クールな企業?の泥仕合

  • 2017.12.08 Friday
  • 22:23

アマゾン製の機器から youtube がブロックされるというニュースが流れた。運営会社のグーグルが、自社製品を扱わないアマゾンに対する対抗処置ということらしい。両社がITサービスの分野で競合関係にあることは周知だが、こんな泥仕合の状況になっているとは知らなかった。

 

 

商売の自由とは言え、ちょっと陳腐にすぎないかと思う。甘い感想かもしれないが、IT先端企業のイメージに相応しくないと思う。アメリカ・ファーストに続いてアマゾン・ファースト、グーグル・ファーストということか。自分のことが一番に大事なのは個人、企業、国家でも同じことだが、それは共通の観念として内に収め、互いに協力できる点を探すというのが未来創造会社のプライドというものだろう。

 

と書生風の御託をならべてしまったが、じぶんが初めてパソコンに触れた1980年はビル・ゲイツもスティーブ・ジョブスも未だビッグではなかった。ひたすら未来創造に夢を託して邁進していたのだと思う。時代が変わったとは言え、このスピリットは生き続けくれることを願う。

 

 

今回のグーグルの決定は個人的に大きな打撃である。わが家のTVはアンテナには接続されておらず、アマゾンの Fire TV Stick を通してインターネットに繋がっている。これで視聴できるサービスの中で、実は youtube がもっとも気に入っている。いま youtube に接続しようとすると、このデバイスでは2018.1.1より視聴できなくなるとの警告表示が出る。ガビーン Σ( ̄Д ̄;)がーんっ! 残念。

 

正直参ったなという気持ちだ。しかし、そうなったらそうなったで仕様がないと思っている。何とかなるさ、何とでもなるさとも思っている。それにしても、 youtube の音楽コンテンツは my TV とって大変に貴重な存在だった。

 

個人も企業も、そして国家もオンステージではゲームのプレーヤー、問題は泥仕合(試合)だけは勘弁してほしいということだ。

ウォーキング・人生

  • 2017.12.03 Sunday
  • 20:10

お天気と時間が許す限り、毎朝一時間程度のウォーキングをする。耳にアイフォンのイヤホンをして、ポッドキャストのトーク番組を聞きながら。いつも同じルートだが、季節ごとに道端の草花、そして周囲の木々の装いが変わる。また、その日の体そして心の様子で歩きの調子も変わる。さらに、耳から入ってくるトークの内容に共感したり反発したりしながら脳内もざわめく。

 

さらに、15年以上前に興味を持ったナンバ歩き(wikipedia)から進化?した”肩と腰で歩く”という歩行法を、時に意識しながらウォーキングする。折々に目につくものに注目しながら歩く。ウォーキングは家から始まり家に戻るが又次の日に歩き始める。人生の目的はこの歳になっても解らないが、近頃、ウォーキングって人生のミニチュア版ではないかと思いついた。

 

人生ってこんなもんじゃないか、そんな思いがする。命あるかぎり生きる(歩く)。どこで終わりを迎えることになるのかはわからないが歩き続ける。ウォーキングをしていると他のウォーキング者に出会う。ジョギングする人、小走りの人、手を振る人振らない人、ベンチで休む人、話をしながら歩く夫婦、等々。中には大会、あるいは記録を目指し走り、歩いている人がいるかもしれない。しかしそれも途中経過にすぎないのではないか。

 

先頃、孫を医者にするのが夢という先輩格の男性に出会った。その教育費を稼ぐために八十まで働きたいと語っていた。そう言えばパート先にも元気な年上の男性がいる。じぶんが定年を迎えた十年前、パートとは言え、じぶんが七十まで仕事をするとは考えてもみなかった。成り行きでもうしばらく続けることになりそうな状況だが、これは本当に想定外のセカンドライフになった。しかし考えてみると、ずっと想定外の人生を歩んできたような気もする。

 

一方、ほぼ思い通りの人生を歩んできたという人もいると想像する。さてどんな満足感に浸っているのだろうか、こっちは全く想像の域を越える。もし人生にバランスシート(貸借対照表)というものがあるとすれば、じぶんのそれは中味は別としてもスケールの小っちゃなものであることは間違いない。そして、そのことをちょっと残念に思う気持ちがあることも間違いない。

 

しかし、ここまでくればもはや最後まで歩き通すしかないと明らめる。

 

 

 

 

 

イミテーション・ゲーム

  • 2017.11.26 Sunday
  • 14:54

近頃じぶんが見入ってしまうような映画、ドラマが減ってしまったが、これは面白かった。イギリス映画『イミテーション・ゲーム』だ。2014年制作、日本では2015年に公開された映画、日本の公開前から注目していていたのだが、近くに上映映画館がなかったこともあり映画館で観ることができなかった。

 

 

いつかレンタル・ビデオかネットで観ようと思っていたのだが、つい公開から二年後になってしまった。こういう映画はあまり一般受けしないのかもしれないが、アラン・チューリングとコンピューター誕生というテーマに関心あるじぶんにとって、とても興味深い映画だった。映画のストーリーがどこまで真実を基にしたものかどうか分からない。しかし、アレンジされているではあろうがフェイクなものは入ってないと思っている。

 

ネット配信で観たのだが有効48時間内に二回観た。じぶんの人生で、映画でもビデオでも続けて二回観たというのは極々稀なことである。今のじぶんにとってこの映画のテーマ、シナリオ、ストーリーが完璧に合致したものであったということだろう。アラン・チューリングは、じぶんにとって、「数学」と「科学」そして「工学」の境界を摸索していた数学者としてとても興味ある人物だ。

 

今のAI研究はまさにこの境界周辺が重要な研究対象なのではないかと推測する。映画は第二次大戦にドイツが開発、使用した暗号機「エニグマ」の暗号文を解読するために、イギリスで極秘に結成されたチームのはなしである。チューリングはこのチームのリーダーとなる。

 

エニグマの暗号設定は毎日24時にリセットされて、朝6時から新たにその日の暗号無線が飛び始める。メンバーが暗号解読に費やせる時間はこの6時から24時までの16時間である。他のメンバーがパズル解読の能力を活かし作業を進める中で、チューリングは機械に対抗するには機械しかないと独自の解読機の設計と組立てに没頭する。

 

メンバーとの葛藤を乗り越え、結果、エニグマの解読に成功する。そしてここから、どこまでが真実なのか判断が難しい都市伝説的な話になってくる。エニグマ解読に成功したことを敵に悟られないで、かつ解読データを活用するという統計を駆使した極秘作戦?が始まるのである。この中で、心ならずも味方がその犠牲になる側と恩恵に浴する側に分かれることになった。イギリスはこれらを長い間、明かさなかったということになっているのだが、あり得ることと思いながらも、事の信憑性は不可解だ。

 

近代の戦争に関わる映画を見ていると、欧米と日本の文化の違いが見えてくる。旧日本軍は、特に太平洋戦争時において、兵站と情報には疎かったように見える。映画にあるようなヨーロッパにおける情報戦を考えると、この点に関しては大人と子どもほどの差があったのではないかとさえ思えてくる。やはり、戦争を含む近代文明はヨーロッパ発のものであったとつくづく実感する。

 

もう一つ映画の中で語られていることはチューリングが同性愛者であったということである。今であれば特別なニュースバリューなどない話なのだが、当時のイギリス社会では同性愛が罪に問われた。戦後、チューリングは司法にこのことを問われ薬物治療を選択することになる。このことが大きく関係しているのではと想像するのだが、チューリングは1954年に自殺(事故?)する。

 

映画はチューリングがなくなる前でエンドを迎える。エピローグは、より進化した自作の自動計算機を前に、諦めと満足を含んだ複雑な表情のチューリングを映してクローズとなる。時代とは言え、一人の天才的な数学者の不幸な死は、この世の無常を物語っているように思え、やるせない気持でいっぱいになった。

 

因みに、映画のタイトル「イミテーション・ゲーム」はチューリングの論文から引用されたもので、機械と人間を区別できるかという所謂チューリング・テストを称した言葉のようだ。しかし、映画の中のチューリングを取り巻く社会、人々描く人生模様を見ていると、「イミテーション・ゲーム」(模倣ゲーム)がこの作品にぴったしのタイトルに思えてくる。

 

Alan Mathieson Turing
wikipedia

思えば遠くに

  • 2017.11.21 Tuesday
  • 21:36

光陰矢の如し、英語だとTime flies 、とはよく云われることだが、これは歳を経るほどに身にしみて実感するようになってくる。 しかし、これは近々の事柄を対象にしている場合で、逆に時間を遡って子供の頃を思い返してみると ”思えば遠くに” という感慨にふけることになる。

 

これは実に不思議な感覚で、まるで宇宙の現象と反対のようにみえる。宇宙はビックバン後に膨張を続け、しかも加速度的に、最遠の境界は自分?から猛烈な速度で離れつつある。しかし、無限の宇宙は永遠に拡散し続けられるとしても、個人の人生はあっという間に終点に到達する。

 

人の世に先があるのかどうかは分からない。昔から色んな言い伝えがある。しかし多くの人がそうであろうと推測するが、じぶんもその何かを信心するまでには至っていない。この歳になると宗教とまでは言わなくとも宗教的なものに関心が向く。若い頃は哲学、科学に対するかのごとく宗教に興味を持った。しかし宗教の本質は哲学、科学的なものとは異なり検証を拒否する。

 

それでは宗教は薬のようなものか、ケースによってその成分が効き、又効かない場合もある。しかしこれも又、喩えとして適切とも思えない。薬の種類ほどに宗教を用意するのも難儀だろう。となれば、やはり老舗の宗教に問いただしてみるのが近道か、それなら日本人には仏教だろうと安易に決めてかかる。

 

ちょうど手元に、とても手ごろでソフト?な仏教の本があった。どちらかと言えば、言葉(言語)に対する興味からしばらく前に買った新書だったのだが、タイミングよく思い出して読み始めた。 大來尚順 著『超カンタン英語で仏教がよくわかる』(扶桑社)である。著者は現役の浄土真宗本願寺派大見山超勝寺僧侶(女性)である 。仏教入門としてはちょっと物足りない内容の感じもするがとてもユニークな本である。

 

超カンタン英語で仏教がよくわかる

発行 2016年7月(扶桑社:amazon

 

著者  大來尚順

浄土真宗本願寺派大見山超勝寺僧侶。寺子屋ブッダ講師。1982年、山口県生まれ。浄土真宗本願寺派僧侶でありながら、通訳や仏教関係の書物の翻訳なども手掛け、活動の場を幅広く持つ新世代の僧侶。龍谷大学卒業後に渡米。米カリフォルニア州バークレーのGranduate Theological Union/Institute of Buddhist Studies(米国仏教大学院)に進学し修士課程を修了。

 

本書には経典が漢語と英語と日本語で書かれている。勿論最も難解なのは漢語なのだが、英語と日本語を比べると、無論日本語の方が分かった気になれる。しかし面白いことに、英文を読んでアーッと思うところがあるのである。何とも理解するというのはやっかいなことである。この辺りのことはAI技術でもやっかいなことになっているのではないだろうか。

 

何でも言語化しようとするのが人間だが、宗教にとって言語化というのはもしかして鬼っ子なのかもしれない。言語化すればするほど本分から遠のく。そんな気がする。なぜお経は唱えるのか、最終的に経典も漢語のまま感じ取ることが本分なのかもしれない。

 

舎利子 色不異空 空不異色

色即是空 空即是色

受想行識亦復如是

 

O Shariputra,form is no other than emptiness,

emptiness no other than form;

Form is exactly emptiness,emptiness exactly form;

Sensation,conception,discrimination,awareness

are likewise like this.

言葉の進化と今

  • 2017.11.13 Monday
  • 15:16

他所でTV番組の音声が聞こえる。バラエティ番組でゲストの語りに反応する出演仲間たちのヘーッという言葉が聞こえてくる。番組を盛り上げようとする意図がなのだろうが、それがデフォルメされてヘーッ、ヘーッ、ヘーッと連発して聞こえると耳触りになってくる。また別の日に他の番組では、ゴリラがフッフッと鼻を鳴らすような発声をすることがあるが、これは敵対心がないことを伝えようとするものだと解説していた。

 

なるほど、ヘーッもフッフッも仲間とのコミュニケーション手段なんだと気がついた。そもそも言葉の始まりはと考えれば、仲間に危機を伝えるための、あるいは外敵を威嚇するための奇声だったのではないかと想像する。そう考えると、ヘーッやフッフッはキャー(奇声)に比べてより言葉の進化の過程を経たものであるように思えてくる。

 

とは言え、ヘーッやフッフッも言葉の進化の歴史の中ではかなり初期の段階のものに違いない。これに対して、このことはじぶんも今まではっきりと認識してはいなかったのだが、論理性が言葉の進化の過程で最後発の機能ではないかということが脳裏を過ぎった。

 

言葉は文字(記号)の発明によって論理性の進化を早め、その機能を拡大してきたと推察される。そして論理学という学問分野が形成されるまでにいたったわけだが、個人的に論理と言えば数学がその象徴である。そして、じぶんの数学に対する関心がこの論理性にあることを再認識できた。さらに、言葉が論理性を持つようになったのはどの時代なのかという興味もあるが、論理性そのものが明確に定義されるようなものでないことも改めて認識した。

 

論理性は自然の中に完成した形で在る、と青年期までは思っていたが歳を重ねるごとに曖昧になり、今は論理性も科学性も自然の中にあるものではなく、別途の情報空間の中に在るものではないかと考えるようになった。そして人間は、時に、その論理性、科学性を自然・社会現象を測る物差しとして利用するという幸運に恵まれたのである。

 

どっちにしても、言葉の持つ論理性とは本来の言葉の機能を超越した甚だ抽象的な特性なのである。そして今、我々が使う言葉はヘーッとフッフッに象徴されるような旧機能と数学に象徴される新機能(論理性)が合わさったものになっている。しかし見るところ、論理性は普遍性はあるが対象になる範囲が限定的で理解が困難なため、普段に使われる言葉は大半が脅かす、宥める、おもねる等の旧機能の特性を多用したものになっている。

 

一方、言葉を使う者には自分の言動に論理的裏付けがあるという思いこみがある。この一年、主にネットによる情報で、政治家を含む言論人・メディアのコメンテーターなどの言動を見てきたが、結局は、自作の物語で受取る側の好き嫌いを煽り扇動しようとするだけなのである。しかし、これが言葉が持つ本来の特性なのだと知るべきことでもある。

 

物語には人を動かす力がある。それは人を勇気づけるというような側面ばかりではなく、不可思議なことではあるが、物語に書いてある事を実現させるために行動するという動機づけをしてしまうことも否定できないのである。

参照: 東日本大震災は人工地震だった? (2011/04/30)

 

しかしながら、社会の変化と共に判断を論理に委ねた方がよいケースが増えているのは確かだ。しかし、情動のざわめきの中でこのことに気づくことの困難さは計り知れない。そして又、このことによる社会的損失の大きさも計り知れないのである。取りあえずアカデミックな話は置くとして、我々が論理性をいかに身につけるかということは社会的に重要な課題なのである。

 

   wikipedia

 

 

 

 

 

 

復活するアイボ!!

  • 2017.11.07 Tuesday
  • 21:23

ソニーのペットロボット・アイボが12年ぶりに復活する。アイボ(wikipedia)は1999年に発売、2006年で発売中止となった。じぶんも発売当時は銀座のソニービルまで見にでかけた。よくぞ商品化したものだと感心した。初めは高価なおもちゃという印象が強かったが、累計で15万台販売されたというのは驚きだ。

 

https://aibo.sony.jp/

 

しかし今思えば、アイボ(AIBO)はソニーの先進性の象徴だったように思う。後にソニーはリストラ策の一環でロボット事業から撤退することになるわけだが、現在のAI電子機器の振興を見るにつけ、本当に残念なことだったと思わざるを得ない。ソニーはこの時にソニースピリット?をも置き去りにしてしまったのかもしれない。

 

じぶんは、ロボット技術、カメラ技術、通信技術に長けたソニーは今注目のドローンのパイオニアになれたのではないかと考えている。はなはだ残念至極に思う。

 

関連投稿: オタクの世界へ (2015/02/15)

 

個人的に数年前からインターネット・デバイスとしてのロボットに注目してきた。日本では小型のヒト型ロボットやペットロボットなどが発売され、最近のニュースではAIスピーカー(スマートスピーカー)が話題になっている。インターネットとのインターフェースの役割を担うロボットが多い中で、アイボ(aibo)はこれらの製品とは異なる路線を提案しているように見える。

 

アイボ(aibo)もインターネットに接続されるようだが、「心」というべき本体のデータを定期的にバックアップ(複製保存)することやクラウドで解析した情報をもとに成長させることに主眼を置いているようだ。結果としてアイボ(aibo)と飼い主(オーナー)とのコミュニケーションに関わる膨大なデータがクラウドに蓄積されることになる。

 

ソニーが最終的にどこに向かおうとしているのかは分からないが、個人的な期待として、これらのビッグデータを活用することによるAIロボットの進化への寄与は言うまでもないが、創造主である人間の「心」の解明(解釈)に役立てられるのではと思っている。

 

アイボ(aibo)は特に高齢者層にニーズがあることが予想されるので、遊び相手というより、むしろ心の繋がりを求められるようになるのではないかと想像する。これはいま高齢者層に居る人間の一人として確信に近いものがある。人間と機械(AIロボット)の間に本当に心の繋がりが成り立つのか、生命とAIロボットとの間にあるものは何か、などは認知科学の大きな関心事であろう。

 

AIロボットの社会進出という現象は、日本の産業界が目指すところであることを示唆し、また個人的には、老化していく自らの心身を支えてくれる存在になってくれるのではないかという切実な希望である。あるいは、人が人を支えていくという、かつては普通にあった人情が復活する瀬戸際となる。

 

関連投稿: オタクの世界へ (2015/02/15)

生きがい不要の人

  • 2017.11.03 Friday
  • 14:25

訳ありで休業中?のお笑い界の大御所S氏が週刊誌の取材に応じた。その時の言い分が「生きがいは要らない。金と仲間と筋肉があればいい」というもの。今はちょっと筋肉体質らしい。しかしネットでこの話を聞いた時、意味は不明だが正直参ったと思った。今のじぶんには全くリアティがなく、この先も有り得ないケースなのだが、この言い分に反論できない。

 

正しいとか間違っているとかの話ではなく、じぶんの意識を超えたコメントだ。S氏はまだ還暦過ぎたばかりらしいが、じぶんとは全く異質のキャリアで、少しは共鳴するところがあるのかどうかさえ分からない。しかし、そのコメントに妙な説得力を感じるのである。

 

確かに、筋肉は分からないが、「金があり仲間がいれば楽しい人生」というのには反論のしようがない。やはり、S氏の言う通りのようにも思える。しかし、この命題?が十分条件も備えているのかと自問自答すればNOであろうとも思う。

 

年々増加するシニア世代の人口は社会問題である。ただ、 十把一絡げに高齢者を扱ってしまうのはこれまた問題であろう。S氏のコメントはそのことを物語っている。恵まれていると安易に表現していいのかどうかは分からないが、S氏のようなセカンド・ライフを送っている人々がいることも事実なのである。

 

一方、 S氏のライフスタイルと大きくかい離した人生を送っている人々がいることも確かであり、むしろこっちの方が多数を占めるのではないかと勝手に想像する。そして、こちら側の人生には「生きがい」が必要(不可欠?)になってくるのではないかと思ってしまう。

 

しかし改めて考えてみると、この「生きがい」という言葉も曖昧模糊としている。自分の前にあって引っ張ってくれもの、自分の後ろにあって押してくれるもの、或いは今の自分を支えてくるものという解釈で良いものか。人それぞれに「生きがい」もピンキリかもしれないが、それは金がなく仲間がいなくとも何とか生きることを続けさせてくれる存在であるのかもしれない。

 

 僕は二百三十度を維持するために羅針盤を操作する男だ。その僕はまた、プロペラのピッチも、油の予熱も調整する。これ等はすべて、直接な、そして健康的な心労だ。これ等は世帯の苦労であり、気軽な日課であって、人の気持ちを若々しくする。この日課のおかげで、家の中はさっぱりし、床板はてらてらし、酸素は完全に供給されるのだ。事実、僕は、酸素の供給状態を見守っている、理由は僕等が急速に上昇しているからだ。すでに、六千七百メートルへ来ている。

 

サン=テグジュペリ著(堀口大學訳)『戦う操縦士』の中のずっと気になっている一節である。これも「生きがい」の一つの形態なのではないか、とじぶんは思うのである。

 

どっちにしても、生きがい不要の人生と生きがい頼りの人生はどっちも百とは言い難い。そもそも、どっちかを自分で自由に選べるものでもないだろうし、双方を交互に繰り返してしまうような人生もあるのかもしれない。結局、終わりまで待つしかない。

近代経済学と物理学の因縁

  • 2017.10.29 Sunday
  • 10:59

長沼伸一郎著『経済数学の直感的方法 マクロ経済学編』(講談社ブルーバックス)

 

特に意図したわけではなく、著者の直感的方法シリーズ三作を発行順ではなく逆順で読む結果になってしまった。いま本書の途中(第3章 上級編)だが、頓挫?している。そして、著者のシリーズ第一作『物理数学の直感的方法』から読むべきだったかもしれないと内心後悔している。

 

じぶんの学び直しのテーマの一つである経済学は相変わらず不可解そのものである。しかし、著者の提唱する直感的方法はこれまでの解説本とは一味異なるものだ。それは著者が理系(物理、数学)の視点から経済を読み解こうとしているからだろうか。と言うより、著者の説の通り、我々一般人の脳裏からアダム・スミスから始まる近代経済学そのものが物理を手本にして誕生したものだという認識が抜け落ちているということではないか。

 

じぶんには、”世界を構成する自然と人間社会は似て非なるモノ” という感覚がある。これは一般的にはどうなのかは不明だが、本書を読んでいると専門家、一般の人にとってもこの辺は曖昧なままになっているのではないかと想像する。雑な表現かもしれないが、自然現象は神の意志の反映であり社会現象は人の意志の反映されたものという解釈もありのような気がする。そして近代において、物理学も経済学も数学という言語によって記述されてきたことは歴史的事実だ。

 

著者は、特に日本の科学史の特殊性から、我々日本人が現代の経済学を理解しにくいのは「物理」という思想が欠落(苦手)しているからではないかという説を展開する。そのために、数学的に理解出来ても最終的に納得した気になれないというのである。じぶんには「経済学の思想的背景が物理にある」という捉え方は新鮮に感じられた。

 

近代になってニュートン力学、微積分法によって天体の均衡した運動を説明できるようにったが、この背景には「神の意志」を解明しようとする西洋の思想背景があった。これに倣ってアダム・スミスに始まった近代経済学も「神の手」による一般均衡理論を核とするものであったことは示唆的である。我ら多神教のアジア人?には分かり難い部分であるのかもしれないが。

 

しかし、物理としてのニュートンの天体力学にも「三体問題」など計算不能の箇所もあり、近似的にしか記述できないという弱点がある。著者は、先人たちはこの力学を経済学に導入する時にその限界を見誤った(?)と言う。さらに理論において微積分法(微分方程式)を本格的に活用できず、後に現実の経済問題を解決することができなくなり、ケインズ(マクロ経済学)の登場を待つことになる。

 

 経済学には、モデルに即して考えるサイエンスの部分と、現在の経済状態にはどのモデルが適合するのかを見抜く『アート術』の部分がある。そして前者の部分に関しては人材を量産できるが、後者は稀少な才能によるしかない。(ケインズ

 

著者が紹介しているケインズの言葉なのだが、ケインズ経済学(マクロ経済学)の真髄とも思える。ケインズはミクロ的原理とのつながりなどを考えずに、最初から現実の経済政策にマクロ的なレベルで直接使える経済学を大づかみな形で(帰納法的に)作りあげようとした、と著者は解説する。一方、均衡論で演繹的に経済を記述しようとした考え方はミクロ経済学として主にアカデミックな学問として残った。

 

「ミクロの話をつなげてもマクロの話にはならない」というケインズ流の考えは、後の「複雑系」「分子生物学」に通じる面もあり、じぶんには時代を先取りした画期的なものであったように思われる。しかしこの後、ミクロ経済学のリベンジが始まるのである。戦後、経済学のメインステージは米国に移り、そこでミクロ経済学は新たな発展を遂げることになる。

 

そして、米国の悲願であったと著者が説く思想「ミクロ的手法でマクロのギャップを埋める」を達成することになったのが最新のマクロ経済学「動的均衡理論」である。著者は、これは物理学の「解析力学」のツールを多用した高度なものであると言い、このことによりマクロ経済学全体についてミクロ的な基礎原理から演繹的に作りあげることができるようになったと解説する。

 

しかし、この「解析力学」も前述の「三体問題」には歯が立たなかったが、体系全体をきれいな形に整理し直すことができた。これが経済学にも役立ったということのようだ。ではこの「解析力学」を基にした「動的均衡理論」が現実に役立たないのかと言えば、著者それはNO!だと言う。

 

経済戦争の本質が変化したと著者は言う。かつての製造業中心の経済が、資金の流れを誘導する主導権争いのゲームに変わり、経済学はそのための武器としての意義が強くなっているのだと言う。しかも、この「ミクロでマクロを制圧する」思想はコンピューターの技術思想「物事を単純なミクロ的ルーチンワークに還元し、それを無数に繰り返して大量に積み重ねることでマクロ的な全体像を結実させる」にシンクロする。こうして「動的均衡理論」は使えるウェポンになった。

 

さて、それではその「動的均衡理論」の実体はというと、以下ような表現は著者の独断場ではと思われるのだが、理系と文系をまたがる壮大な思想の系譜があるのだと言う。

初代  = フェルマーの原理
2代目 = 「解析力学」
3代目 = 「最適制御理論」
4代目 = 最新マクロ経済学の動的均衡理論 

 

4代目が文系に該当する理論だが、自然現象と社会現象は似て非なるモノという感覚を持つじぶんにとって、これは革命的?な啓示である。取りあえず、じぶんは上の系譜を「フェルマーの原理」の思想の流れとして考えることにした。因みにフェルマーの原理とは「光はその通過時間が最小になるような経路を選んで通る」ということ。

 

じぶん流に「フェルマーの原理」の思想を解釈すると次のようになる。光のみならず物も、そして社会的事象も含め、その移動経路(変動過程)はある量(変数)が最小、もしくは最大になるような経路が選ばれる。 

 

上記系譜に関する著者の補足によれば、初代と2代目までは理学的だが3代目は工学的視点へと移行し、最小化(最大化)すべき量を人間側が勝手に設定できるようになったとする。そして、4代目で経済学へと転移するわけだが、ただここで理系と文系のギャップが現れる。じぶんには、文系(経済)は理系に比べ主体とすべき変数が判りにくいという印象がある。

 

さて「動的均衡理論」については、本書の第2章中級編、第3章上級編に解説されているのだが残念ながら消化不良でじぶん流に解釈するところまで行っていない。これを納得できるようにするには数学、特に微分方程式の理解が必要だというところまでは分かるのだが、さらに個人的に理系と文系の境界を均すことができるかという問題も横たわる。

 

どちらにしても、今回も読破できずに休止になりそうだ。しかしながら、やはり経済学はやっかいだという気持ちに加えて、ひょっとして何か本質的なものに触れているのかもしれないという感触がある。まだ好奇心は失せてはいない?ので、余りある人生とは言えないのだが再チャレンジできればと思っている。

 

関連投稿: されど統計学! (2017/01/16)

 


 

経済数学の直感的方法 マクロ経済学編

2016年9月発行(ブルーバックス:amazon

 

著者 長沼伸一郎

1961年東京生まれ。1983年早稲田大学理工学部応用物理学科(数理物理)卒業、1985年同大学院中退。1987年、『物理数学の直観的方法』の出版により、理系世界に一躍名を知られる。「パスファインダー物理学チーム」(http://pathfind.motion.ne.jp/)代表。著書に『物理数学の直観的方法 普及版』(講談社ブルーバックス)、『一般相対性理論の直観的方法』『無形学世界の力学と戦略』『ステルス・デザインの方法』(以上、通商産業研究社)、『現代経済学の直観的方法』(電子書籍として上記著者サイトで販売)がある。

衆議院選挙結果に想う

  • 2017.10.23 Monday
  • 15:18

第48回衆議院総選挙が終わった。自民圧勝?の結果と言えるのだろうか。個人的には、取りあえず良しの結果だ。ただ、それで嬉しいとか愉快だとかの感覚はない。しかし若いころに比べて、今の方が政治/政局が気になって仕様がない。

 

かつてから、我ら世代は左寄りが多いとの解釈があるが本当のところは分からない。確かに若いころは、じぶんも心情的に左寄りだったかもしれない。しかし今は、この解釈で良いのかどうかも不明確なのだが、保守支持の立場にいる。その意味では、今回の選挙結果は ” 諾 ” とすべきであろうと考えている。

 

しかしながら、その結果にも関わらず気分がスッキリしないのはなぜだろうか。それは、スポーツに譬えれば、この選挙が正々堂々と戦われたという印象に欠けるからではないか。また、選挙が政治家だけのものではなく、社会全体が関わる大イベント?であるにも拘らず、投票率が最低ラインにあるというのには言葉がない。台風の影響下とは言えこの無関心さには驚愕する。じぶんが青年期の頃から期待していた成熟した社会が遠ざかっているような気さえする。

 

じぶんは現政権(与党)を原則支持する立場から政治を見ているが、それには野党の力(機能)が本当に重要なのである。現政権に少なからぬ誤謬、錯誤があることは否定できない。それ故に、野党の力が不可欠になるのである。さらに必要な時に政権を担える野党の存在が理想である。しかし取りあえず、こんな考えは世間の非常識だとは思うが、現政権・与党を戒め、時に支える虚心坦懐の野党が欲しい。

 

この国の未来は誠実な与党と知的な野党にかかっている。まだ現実と乖離しているがこれを目指し切磋琢磨してもらいたいと切に願う。また若いころから考えているのだが、選挙では立候補者が有権者に頭を下げてお願いするのが常識になっているが、本来は有権者が立候補者に頭を下げてお願いする形が筋なのではないだろうか。

 

リカレント教育という制度のはなし

  • 2017.10.20 Friday
  • 17:28

当ブログのメインテーマは「学び直し」である。定年後の人生を考えた時に思いついた言葉である。じぶんの人生の繕いをするというのが個人的な目的なのだが、併せてこれは社会的な課題なのではないかということを当時から考えていた。しかも国家的な課題であろうと。

 

今回の衆議院選挙で自民党から「リカレント教育」という政策が提示された。簡単に言うと、生涯教育とか学び直しのことを表すようだが、本来はより明確な定義を持つ用語のようだ。

 

 義務教育または基礎教育の修了後,生涯にわたって教育と他の諸活動(労働,余暇など)を交互に行なう教育システム。スウェーデンの経済学者ゴスタ・レーンの提唱した概念で,1970年経済協力開発機構 OECDの教育政策会議で取り上げられ,研究が進められている。スウェーデンやフランスの有給教育制度,アメリカ合衆国のコミュニティ・スクール,日本の夜間制社会人大学院,放送大学などがその例である。青少年の社会参加を早め,過重な教育負担や教育内容の世代間較差を解消するなどの効果が期待される。しかし,生涯のどの段階にどのような教育を配置するか,労働などを中断して教育に参加する条件をどう確保するか,教育経費の増大にどう対応するかなど,具体化への課題は多い。

(ブリタニカ国際大百科事典)

 

じぶんはこの用語「リカレント教育」を知らなかった。しかも既に半世紀前に国際的に提唱されていたというのは驚きだ。ブリタニカの解説では日本の放送大学が例としてあがれているが、これにはちょっと違和感を覚える。放送大学については、国民に生涯教育の機会を与えたというよりも、国民に広く大学卒業資格取得の機会を提示したということではないかと思っている。

 

しかし、リカレント教育が提示するものはもっと社会活動、問題解決に即した教育システムではないかと思う。ブリタニカの解説文の中では、最後の ” 生涯のどの段階にどのような教育を配置するか,労働などを中断して教育に参加する条件をどう確保するか,教育経費の増大にどう対応するかなど,具体化への課題は多い ” という表現が本筋だと考える。じぶんが関心があるのもこちらの方だ。

 

特に日本は高齢化社会の最前線?にあるようなので、来る世界的な高齢化社会に関する問題解決に世界に先んじて辿り着くことが出来たとしたら、それは国際社会へのノーベル賞的貢献ではないかと思う。そして、じぶんはそのキーがリカレント教育と経済システムのデザイン力にあると考えている。

 

次の政権には是非この政策を実行してもらたいと思う。定年を機に思い描いていたことが実現に向かう兆しが出てきたことはとても嬉しいことである。そして、じぶんがあと十年若かったらと残念に思う気持ちもある。

 

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