した現実もあるので、二つの空間の論理性に関連性があることは想像できるのである。

 

さて、著者は本書の中で、数学空間(情報空間)での自由なイメージ操作によって、フリー(自由)とか、悩みとか、宗教などの社会的事象の解釈を試みる。著者はここでプリンシプル(物事の原理原則)という概念を提唱しているのだが、これに関しては個人的には未だ曖昧模糊としている。

 

中でも著者の国防論議は異色である。著者は国防のプリンシプルは「専守防衛」で、そして防衛に関するエレガントな解は世界最強のサイバー部隊であるとする。最強のサイバー部隊は敵国のインフラ設備を一瞬でダウンさせることも可能であり、日本に核ミサイルの照準がセットされた瞬間にそれを解除できるという。じぶんには、残念ながら、この提案が妥当なものかどうかを判断できる知識と理解力に欠けるが、著者が本書で明らかにしていない極秘の事実、技術等が隠されていることを祈るしかない。

 

本書は、じぶんにとって明らかに啓示してくれたものも大きいが、また不明な箇所も広げてくれたようだ。また日を置いて読み直してみれば明らかになる処もあるのではなかろうかと期待している。ただ、著者のキャリアの行き先にじぶんも関心があるのだということは再確認できた。

 

本書には著者が1992年に著した二つの論文が添付されている。

「超並列自然言語処理」と「超並列制約伝播による主辞駆動型自然言語処理」の二つである。当時はCPUのパワー不足で研究が進まなかったが、現在ならば可能であるという。この二つの論文については改めて挑戦してみたいという想いはあるが、ざっと目を通したところでは、現状ではとても理解はおぼつかないという感じだ。

 

 

関連投稿:数学は計算もする・・・ (2016/06/03)

     統計学で論理を知る (2015/05/04)

     おしゃべりとチャリンコ (2014/08/29)

 


 

数学嫌いの人のための すべてを可能にする数学脳のつくり方

2016年 5月 ビジネス社 発行(amazon

 

著者 苫米地英人

1959年、東京都生まれ。認知科学者(機能脳科学者、計算言語学、認知心理学、分析哲学)。計算機科学者(計算機科学、離散数理、人工知能)。カーネギーメロン大学博士、同cyLab兼任フェロー、株式会社ドクター苫米地ワークス代表、コグニティブリサーチラボ株式会社CEO、角川春樹事務所顧問、中国南開大学客座教授、苫米地国際食糧支援機構代表理事、米国公益法人The Better World Foundation 日本代表、米国教育機関TPIジャパン日本代表、天台宗ハワイ別院国際部長、公益社団法人自由報道協会会長。

マサチューセッツ工科大学を経て上智大学外国学部英語学科卒業後、三菱地所へ入社。2年間の勤務を経て、フルブライト留学生としてイェール大学大学院に留学、人工知能の父と呼ばれるロジャー・シャンクに学ぶ。同認知科学研究所、同人工知能研究所を経て、コンピューター科学の分野で世界最高峰と呼ばれるカーネギーメロン大学大学院哲学科計算言語学研究科に転入。全米で4人目、日本人として初の計算言語学の博士号を取得。帰国後、徳島大学助教授、ジャストシステム基礎研究所所長、同ピッツバーグ研究所取締役、 ジャストシステム基礎研究所・ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院NMRセンター合同プロジェクト日本側代表研究者として、日本初の脳機能研究プロジェクトを立ち上げる。通商産業省情報処理振興審議会専門委員なども歴任。現在は自己啓発の世界的権威、故ルー・タイス氏の顧問メンバーとして、米国認知科学の研究成果を盛り込んだ能力開発プログラム「PX2」「TPIE」などを日本向けにアレンジ。日本における総責任者として普及に努めている。

言葉にならない言語!

  • 2016.06.29 Wednesday
  • 17:46

Podcastでラジオ番組「武田鉄矢・今朝の三枚下ろし」を聞いている。時折そこで紹介される本に直感的に惹かれることがある。今回はショーンエリスの『狼の群れと暮らした男』に反応した。

 

ネット調べてみると原作(英文)のkindle版『THE MAN WHO LIVES WITH WOLVES』が安価に買えることが分かった。渡りに船というか、何か適当な英文の本がないかと思っていたところなので、迷わずに購入した。いま一月ほどで四分の一程度だ。できれば三ヶ月程度で読み終えたいと思っているのだが。

 

勿論、翻訳するわけではないので難しいところはスキップする。誤解もあるだろうし、ニュアンスが理解しにくいところもある。しかし、これは日本語の本でも同じだ。誤解、ニュアンスの不理解は避けられない。

 

今わが家ではTV番組が見られない状態になっている(というより、その状態にした)。そのためラジオを流している機会が増えたのだが、NHK FM を流していると日本民謡だったり邦楽だったりする時がある。これが詠いの文句が日本語なのにほとんど理解できないのである。言葉の音すら判断出来ない。今風のポップスですらほとんど歌詞が聞き取れない曲が多く外国語の曲と変わらないのである。

 

ある時期に、そんなに前ではないのだが、言葉(言語)を理解するってどういうことなんだろうと思い始めた。世界には様々な言葉が様々なエリア、レイヤー(社会の層)で飛び交っているが、その中でどれほど互いに理解されているのだろうと訝ったのである。第一、理解するってどういうことなのかさえ曖昧だ。理解と誤解が渾然一体となっているのが現実なのではないのか?。誰かと会う約束をして、互いに約束の時間に約束の場所で出会えたら、その時に ” 通じていた ” のだろうと判断することぐらいのことは出来る。

 

しかし、社会の様々なメディアの中で飛び交う言葉の群れがそもそも何を意味しているのかを誰も理解出来ない。時々余所で見るTV番組、特にいわゆるバラエティ番組などは視聴者に何を伝えようとしているのか、何かコミュニケーションを取り得ているのかとなると、じぶんにはほとんど理解不可能だ。書籍、映画、ネット・コンテンツなどの方がはるかに益しだろうという気がしている。

 

ネットで英語のサイトをチェックしたり、ときおり英文の本を読んでみたりするのは「どっちにしても完全理解などはありえない」との思いからである。ならば選択肢、バリエーションが多い方が良いように思い、試してみようと言うわけである。この本にしても原作と翻訳がある。ベターなのは両方を読んでみることだと思うのだが、それでもベターということであり完全には至らないと思うのである。

 

本書は、著者がある時期 ” 野生の狼の群れと暮らす ” という物語なのだが、言葉を使わずに−別種の言語と考えることもできる−狼の群れに接触しコミュニケーションを取ることに成功するのである。狼とは我々の常識にある動物とは随分と異なる生きものであるらしい。 「武田鉄矢・今朝の三枚下ろし」 の解説と、じぶんが読み始めた 『THE MAN WHO LIVES WITH WOLVES』 の頭の方だけでもその事が理解できる。

 

じぶんは何とか 『THE MAN WHO LIVES WITH WOLVES』 を読み切りたいと奮闘中?なのだが苦にはならない。なぜなら、そのコンテンツそのモノに対する期待と、それを英文で感じ取ってみたいという二重の動機があるからである。本書は「人間の言葉(言語)に対する過剰な期待を戒めるもの」ではないかという予感がある。この予感も動機の一つと考えれば、じぶんが本書を英文で読むことに対して三重の動機があると考えてもよいのかもしれない。こういう読書は本当に稀である。

 

言語の一形態として、数学に興味がある。今は、特に統計学に関心を持っている。言うまでもなく、この歳になればその応用よりも考え方のほうに関心がいく。ちょっとずつ色んな解説本を読んでみたりしているのだが、中にはネットで見つけた英文ものもある。変なものだが、時に英文の解説の方が分かりやすかったりするのである。このことは言葉の問題だけではなく背景にある文化的問題であるのかもしれないのだが。

 

今、数学などのように ” 記号化された言語 ” は、初めっから英文(アルファベット)を使ったテキストで学ぶというのも一つの方法かもしれないという気がしている。しかし、これは昨今話題の小学校からの英語教育とは質を異にするものだ。これは数学の解説の部分をも記号化してしまおうという考えで、 ロジック ( 論理 )はコンピューターのプログラム(アルゴリズム)と関連が深く、そういう意味でも数学テキストの英文化は意義あることではないかと思ったりするのである。

 

日本語は包容力?のある言語なので、こんなことも可能なのではないかと妄想してしまう。良きにつけ悪しきにつけ、現代社会における言葉(言語)の持つ影響力は過大である。AI(人工知能)が注目されているが、これも人間とのコミュニケーションがキーワードである。どんな形態の言語が使われることになるのか。 じぶんは、『THE MAN WHO LIVES WITH WOLVES』 のワイルドな世界とAIのロジックの世界は無関係であるわけがない、と思っているのである。

数学は計算もする・・・

  • 2016.06.03 Friday
  • 22:54
リリアン・R・リーバー著『数学は世界を変える』(SBクリエイティブ(株))
関連投稿: 論理の知性を育てる (2015/02/07)

電子書籍の便利さはその携帯性につきる。読書のテーストとしては、世代の違いがあるかもしれないが、ペーパーの方が味わいが深い気がする。しかし小さな端末に、じぶんは未だ百冊にも充たないが、何百冊も持ち歩けるというのは驚くべき時代になったと思う。出先で何となく気になりだして リリアン・R・リーバー著『数学は世界を変える』を読み始めた。三度目だろうか。こんなことが出来るのも電子書籍の良さである。

原題は The Education of  T.C.MITS で、サブタイトルが What Modern Mathematics Means to You である。 T.C.MITS とはThe Celebrated Man in The Street の頭文字で、道理をわきまえた多くの一般の人というような意味のようだ。じぶんも対象に入るであろうことを前提に読んでいる。

何故また急にこの本を読んでみたくなったのかは明確ではないのだが「論理」というものが気になっていたことが理由のような気はする。日々世間に溢れて出てくる情報(言葉、絵、記号等々)は全て一つの「言語体系」として捉えることが出来るのではないかというのが持論(というほど立派なものではないのだが)なのである。

情報のなかで最も幅を効かせているの言葉である。我々は「数学」を学ぶとき、言葉の助け(勿論、先生は言葉で説明する)が不可欠である。しかし本当に「数学」が言葉のサポート無しでは機能しないのかということには疑問が残る。人は母国語以外の言葉でも母国語へ転換(翻訳)せずに使えるようになるという。されど、これはバイリンガルなってみないことには実感できない。

さて、数学も言葉言語から独立した第二、第三の言語足りうるではないかという個人的な興味は証明しうるのだろうか。もしかしたら数学者は既にそれを実現しているのではないか?という想いがある。数学者は言葉と数学のバイリンガルなのではと考えるのである。一般の人々はそこまでは達せずに言葉と数学がごちゃ混ぜになっている。

とは言え、 数学者には異論があるだろうが、数学が他の言語に比べて特別な存在とは思わない。論理性では他の言語に優位かもしれないが、おそらく数学では文学を表現できないと思う 。さらに、一般に数学は絶対性に特異な存在と見られているが決してそんなことはないと思う。絶対性どころか多様性と論理性こそ数学の真髄だ。リリアン・R・リーバーは『数学は世界を変える』でそのことを初めて教えてくれた。

教訓:現代の見方では、より柔軟な精神と変化に対する覚悟が必要だ。
   泥だらけの古いわだちから、自分の精神を解き放て!
   そして、たえず変わりつづける世界に順応せよ。  ( リリアン・R・リーバー )


じぶん流の解釈では数学の定理/法則なども数学という言語で書かれた作品群である。そういう意味では文学作品と違わない。しかし両者は歴史的に全く異なる方向へ進化した。数学の定理/法則は商品にならなかった。直接経済に取り込まれることがなかった。そのため科学の発展に大いに寄与することができた。そして科学の子(工学)は経済発展を担う鬼っ子になった。

2016年を迎えて

  • 2016.01.07 Thursday
  • 00:51
まずまず穏やかに新年を迎えることができた。元旦は恒例により近所の神社に初参りをした。 今の住居に住むようになって三十年を越えるが、新年を迎えるための行事になっている。そして、これも恒例の破魔矢を買い求め玄関に飾った。ささやかながら、ひとつの行為を継続することに意義を感じている。

2015年は、老人社会を憂慮し、「お金」と「言葉」に振り回される我が身(人間)を危惧する一年の締めくくりとなった。大晦日の夜は、格別見たいTV番組もなかったので YouTube などを見て過ごした。そして、その一年の締めくくりの夜に、後味の悪い映像を見てしまった。

それは沖縄の辺野古基地建設反対運動の様子を撮った映像である。しかも、反対運動をしている人たちはお金で本土から動員されているというコメントがついている。その真偽のほどは分からないが、映像を見ている限りでは ”怪しげな人たち” という印象が拭えない。しかも、どうも多くはシニア世代のように見える。

その映像の中のシニア(男女)たちの様子は、国あるいは沖縄のことを心配して止むに止まれず取った行動にはとても見えず、その言動はどう見ても美しくない。個人の自由とは言いながら、できれば止めて欲しい。彼ら彼女たちの動機は、おそらく ”自己の持てあまし” である。子育ても終わり社会の第一線から退いて、初めは開放感に浸れても、だんだんと ”さあどうしよう?” と自分を持てあますようになる。

そこで見つけた「正義の運動」となる。ある種の充実感があり、さらにお小遣いが手に入るとなれば一石二鳥である。しかし、これはシニアの生き方としては最悪である。老人の存在はそれだけで社会の負担となる。その言動は慎ましくあるべきである。しかし、もし余るほどの体力、知力、財力があるのならば、できればキレイに遣って欲しいのである。
参照:賢老社会に向けて (2015/11/29)

2016年は、ますます老人問題が憂慮される事案になることが予感される。憂鬱なことである。そして、穏やかな小春日和の元旦をすごしながら、さらに「言葉」と「お金」についても想いが廻った。

以前、同じようなことを考えたことがあったかもしれないが、デジャブ感を伴って「言葉」と「お金」は似ているという感覚が生じた。一般に全く異なるモノに見えるが実は同根−これって ”有り” じゃないか?。これが2016年の初夢ならぬ初妄想となった。

さて、この世界にいくつの言語が存在するのか。主な言語だけでも数十はあるだろう。そして、中に国際共通語(リンガフランカ)としての役割を担う言語もある。お金も言語ほどではないかもしれないが、たくさんの種類の通貨があり、中に国際間の取引に使える共通通貨のようなものも存在する。

さらに、言語もお金も実体がない。どちらも記号などで表記され、仮想空間の中で機能する。ところが、これが現実空間(社会)に大きく影響するのだから不思議なのだ。が、そのためには人間(脳)という触媒が不可欠となる。言語もお金も、人あるいはそれに準ずる存在(人工知能など)が無ければ意味を持たない。

明けて、4日に映画『スターウォーズ? フォースの覚醒』を観た。しかも、IMAX-3D の豪華版となった。初めそんな気はなかったのだが、結果としてこの IMAX-3D 版は正解だった。正月映画として十分に楽しめた。

スターウォーズ

変わり果てたルークとレイアといううわさはあったが、その分実際に見たときのショック?は少なかった。いろんな評価はあるだろうが、特撮とCGの使い方が巧妙で、ともかく面白いSFファンタジーだと言える。あと2部作の予定があると聞くが楽しみである。

この映画の中に、言葉とお金を考えるに示唆的な表現があることに、じぶんも驚いた。この映画は、A long time ago in a galaxy far, far away... のメッセージから始まる。我々の時空を超越した世界が舞台となっているのだが、何とこの世界にもお金が存在する。そして、お金のために悪事を働く輩がいるのもこの世界と同じなのだ。スターウォーズ・ミステリー!!

また、このシリーズにはいろんなドロイド(ロボット)が登場する。C-3PO、R2-D2 が有名だが、
『スターウォーズ? フォースの覚醒』でも魅力的なドロイド BB-8 が活躍する。BB8C-3PO は人間の言葉を話すドロイドだが、R2-D2 とBB-8 はドロイド語?を話す。

ピーピロピロピー。ヒロインのレイはこれを理解する。しかも、かなり複雑な情報の遣り取りをする。非現実的ではあるが、しかし、こんな言葉(言語)もあり得るのではと思う。まだまだ未解明の部分が多いようだが、自然の動物も鳴き声でコミュニケーションができると言う。クジラもかなり遠方の仲間と情報交換?ができるようだ。

言語空間は広大で貪欲だ。2016年、言語空間は経済をもその中に取り込み、ますます人間社会の破壊と再生を繰り返してしていくことだろう。また、じぶんにとっても、
「お金」と「言葉」に振り回される一年になると思うと、ちょっとナーバスな気分にもなる。

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