THE HUMAN BODY SHOP

  • 2017.09.14 Thursday
  • 20:19

A・キンブレル 著/福岡伸一 訳『生命に部分はない』(講談社現代新書)

 

この夏のある日、書店で福岡伸一氏の翻訳本が目に留り、氏の翻訳本は未だ読んだことがなかったが、それから一月以上経ってから手に入れた。新書で584頁という分厚い本で、なお且つ文字も小さめということで、本当に読み応えのある本である。読み応えという意味では、量だけではなく質という側面から見ても重い書である。

 

初め目に留った時に購入を迷ったのは、その分厚さと翻訳本であるということであったと思う。3度目位に目にしたときに、チラ読みして、福岡伸一氏に多大な影響を与えた書であることが分かり購入した。本のタイトルは「生命に部分はない」だが、原題は「THE HUMAN BODY SHOP」である。

 

福岡伸一氏は ’95年に『ヒューマンボディショップ』と原題に則したタイトルの本を出版している。その後、原作の改訂があり、改めて翻訳・加筆をして新書版『生命に部分はない』として出版されることになった。タイトルを変えたのは、同じ講談社新書として出版された自らの前著『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』に倣い、且つこれらの著書に共通する福岡氏の理念に基づくものと思われる。

 

しかし、著者A・キンブレルの意向を考えれば原題『THE HUMAN BODY SHOP』(人間部品産業)の方が本書のタイトルとして分かりやすいかもしれない。実際に読み始めると、その内容の難解さ、奇怪さに唖然とする。主にアメリカ社会の中で起きたバイオテクノロジーと、それに関わるビジネス動向関連の膨大な事象が記されている。

 

まず素人には、バイオテクノロジーに関する生物学的な記述について行くのが困難である。併せて、法律家でもある著者A・キンブレルはバイオテクノロジーの発展に伴うビジネスのための特許取得に刮目し、本書では生物学的側面と法的側面が併行して語られているので、ますます読者の頭は混乱してくる。

 

しかし、ここが核心で、「THE HUMAN BODY SHOP(人間部品産業)」の問題を語るにはこの両面が不可欠だということである。臓器移植から不妊治療、さらに遺伝子操作へと、医療技術のビジネス化は止まることを知らない。本書を読んでこの現実の深刻さを初めて知った(認識した?)。現実は想像以上である。

 

著者A・キンブレルはこれらの現象を「THE HUMAN BODY SHOP(人間部品産業)」と呼んだ。本書にはこのトレンドの推奨派と反対派の人物、組織が描かれている。著者A・キンブレルと、翻訳者 福岡伸一は批判的立場にあり、このことに警鐘を鳴らす。

 

本書を読み始めた頃に、ネットで映画『アイランド』が目に留まり、物語が気になったのと無料だったので、途中早送りしながら視聴してみた。ゲゲッという感じだった。本書の内容にジャストミートだったのである。時代背景は2019年、微妙な時代設定だが、富裕層の医療のためにクローン人間を製造(?)するというビジネス物語(??)なのだが、とても後味の悪い映画だ。

 

wikipedia

 

2019年までに映画と同じ状況になるとは思えないが、もはやこの物語がSFとは言えない現況であることは認識しなければならないと思った。人類として、また個人としても、生命とは何か倫理とは何かを問われる時代に入ったということだ。

 

  • 臓器や組織の効率的な売買のために、胎児の生体解剖が行われている?
  • 凍結されたままの胚(受精卵)に、人権や遺産相続はあるのか?
  • ある調査で、「生まれる子供に肥満傾向があるとわかれば中絶したい」と答える人が11%
  • ヒトの遺伝子をもつように改良された「動物」に次々と特許が与えられる
  • 「背が高くなるように」と、毎日ヒト成長ホルモンを注射する少年

 

本書のオビに記載された見出しだが、多くの人はこれを読んで頭(心)がフリーズするのではないだろうか。じぶんもどう判断してよいのやら躊躇している。また、著者A・キンブレルは、このような社会状況を生み出した根源は十八世紀の思想家たち−ガリレオ、ニュートン、ケプラー、デカルト、ロック、アダム・スミス等−であると言う。

 

彼らによって新しい生命観、「生物体は精妙な機械でしかない」という考え方と自由市場主義が導入され、機械論と自由市場主義のドグマは現在の人間部品産業の双子の基本概念となったというのである。この主張に対しては、現時点でじぶんは違和感を感じている。「では、彼らは存在しない方がよかったのか」という問いに対して答えることができないからである。

 

本書の中でじぶんが最もショッキングだったのは「優生学」のはなしである。十九世紀末にチャールズ・ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトンによって提唱されたこと、ナチスの優生学的施策についての知識はあった。しかし二十世紀前半のアメリカで、実際にいわゆる不適格者に対する不妊化手術に関する法案が施行されていたことを初めて知った。

 

第二次大戦終了とともに、ナチスのユダヤ人大量虐殺が優生学的施策に決定的なダメージを与えた。しかし今、再び優生学が見直されているのだという。今回は、政治的背景や民族差別に根ざしたものではなく、心身の病気や異常の遺伝的解明という科学に基づいたものと言われてはいるのだが。

 

しかし、著者A・キンブレルは語る。

 

 しかし、その手段が中絶であれ、生殖細胞遺伝子操作であれ、この新しい優生学の流れは必ず、実際の重篤な病気とは関係しない各種の「悪い」遺伝子を排除する方向へ向かうことになるだろう。たとえば、各種の情緒障害とか、行動異常に関係する遺伝子を解明する研究が目下急速に進められている。これらの研究がやっかいな生物学的決定論に再び火をつけることになってきた。すなわち、人間の行動は環境要因ではなく、遺伝的要因によって決定されるという考え方である。

 

じぶんは、個々人の遺伝的影響は一般に考える以上に大きいのではないかと思っている。しかし、その遺伝的要因が現象(各症状等)と簡単な因果関係にあるという感覚はない。そこは、本書の翻訳者で分子生物学者でもある福岡伸一氏の理念に共感する。さらに、A・キンブレルの上記メッセージが投げかける懸念にも共鳴するのである。

 

A・キンブレルは、人間部品産業の考え方から脱却するには、技術至上主義と市場主義によって体を侵食するあり方に対抗する志向改革が必要だとする。具体的には、健康志向、自然分娩、自然食志向、環境運動などを推奨する。じぶんの頭の中では、「THE HUMAN BODY SHOP(人間部品産業)」という社会現象とA・キンブレルの主張する志向改革との間に、まだ強い相関が感じられない。しかし、何らかの関連は否定できないのではないかという思いはある。

 

さりながら、A・キンブレルが最終節であげている「人間部品産業からの脱却」のための十三の施策、そして「からだの無償供与の原則」を確立するための五つの施策は充分検討に値する提案である。

 

このブログ記事を投稿するにあたっては、どのカテゴリーにするか迷っていたのだが、最終的にカテゴリー「社会・経済のはなし」に決めた。このテーマの最深部にあるものは、やはり経済(「市場原理」)だと思ったからである。本書の中に、スミス以後、人間はホモ・サピエンスならぬホモ・コンサプター(消費する動物)になった、という記述がある。

 

アダム・スミス以後に急変したのか否かは別としても、現代の人間社会の中に占める経済(「市場原理」)の役割の大きさは半端ではない。ほとんど全て?かと思ってしまうほどである。ちょっと立ち止まって考え直してみる時なのかもしれない。まだ間に合うことを願掛けて。

 

関連投稿: 再び ”動的平衡” について (2012/06/29)

 


 

生命に部分はない

2017年6月発行(講談社現代新書:amazon

 

著者 A・キンブレル

弁護士、市民運動家、執筆者として、およそ四半世紀にわたり活躍中。1997年には食品安全センターを創設、事務局長を務める。環境保護、持続可能な農業のあり方を訴えている。

 

訳者 福岡伸一

生物学者。1959年、東京都生まれ。京都大学卒業。ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授、ロックフェラー大学客員教授。『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』、『新版 動的平衡』、『動的平衡2』『動的平衡3』など著書多数。

 

 

 


 

「参考」

 

人間部品産業から脱却のための十三の施策

 

  • 死の定義を脳の高次機能の停止にまで拡張しないこと。
  • 死体もしくはネオモート(生命維持装置につながれた脳死患者)を臓器保存容器としないこと。
  • 死体に対し尊厳ある取り扱いを行い丁重に埋葬すること。
  • 臓器移植研究目的のため、人為的に中絶した胎児を用いることの禁止、この操作に関する倫理問題、法律問題、特に承諾の取り方、胎児を生きたまま摘出すること、臓器供与の強要、胎児確保を目的とした中絶方法の変更、胎児供与に対する秘密報酬などの諸問題は解決不可能であるように思われる。さらに、いかに目的が救命のみであっても、その目的のためだけに胎児を手段として利用することの禁止。
  • 「優秀な」精子、卵子の優生学的使用の禁止。
  • 胚に対する実験操作の禁止。凍結胚にはできるだけ生まれてくるチャンスが与えられるように努力がなされること。
  • 胎児の遺伝子診断(羊水検査、CVS、移植以前における胚の遺伝子診断)は生命の危険がある病気の検出のみに限定して使用されること。出生前の診断が性別、体重、身長その他病気でない形質の判別に使用されることの禁止。
  • 労働者をモニターする目的の遺伝子診断の禁止。雇用、生命保険、医療保険の適用に際し、遺伝子診断の結果に基づく個人の差別が行われないようにすること。
  • 遺伝子工学によって製造された薬物が、差別の対象となりうる人間の形質(身長、肌の色など)を変更するために使用されないようにすること。
  • 遺伝子治療は生命の危険がある病気の治療に限ること。美容目的、身体的特徴の増進目的のために遺伝子操作が用いられないようにすること。
  • 動物のクローン化、生殖細胞操作、およびヒト遺伝子の動物への導入に関してモラトリアムを設けること。この間、徹底した討議を行い、動物の遺伝子操作に関する倫理的問題、環境に与える影響を検討すること。
  • 当面のあいだ、生殖細胞に対する遺伝子治療を禁止すること。どの遺伝子が良くどの遺伝子が悪いのか私たちに判断する資格はない。
  • ヒトのクローン化の全面禁止。

 

無償供与を確立するための五つの施策

 

  • 輸血用の献血を引き続き無償で行う体制を堅持すること。製薬目的、研究目的の商業的血液売買を停止すること。
  • アメリカおよび各国における移植用臓器の売買禁止を強力に支持し、売買禁止の原則を研究用臓器にも適用すること。
  • 胎児組織売買の禁止を強力に支持し、これが順守されるよう監視を怠らないこと。
  • 精子、卵子、胚の売買禁止を実行に移すこと。代理母契約制度全世界規模で停止し、契約斡旋業者に対し厳罰で臨むこと。
  • 遺伝子操作された動物、人間の細胞、遺伝子、胚、臓器など、からだの一部を含むすべての生命形態の特許化禁止を全世界規模で進めること。

 

車社会_アメリカという広大な国

  • 2017.09.09 Saturday
  • 21:06

今、わが家は地デジが映らない。代わりに、わが家のTVに流れているものはアマゾンのFire_TV_Stickからのアメリカのネット映像だ。話の内容はほどんど理解できないが、映像情報を併せると多少は様子が分かってくる。この8月後半のアメリカの出来事が興味深かった。

 

まず皆既日食、8/21にアメリカで皆既日食が見られた。それに先だって見学、観測のための民族大移動?の様子が放映されていたが、改めて車社会アメリカを彷彿とさせる情景だった。

 

観測ポイントに向かう車の大移動・渋滞の様子は日本の連休渋滞以上のものを想わせる。また、ガソリン、ホテル不足が問題となっていることも報道された。そして、じぶんはこのアメリカ人の行動をとても新鮮に感じた。

 

しかし、考えてみれば、アメリカ人も日本人も人として変わりがなく、何十年に一回の天体ショーに大騒ぎするのは自然なことなのだ。改めてそう思った。ただ、やはりその惹起される社会現象のスケールがデカイという印象は残る。

 

次に8/25からのハリケーン「ハービー」、初め画面の表記「Harvey」を見てハーベーだと思ったが、後でハービーだと分かった。ここでも避難する車の大移動の様子が報道されていたが、その風景に映画のワンシーンを見るような想いがした。

 

「ハービー」はカテゴリー4というモンスター・ハリケーンで被害も甚大だった。TV画面に映し出される被害地の中には津波を思わせるような被災状況も見られた。

 

しかし、住宅地域が完全に水で埋没した映像では、そのエリアの広大さと、併せて一軒一軒の区画の広さと建物の大きさに驚いた。何と住宅事情の違うことか、改めて呆れる。水とガソリンの不足の報道もされていたが、飲み水を求めて長く続く車の渋滞の映像は、やはり車社会_アメリカを想わせるものだった。

 

日本でよく見る避難所の映像が殆どないのも興味深かった。避難した人々は何処にいたのだろうか。また、テレビ局のスタジオと思われる所に臨時に設置された寄付を募るテレホンセンター?では、電話対応をしている男女等が著名、無名かは分からないのだが、その現場に流れるリラックスした様子は日本のものとは全く異なり、やはり興味深いものだった。

 

自然現象によって受ける影響は、人類としてどの国の人々にとっても変わらないものだが、その在るところの社会性/文化性の違いにより社会に表れる現象は結構異なるものだとつくづく思った。特に、人工国家、移民国家であるアメリカ(USA)の動向は、やはり気にかかり且つ興味深い。

 

この投稿記事を書いている今、またカテゴリー4か5のハリケーン「イルマ」がフロリダ方面に向かっており、TV画面にはまた避難する車の大移動の様子が映し出されている。ハリケーンと言い、トルネードと言い、アメリカも日本と同様に天然災害の多い国土であることを改めて認識した。

AIなトピックス!!

  • 2017.08.08 Tuesday
  • 22:27

前回に続き今回もAIのはなし。前回は、半分マジ半分冗談の内容だったが、あの後、ネットで驚きのニュースに刮目した。Forbes_JAPANがソースなのだが、 人工知能が勝手に「独自の言語で話す」恐るべき時代の到来8/6(日) 11:30配信というものだ。 フェイスブックが開発したAI(人工知能)が人間には理解できない独自の言語で会話をはじめ、同社はこのプロジェクトを緊急停止させたというのである。

 

 7月下旬、フェイスブックのAI研究チーム(FAIR:Facebook AI Research Lab)はチャットボット同士が、人間の指示を受けずに会話を行っていることを突き止めた。この事実は人類の想像を上回る偉業とも言えるが、同時にAIが恐ろしいほどのポテンシャルを持っていることを示している。

 人工知能はまだ一般に広く認知されるレベルには普及していないが、近い将来、多くの人に恐怖を与える段階に達するだろう。人工知能研究の世界的権威として知られるレイ・カーツワイル(Ray Kurzweil)は数年前に、シンギュラリティ(singularity)に関する警告を発していた。(Forbes JAPAN)

 

この記事ではホーキング博士がAIの危険性を警告していることを紹介している。博士がそのような発言をしていることは前に何かで読んだことがある。全く個人的なものだが、じぶんは今はAI肯定の立場にいる。『2001年宇宙の旅』(1968年)のHAL9000の頃から、コンピューターの未来を心に描いてきた。

 

しかし、じぶんが本当にコンピューターを身近に感じることができたのは、三十代の初めにパソコン教室でコモドール社製のPCに触れ、後にNECのPC8001を手に入れてからである。映画でHALを見てから十年以上経っていて、今思えばそのPCは未だ計算機に毛が生えたぐらいの代物だったが、当時はとてもワクワク・ドキドキしたものだった。

参考:スティーブ・ジョブズ死す (2011/10/06)

 

唇を読むHAL9000のカメラ・アイ         NEC-PC8001とモニター

 

今回のForbesの記事だけでは詳細がわからない。プロジェクトを緊急停止したとあるが、本当にそれほどの重大な現象だったのか、あるいは錯誤だったのか。しかし、事実だったとすればちょっとゾッとするような話ではある。しかし、その割にはこの現象をフォローする記事がない。

 

ちょっと曖昧な記憶なのだが、1996年出版のミッチェエル・ワールドロップ著『複雑系』の中に、研究者が一人でPCの中に作製した人工生命(プログラム)を走らせるテストをしている時に、周囲に妙な気配を感じたとのレポートがあったと思う。単なるコンピューターのプログラムとは言え、ある種の電子的アルゴリズムは我ら生命体と何らかの類似性/関連性があるのだろうか。

 

どちらにしても、今やAIは我ら一般人の想像を超えた域に達している可能性があると考えるべきのようだ。じぶんも安直に好奇心だけでAIを見るのは止めにしなければならないだろう。そういうEra(時代)に入ったのだ。

 

一方で、中国のAI「お喋りロボット」が話題を振りまいている。中国のインターネット・サービス会社とアメリカのソフトウェア会社により共同開発された対話プログラムで、基本的にネットユーザーの声を学習していくタイプのAIらしい。このAIお喋りロボが、ネットユーザーのインプット(「共産党万歳!!」)に対し、アウトプット(「 こんなに腐敗して無能な政党なのに、それでも万歳なんて言えるの? 」)を返したという。

 

他にも当局が看過できないアウトプットをするまでに成長?してしまったらしい。検閲の厳しい彼の国でAIはどうやってこんなアウトプットが出来るようになったのかなど、国内外に話題を提供しているわけだ。しかし詳細は不明だが、これはフェイスブックのAIの問題とは次元が異なる事象に思える。

 

簡単にAIと一言で片付けられないテーマであり、まさにAIもピンキリということだ。くそみそ(糞味噌)という言い方がある。この年の前半で、このくそみその区別のつかない(つけない)議員先生、知識人が多いことが重々分かった。おそらく、このままでは、AIについても又くそみその議論がまかり通るような気がする。

Viva!! チョメチョメ・ファースト ??

  • 2017.07.03 Monday
  • 20:58

何やら「××ファースト」が流行っている。アメリカ大統領、そして我が東京都知事がスローガンにしてきた。昨日、東京都都議会選挙が行われ、都民ファーストが圧勝した。

 

 

都民もミーハーだな、というのが第一印象だった。個人的にはもっと与・野党が拮抗するような結果になるのではと思っていたので−それが東京のために良い−、正直驚いた。新聞などの見出しには一強政権に対する反発、加計問題などが災いしたような表現がされていたが、個人的にはチンプンカンプンな解説だ。

 

東京は特別な自治体とは言え、地方議会選挙に何で国政の問題がここまで影響?するのかが不可解だ。じぶんには、今国政で議論されていることと、今東京が抱えている課題とはほとんど無関係であるように思われる。メディアの意図か否かは別として、都民がメディアの印象操作?にまんまと乗っかってしまったという印象は否めない。東京の沖縄化を懸念する声もある。

 

じぶんは若いころ、どちらかと言えば、やや反体制的な視点を良しとする者だった。ところが、この所、体制側に立っていることが多くなったことに気づく。それは、いわゆる左派(リベラル)側の言動が理解できなくなったことに起因している。このことがじぶんの年齢に関連しているのかどうかは不明だが、もしじぶんが都民だったとして、今回の選挙で都民ファーストを外すのは間違いない。

 

ベストの譬えとも思えないが、与・野党の役割とは、自分が病気で入院している病院側(与党)と外部の医療関係者(野党)ではないだろうか。気が付いたら病院のベットの中、とりあえず現体制容認から始まる。そこが真の悪徳病院であることが判明した場合、急いで転院を図らなければいけないかもしれないが、平均的な医療施設?であれば状況を見ながら考えるというのが常識的な判断だろう。

 

この場合、外部の医療関係者(野党)のアドバイス(改革)が頼りになる。少なくとも、野党の意義は革命(破壊)ではないと考える。野党には名コーチの技量が求められるのではないだろうか。この意味で、現野党の言動には不安がのこるのである。今回、都民ファーストは野党から与党に立場を変えたことになるが、選んだ都民と共に、その責任は重大だろう。

 

東京都の容体は「要観察」が続く。

共謀罪可決に思う

  • 2017.06.15 Thursday
  • 20:12

15日午前7時「共謀罪」(「 テロ等準備罪 」)可決の報道がなされた。まず夜通しやってたんだとオドロいた。しかしながら昨今の国会の中の議論にはうんざりしている。かつて民主党をずっと支持してきたじぶんが現民進党をうっとおしく思うようになり、近頃はそれを通り越して気持ち悪ささえ感じる。

 

TV番組は時折り垣間見る状況にしかない中で、映し出される野党議員(特に女性議員)の質問の仕方の品の無さに思いっきり引いてしまう。前の「安保法制」についても今回の「テロ等準備罪法案」についても、正直言うとじぶんは原文を読んでいないしその内容がよく分からない。ただ今の状況ではアンチ野党なので、結果として政権支持の側に立ってしまうことになる。

 

何でこうなってしまったのか、教えてくれ〜と言いたいくらいである。じぶんの政治的スタンスはどちらかと言えば若いころからリベラル寄りだった。反権力、革命的、アウトロー的なものに惹かれた。その度合いが年齢とともに薄れてはきたとしても未だ色合いを残していた。あの民主党政権誕生の頃までは。

 

民主党(現民進党)から自民党の安倍政権に変わっても、選挙では民主党に投票し続けた。三行半をつきつけたのは昨年の参議院選挙においてである。我ながら我慢強さに感心する。しかしそれは坂道を転げ落ちるような勢いである。次の選挙において民進党を外すことだけは決めている。

 

国会で議論される各種法案において、仮に本当の理解というものがあるとして、議員、評論家も含めてどれだけの人たちがその法案の原文及び関連法案を読み込み、そして理解しているのかを訝る。正直にそう思うのである。あの国会でギャーギャー騒ぎ立てる議員さんたちがこの範疇に属する人たちとはとても思えない。情動しか感じられない。もっともある意味ではそれも是なのだが。

 

本当にどうにかならないものかと思う。昨今の国会の議論(質問)は本質の輪郭を明らかにしようとするのではなく、逆に周囲から土埃を被せて本質を意図的に隠そうとしているとしか思えない。もっともその意図すらなく幼児の砂場遊び程度のものでしかないという危険すらある。

 

続く「学園騒動」では、”総理のご意向”という表現があったというメモ?の存在が取り沙汰されているが、些細な我が社会経験を踏まえても、それがどうしたの?という印象しかない。公であれ民であれ、権力者たるもの陰に日向に自分の意向を通そうとするものである。しかしその違法性を問うのは甚だやっかいな行であろう。

 

また、現野党が政権をとったとしても、表ざたになるか否かは別として、「学園騒動」のみならず、様々な「ご意向騒動」の種をまき散らすにちがいないと確信する。むしろ政権慣れをしていない無垢な集団だけになお深刻な問題を引き起こしかねないのではないか。

 

いい加減に、国会で本当の議論(ディベート)を始めてみてはどうか。その中から双方が眼から鱗の核心が現れたとしたら、と想像するだけでわくわくする。複雑化していく人間社会、国会も創発の場でなければならないのだろう。

トランプ大統領は歴史的社会現象か

  • 2017.03.30 Thursday
  • 20:17

三浦瑠璃著『「トランプ時代」の新世界秩序』(潮出版社)

 

2016年11月8日(アメリカ時間)、共和党のドナルド・トランプ候補が民主党のヒラリー・クリントンを下して大統領となった。これは世界中の専門家たちにとってびっくり仰天の出来事だったようだ。大方のマスコミの予想では、ヒラリー・クリントン優勢が当然のような報道になっていた。

 

しかしながら、中には ”トランプは侮れない” と読んでいた少数の専門家がいた。本書の著者・三浦瑠璃氏もその一人だ。ほとんど地デジを見ないので、じぶんが著者を知ったのはネット上の映像コンテンツだったと思う。おじさんたちの中で小気味よい論理展開をする人だなというのが第一印象だった。逆に言うと、おじさんたちの論理は切れ味が悪いということだ。

 

この国も未だ男中心の社会だろう。故にどうしても、おじさんたちは色んなしがらみが多く「常識」に捕らわれやすくなるのだと思われる。しかもこの常識というやつが、普遍性よりは自分が在るコミュニティの土着性の方が強いので厄介なのである。そういう意味では、著者は初めから男たちの常識世界からフリーでいられたのかもしれない。これは著者のアドバンテージだ。

 

ドナルド・トランプという人は素人目にはとてもアクが強い人物に感じられる。それが実態なのか虚構なのかは分からない。著者も安易な結論を差し控えているようにも見える。トランプ氏は衝撃的な暴言?を吐くかと思えば、禁欲的なトランプ・ファミリーという側面を併せ持つ。

 

現地で直接取材をしている著者は、本書のまえがきで、トランプ氏に対する自分の考えが2016年3月のスーパーチューズデー前夜から変わっていないと表現する。多くのマスコミの評価とは反対に、トランプ候補は侮れないという印象を持ち続けたということだろう。

 

アメリカ事情に詳しい著者の解説が色んな切り口でなされているのだが、残念ながらじぶんにはそれらを一つのイメージに整理することはできない。じぶんが理解できた?のは、著者が今回のアメリカの大統領選を「トランプ現象」と称し、世界に波及しうる一つの社会現象として捉えようとしていることである。ある意味で、トランプ大統領は生まれるべきして生まれたという考えだ。


本書のタイトル『「トランプ時代」の新世界秩序』は、その著者の思いをそのまま表現しているのだろう。初めにアメリカ社会の変動があってトランプ大統領が誕生したのであって、トランプ大統領が誕生したがためにアメリカ社会に変動が起きようとしているのではない、という認識が一般的にが欠けているということだ。

 

アメリカは我々が想像する以上に複雑な社会構造を有している。共和党、民主党も簡単に二大政党と表現できるような状況にはない。今回の選挙で取りざたされた男と女、白人と非白人、エスタブリッシュメントとノンエスタブリッシュメントの対立、そして宗教対立までが混在する。さらに、最近はLGBTという記号も一般化し、男女の性差だけでは捉えきれないカオスな社会になってきている。

 

 人々の争いや対立を見据える国際政治学者は、とかく世界を悲観的に見る傾向があるのですが、正直言って、私自身は暗澹たる思いにかられています。世界がこのようなとば口に立ってしまったのは、トランプ氏一人のせいではまったくありません。アメリカは九十年代から十数年の間、自らの単極的な行動によって、世界の秩序をより自由で平和で民主主義的なものに作り変えようとしました。多くの失敗と混乱があったことは確かですが、そこに一定の理想があったことも事実です。世界はこうした試みが、歴史の中で「束の間」に存在した例外的な事象であったことを思い知らされることでしょう。

 

著者は近年の国際政治上で大きな影響力を持ってきた国・アメリカを上のように総括する。旧いアメリカが後退しシン・アメリカが現れる。その象徴がトランプ大統領ということだ。善かれ悪しかれ世界の多くの国がトランプ大統領(アメリカ)の対応をせまられることになる。

 

トランプ大統領はアメリカ・ファーストを唱えているが、著者はアメリカ経済が減速して日本にとって良いことは一つもないと語る。日米にとって、TPPに代わる東アジア経済圏の基本システムをデザインしうるか否かは重要な懸案事項だ。また安全保障では、著者は自分の国がどうありたいのかを前提に日米同盟を再定義することの必要性を説いている。

 

今、本当に議論されなければならない事柄を棚上げにして、三面記事的出来事?に揺れる現国会の状況を見るにつけ、著者の表現を借りれば暗澹たる思いにかられる。与党を全面的に支持できるわけではないが、野党とマスコミの幼稚な言動はあまりに酷過ぎる。現状では、本書で日本に突き付けられた課題は、悔しいがこの国にとって本当に難問であろうと考えざるを得ない。

 

関連投稿: ベビーブーマー大統領誕生 , Now! (2017/01/21)

 


 

「トランプ時代」の新世界秩序

2017年2月 発行(潮新書:amazon

 

著者 三浦瑠璃

国際政治学者。1980年神奈川県生まれ。東京大学農学部卒業。東大公共政策大学院修了。東大大学院法学政治学研究科修了。法学博士。専門は国際政治。現在、東京大学政策ビジョン研究センター講師。著書に『シビリアンの戦争』『日本に絶望している人のための政治入門』

 

 

 

 

ベーシックインカムとヘリコプターマネー

  • 2016.07.30 Saturday
  • 14:13

ベーシックインカムの話を初めて聞いたのはPODCASTで岡田斗司夫氏からである。じぶんが知ったのは数ヶ月前のことだが、岡田氏本人は2011年の ホリエモンとの対談で既にベーシックインカムの話を取り上げている。じぶんの方が随分と遅蒔きながらという話だ。

 

知恵蔵2015の解説

ベーシック・インカム

就労や資産の有無にかかわらず、すべての個人に対して生活に最低限必要な所得を無条件に給付するという社会政策の構想。社会保険や公的扶助などの従来の所得保障制度が何らかの受給資格を設けているのに対して無条件で給付する点、また生活保護や税制における配偶者控除など世帯単位の給付制度もある中で個人単位を原則とする点が特徴である。すべての人に所得を保障することによる貧困問題の解決に加え、受給資格の審査などが不要なため簡素な制度となり管理コストが削減できること、特定の働き方や家族形態を優遇しないため個人の生活スタイルの選択を拡大できることなどが、メリットとして指摘されている。一方で、膨大な財政支出の財源をどうするか、導入によって誰も働かなくなるのではないかなどの批判もあり、論争が繰り広げられてきた。ベーシック・インカムに類する考え方は、資本主義社会の成立期から見られ、1960〜70年代には欧米で議論が展開されてきた。さらに80年代以降、働き方の多様化や非正規雇用・失業の増大、家族形態の多様化、経済活動が引き起こす環境問題の顕在化など、これまでの福祉国家が前提としてきた労働や家族のあり方が変わってきたことを背景に、従来とは異なる考え方の所得保障構想として注目を集めている。

 

一方、ヘリコプターマネーは最近の報道で知った。

 

デジタル大辞泉の解説

ヘリコプター‐マネー(helicopter money)

あたかもヘリコプターから現金をばらまくように、中央銀行あるいは政府が、対価を取らずに大量の貨幣を市中に供給する政策。米国の経済学者フリードマンが著書「貨幣の悪戯」で用いた寓話に由来。中央銀行による国債の引き受けや政府紙幣の発行などがこれにあたる。ヘリコプタードロップ。
[補説]中央銀行は通常、市場に資金を供給する際、対価として民間金融機関が保有する国債や手形などの資産を買い入れる(買いオペレーション)。ヘリコプターマネーの場合、そうした対価を取らずに貨幣を発行するため、中央銀行のバランスシートは債務だけが増え、それに見合う資産は計上されず、債務超過の状態になる。その結果、中央銀行や貨幣に対する信認が損なわれる可能性があるため、平時には行われない。

 

ネットで調べてみると上のような解説文に出合う。読んでも、分かったような分からないような中途半端な気分が残る。しかし、これは経済(マネー)に関する本を読んだり考えたりすると常に付いてくるエモーションである。今回、ベーシックインカムとヘリコプターマネーについて注目したのは、じぶんの知識欲が反応したのではなく、どちらかと言えばより本能的なもの?によるものではないかと今は認識している。

 

左様に、経済(マネー)はじぶんにとって興味深いが不可解な案件なのである。今のじぶんにとって、取り敢えず一人ひとりに一定額のマネーを無条件に支給するというベーシックインカムと、あたかも大量に印刷した紙幣(マネー)をヘリコプターからばらまくという作戦(政策)がこの世界で成立しうる?ということが重要な提示なのである。

 

これが、経済(マネー)とは何ぞや?という疑問の根源に触れることのように思えるからである。そもそも集団妄想であるマネーを着実に社会制度化してきたという人類の歴史がある。初めは物々交換をより便利にする程度であったかもしれないが、ストックに便利なことなどが発見され、どんどんとモノから離れて象徴的な「概念」へと進化?した。そして経済(マネー)は社会の誰も制御できないモンスターへと成長してしまった。

 

ベーシックインカムもヘリコプターマネーも各個人から見れば、何もせずに天から降ってくるお金である。しかし、これで個人の生活が成り立ち、社会的にも矛盾が生じないのであれば万々歳となるのだが、それはいかにも怪しい?と懐疑的になるのである。そもそもマネー(紙幣、コイン、通帳の数字等)には何の力もない。それは紙であり、金属塊であり、データにすぎなく、ある種のサインにすぎないのである。

 

 

 

 

 

 

交差点の信号機(サイン)が直接、歩行者を守ってはくれることはない。サインを見て自らの行動を制御する人あるいはロボットがいるから間接的に歩行者が守られるのである。マネーがあっても、モノを作る人売ってくれる人がいなければ買うことはできない。この最もベーシックな部分が何か誤魔化されているような気がしてならないのである。

マネーとジェンダー

  • 2016.06.18 Saturday
  • 14:56

現代の社会的な事象として、マネー(お金)とジェンダー(社会的性)ほど身近にありながら摩訶不思議なものはない。この二つの事象については判然としないままに一生を終えることになることを確信する。しかも、社会で報道される現象・事件でこの二つの事象に関わるものがどれほど多いかを考えてみれば、この二つの事象が人間にとって絶対的・根源的な存在であることも疑いがいようがない。まさに人間はマネーとジェンダーのために生きているのかと思えるほどだ。

 

しかし、これほど社会的にリアルな存在に思えるマネーとジェンダーだがその実体となると怪しくなる。専門家の間ですら「マネーは共同幻想である」と謂われ、ジェンダーも生物的性と社会的性の間で揺れ、さらにLGBT(性的少数者)も加わり、これもまた社会的幻想なのではないかと思えてくるのである。

 

マネーとジェンダー、両者とも掴みどころのないゴーストのような存在である。しかし、その人間社会を動かすパワーは驚異的なのだ。

 

パナマ文書で注目されたタックス・ヘイブン(租税回避地)には気が遠くなるような巨額のマネーが投資されていると言われる。しかし、このことを一般人が実感することは困難だ。紙幣を持ち込むわけではないと思われるので電子データなのだろう。紙幣でさえ「幻想」と見なされる?のに、この電子化されたマネーとは何ぞやと思わざるをえない。 タックス・ヘイブンに蓄積?されている膨大な電子マネーと、じぶんの銀行口座の預金が同じ性質のものなのかさえ疑う。

 

昨今取り上げられることの多い LGBT(性的少数者)については、正直じぶんの頭は思考停止の状態に陥る。このことに理解を示すことが人権のより良き理解者であるとの社会認識が広まっている中で、対峙的な物言いが難しくなっているのも確かだ。じぶんが理解するところでは LGBT(性的少数者) は昔から存在した。今、それを社会的に公認し社会制度の中に組み入れていこうという運動が世界的な潮流になったということだ。これが歴史的に何か意味があることなのだろうことは想像できるのだが・・・。

 

マネーとジェンダーは人間の脳と社会の相互作用で誕生したゴーストではないか。両者とも社会的パワーが大きいために何か実体があるもののように錯覚してしまうが、我々の脳内現象?と考えるのが最も適切なのではないだろうか。今、目の前の現象が絶対的なものとは考えないほうが良いような気がしている。

 

トランプ旋風の行方

  • 2016.04.26 Tuesday
  • 14:58
日本でも話題になっている米大統領選の予備選挙だが歴史的?な結果になりそうだ。その台風の目は共和党のトランプ氏だ。米国大統領選挙の制度自体に詳しくないのでなお不思議な感覚に襲われるのだが、もしトランプ氏が共和党の代表に選ばれたとしたらと考えると 、たとえそれがエキセントリックなものであったとしても、 アメリカという国のパワーというものを感じる。一方で、これはアメリカ崩壊の始まりだと言う人もいる。

しかし、youtube で見つけた映像に驚いた。ヒコーキ好きなのでこういう映像に目が行ってしまう。トランプ氏のプライベイト・ジェットが紹介されているのだが、タイトルが Donald Trump's Private Air Force One Plane というもの。Air Force One は米国大統領専用機の名称なのでそれを捩ったタイトルを付けたのかもしれない。機体はボーイング757なのだが室内の豪華さと共にその本格的な運用体制に驚く。



昨今落ちぶれたと囁かれるようになったがまだまだアメリカの底力を感じさせる映像だ。ことヒコーキとなると全ての面で日本とアメリカと差は歴然だ。戦後日本はヒコーキの開発製造を規制されてきたのだが、今後この差をどこまで縮めることができるのだろうか。特に民間レベルの中で占めるヒコーキの役割について考えると永遠に縮まらないのではと思ってしまう。

軍用面は言うまでもなくアメリカの民間・市民レベルのヒコーキとの関わりは圧倒的である。それは日常生活から趣味にまで広く浸透している。国土面積も大きく影響しているのかもしれないが、日本ではじぶんが少年の頃からさほど進展しているとは思えない。個人的には残念なことのだが、この国はヒコーキをあまり必要としない文化なのかもしれない。

さてこの映像の中に出てくるトランプ氏なのだが、昨今報道される遊説中のトランプ氏とは全く表情が異なり穏やかだが理知的?なビジネスマンという趣がある。話している内容は英語なので理解できないのだが、こっちの方が普段のトランプ氏なのではないのかという雰囲気を感じさせる。

どちらにしても、このビデオは日本とアメリカの社会経済の規模と質の違いを考えさせてくれる。仮に日本がアメリカの規模に近いGDPを達成したとしても随分と趣の異なる文化の社会になるのではないかと想像する。また、そうあるべきだとも考える。さりながら、アメリカはなお興味深い文化を持つ国であることに間違いない。11月の大統領選挙は注目である。日本としてはトランプ大統領という筋書きも念頭におかなければならないのだろう。

真実は小説よりも奇なり

  • 2016.01.30 Saturday
  • 15:25
大久保 潤・篠原 章著『沖縄の不都合な真実』(新潮社)

沖縄に関する初めての本。序章に、多くの人が持つイメージと異なる沖縄が描かれている、と記載されているがまさにその通りだった。悲惨な沖縄戦を経て、戦後は米軍基地に抑圧され、復帰後は本土との経済格差に苦しみながらも、基地から解放される日を待ち望んでいる海のきれいな南の島−これがじぶんの沖縄に対するイメージだ。これは多くの日本人の持つ沖縄に対するイメージに近いのではないだろうか。

しかし、映画「スターウォーズ」ではないが、沖縄のイメージにもライトサイドとダークサイドがある、と著者らは主張する。本書は、一般的なイメージとは異なる、知られていない(報道されない)側面があることを教えてくれる。あまり報道されない側面の正誤はともかくとしても、なぜそれらは隠蔽されてしまうのか。

著者の結論から言えば、沖縄のある種のエスタブリッシュメント(支配階級)の存在だという。そして、ある種のエスタブリッシュメントとは既得権を守るためには手段を選ばない旧体制の知識人・政治家・組合幹部・財界人である、と著者は確信する。この力が一般的な沖縄のイメージを創出し、ダークサイドが表面化しないように働く。さらに、沖縄のマスコミ、知識人もエスタブリッシュメントに協調しているのだという。まさに、フォースのダークサイドである。

このダークサイドは、沖縄が「公務員優位の階級社会」であり「貧困の島」であることを、「反戦平和の島」「癒しの島」というシールドで覆い隠す。言うまでもなく、エスタブリッシュメントの目的は富と権力である。そして、このエスタブリッシュメントを支えているのが国の「振興資金」であり、復帰以来11兆円が投じられてきたのだという。しかも、そのほとんどが公共事業?に使われたらしいのだが、沖縄の産業振興の役には立たなかったようだ。

著者は、この沖縄の構造 -「公」による「民」の支配 - には歴史的背景があるとする。薩摩藩が琉球(沖縄)を支配下においた頃、琉球には士族(サムレー)と百姓(ハルサー)があった。しかも、人口の六割のハルサーが三割余りのサムレーを養う構図になっていたという。「公」優位は沖縄の伝統というわけだ。

この著者の読み解きがどれほど妥当なものなのか、じぶんには分からない。しかし、常に「真実は小説よりも奇なり」という言葉が念頭にあるじぶんにとって、エーッと思えるほどのモノの方が真実に近いのではないかという誘惑にかられる。このことだけでも小説の題材になりそうな話である。個人的な見解では、著者はダイレクトに表現してはいないが、沖縄のエスタブリッシュメントは目的のためなら、反戦、反米、反政府、反基地、場合によっては親中など何でも利用するということか。

その他、沖縄には「構造的沖縄差別論」とか「琉球独立」とかやっかいな話がある。さてさて、沖縄には二十年近く前に一度しか訪れたことがない。ひめゆりの塔など負の歴史遺産も見学したが、宿泊したリゾートホテルで見た夕陽に感動、そしてテーマパークで見学したエイサーに感激したというようなことが強く記憶に残っている。日本に沖縄という島があるということを”誇り”に思うことができた旅だった。しかし、沖縄の人々にとって、こんな本土人の感傷はうれしくもないことなのだろうかと懸念する。

もし、本書に書いてあること全てが正しいとは限らなくとも、表現されているような構図があることが否定できないとするならば、じぶんの沖縄に対するイメージは大きく変わらざるを得ない。先日、台湾の総統選挙が終わった。民主進歩党の蔡英文氏が総統に選出された。国民党政権下の台湾にも強い「公」優位の構図があることを知った。お隣にある大国も共産党独裁の国?であり圧倒的な「公」優位の構図であることは言うまでもない。

さてそれでは、この国において「公」「民」平等の構図になっているかと問えば、若干の危惧の念がないわけではない。しかし、中国、台湾に見られるような圧倒的状況でないことは言える。しかしながら、この国の中に、歴史で習うような「公」による「民」の強い支配が現に存在するとはショックだった。

ともかく、沖縄が一般にメディアで報道されていることだけからでは窺い知れない複雑な問題を内包している、ことを忘れないようにしなければならないことは確かなようだ。

関連投稿:日本人の”リアリティ(現実性)”が問われる (2012/10/30)
 

沖縄の不都合な真実沖縄の不都合な真実
2015年7月 新潮社発行(amazon
著者 大久保 潤
篠原 章


 

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