高齢化社会がリアルに

  • 2017.05.17 Wednesday
  • 20:43

じぶんのことは棚に上げ、街場に高齢者が多く見かけるのに改めて驚く。まだ足取りがしっかりした人もいれば、ちょっと足元があやしい人もいる。じぶんの住むローカルの小さな市では女性の高齢者の自転車走行が目立つ。車を走らせていると、前方の自転車が急に道の反対側に横断したりすることがあってドキッとする。

 

高齢化社会と言われて久しい。またも、じぶんのことは棚に上げ、最近そのことを本当に実感するようになった。パート先の公共施設でも、このところ認知症と思われる人を見かけるようになった。二ヶ月ほど前、施設の休館日に、高齢者の車が駐車場入り口の鉄製のチェーンを車でぶち切るという事故があった。このパートを始めて6年近くになるがこんな事は初めてだ。

 

高齢者による事故、事件などのニュース報道があると、じぶんは根拠のない共同責任感のようなものを感じてしまう。われわれのような高齢者は存在するだけで社会のお荷物というような側面がある、じぶんはこのことを認識すべきだと考えている。再三にわたりじぶんのことは棚に上げ、本当に高齢化社会はこの国にとって深刻な問題ではないのかと懸念する。

 

4、5日前の11時頃、バーバーの帰りに駅前広場のベンチにすわり、コーヒーを飲みながら通りすがりの人を眺めていた。リアルに高齢者が多いのを実感した。この時、コーヒーを駅前のセブンイレブンで買ったのだが、店員さんがじぶんと同世代の女性(七十前後)だった。コンビニにシニアの店員が増え始めているということは耳にしていたが、じぶんが直面するのは今回が初めてかもしれない。

 

「ホットコーヒーを一つ」と注文、最近じぶんの喉の調子が少し悪いのは自覚してはいたのだが、シニアの女性店員さんが「えーっ」と言いながら顔を寄せてきたのを見て思わず身を退いた。今までも聞き直されることはあったが、顔まで寄せてこられたのは初の体験であった。これも高齢者同士でこそのビヘイビアということであろう。

 

駅前広場で、改めて、当ブログを始めたころのことを考え始めた。定年を間近にして、じぶんの高齢化と社会の高齢化がリンクしていることは初めから感じていた。そして、これからこの国が体験する社会の高齢化は、大げさな物言いになるが、人類が未体験の歴史的事象かもしれないという感覚すらあった。ブログを始めたのは定年後だが、この問題意識がブログのテーマの一つとなったのは自然な成り行きだった。

 

そして思いついたのが、個人的にも社会的にも ”学び直し” が必要ということだ。定年以前と以後の生活の間には何か一線を画すあり方がいいのではないかという思いもあった。若者には社会人になるための儀式として成人式というセレモニーがある。そして、定年期(50〜60歳)の人々にも転換期を意識的に迎えるための何らかの社会的制度があるのが望ましいと思った。

 

この考えは今でも変わらない。あの駅前広場でそのことを再認識した。高齢者自身の自覚が非常に重要になるのである。若者の教育無償化が問われているが、併せて、定年期の人々の学び直しの仕組み、補助金制度等の整備も検討に値すると考える。増大する社会保障関連予算の抑制には、一見遠回りのようにも見えるが、上記制度等の整備がより効果的ではないかと思うのである。

現代に生きる歴史上の人物

  • 2017.05.11 Thursday
  • 21:32

内田樹という人物がいる。著書を読んで、彼の哲学、身体論に惹かれ好意的な心情を抱いて人なのだが、最近ちょっと戸惑いを感じるようになった。podcastで聞いたトーク番組での発言とか、ブログでの政治的発現内容に疑問を感じるようになったのである。政治的発現は政権、特に安倍晋三という個人?に対する批判なのだが、とても過激的?なのである。

 

内田氏はウィキペディアによれば。

内田 樹は、日本の哲学研究者、コラムニスト、思想家、倫理学者、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。京都精華大学人文学部客員教授。合気道凱風館館長。 東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。学位は修士。合気道七段、居合道三段、杖道三段。

 

武道家なのである。内田氏の理論は頭(脳)だけではなく、身体からの思考を思わせるところがあり、とても魅力を感じている。これは内田氏が武道家であることが大きく関係しているのだと思う。内田氏の守備範囲(攻撃範囲?)は広く、政治的発現も率直に展開される。

http://blog.tatsuru.com/

 

政治、社会問題に対する批評も、そんじょそこらのジャーナリスト、評論家も敵わぬほどの方である。これはブログを見ればすぐに分かる。展開が断定的で切れ味がいいのである。これも武道のなせる技なのだろうか。しかし、じぶんにはあまりに切れ味が良すぎてついていけない感じがあるのである。

 

これは全く個人的な事情によるものなのだが、じぶんの中で内田氏の身体論と政治的思想(解釈)が相いれないのである。身体論では慎重?な言い回し−と言うより言語化すること自体に無理があるのかもしれないが−が感じられるのだが、政治的発現となると断定的な表現に変わる。

 

このことがしばらく悩み?の種だったのだが、何とか解決できそうだ。それは内田樹を歴史上の人物と同じに捉え直すことである。考えてみれば、じぶんの身の回りの家族、近所の人、職場の人、友人・知人などに比べれば、内田樹という人物はずっと遠い存在なのである。それは歴史上の人物が遠いのと同じようなものだ。

 

現代では、著名な方々の声を気軽に聞くことができ、また書いたものをいつでも読むことができる状況にある。だからそのような人物を身近な存在と勘違いをしてしまうのである。歴史上の人物はと言えば、どんなに有名な人物であろうと、おおよそ先人たちが残した書きものなどからしか知ることができない。しかし考えてみれば、それは今に生きる著名な人物とて同じような存在であろう。

 

ただ上記のように、旧い時代に生きた人物たちとは異なり、現代に生きる著名人たちはその一挙手一投足が日々公開されているような状況にある。故に、妙に感情移入がし易く、そしてこれが間違いのもととなる。そこで、今に生きている人物とは言え、時に、歴史上の人物と捉え直してみる方がずっとスッキリすることが分かったのである。これはじぶんにとってコロンブスの卵だった。

 

歴史上の人物・内田樹と考えると面白くなる。精神的にも技的に優れた武道家で、道場を構え、しかしながら思想的に現政権に対し激しく対立する人物。幕末期にはこのような人物がいたのではないだろうか。あの時代は活動家が顕著だったが、内田氏は思想家である。さほど歴史に通じていないので具体的人物が思い浮かばない。


内田樹氏と対極的?な位置にいる人物がいる。現参議院議員・青山繁晴氏である。ネットTVとラジオのトーク番組をよく聞く。前参議院選挙で一票を投じた。因みに、内田氏が’50年生まれで青山氏が’52年生まれ、そしてじぶんは’47年生まれである。大きく離れているわけではない。

 

青山 繁晴は、日本の政治家、参議院議員、安全保障および国家政策研究員、作家。前独立総合研究所代表取締役社長、近畿大学経済学部総合経済政策学科客員教授、東京大学教養学部非常勤講師。(ウィキペディア)

 

歴史上の人物・内田樹と青山繁晴を考えると面白い。どちらも歴史上、絶対に存在したような人物に思えるからである。内田氏は思想家で武道家、青山氏は活動家でスポーツマンである。政治的思想は対峙的立場にいる。じぶんは安易な二者択一には与しないようにと思いながら、今は青山氏寄りか。取りあえず、歴史小説を読むように、じっくりと観察を続けようと思っている。

 

関連投稿:時の人? (2016/06/24)
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ひとりで生き、逝くということ

  • 2017.05.07 Sunday
  • 20:45

山折哲雄著『「ひとり」の哲学』(新潮選書)

 

久しぶりの書店散策で ”ひとり” という言葉が目に留まった。人生もここまでくると ”ひとり” という言葉が身にしみるようになる。現在の社会事情を背景にしたエッセーと思い安易に買ってしまったのだが、中味は一般向けとは思えないほどで、じぶんにとっては難解だった。

 

 ひとり暮らしの淵に立たされるようになって、はじめてそのひとり暮らしの足元が底無しの危機にさらされていることに気がついた。ひとりで存在するエネルギーが、みるも無残に何者かによってどこかに吸いとられてしまっている。

 ひとりで立つことからはじめるほかはない。そして、ひとりで歩く、ひとりで坐る、ひとりで考える。ひとりの哲学を発動させなけれればなるまい、そうも思う。からだの関節と筋肉をもみほぐす。そこに新しい血流を通す。

 

著者の序章の弁である。さらに著者は、いま世間には「ひとり」を孤立とか孤独の親戚であるかのように扱う風潮があると語り、本書はそのことへのアンチテーゼになっている。この辺までは、じぶんにも身にしみるように理解出来るのだが、本論に入ると内容が高尚となり、ついて行くのが困難になってくる。

 

しかし、これは著者の所為ではなく当方の問題である。著者は、ドイツの哲学者カール・ヤスパースの唱えた人類史の「基軸の時代」から日本の基軸の時代を考察し、それを十三世紀の鎌倉時代においた。ある意味、本書はこの著者の説を解説するという主旨があったのかもしれない。

 

著者は「ひとり」という概念を西洋の「個」と区別して日本の思想の源流と考える。十三世紀はその基軸の思想と人物を生み出した。本書は序章、終章を挟んで四つの章からなり、それぞれ親鸞の「ひとり」、道元の「ひとり」、日蓮の「ひとり」、そして法然と一遍の「ひとり」を論じている。

 

本書と関連図書の熟読により、著者の語る日本の「基軸の時代」を捉えることができるのかもしれないが、残念ながら現時点ではそこまでの気力はない。さりながら、じぶんにも、日本人の中に意外に多いような気がするのだが、鎌倉時代を壮絶に生きたこれらの人物に関心がある。

 

しかも、これらの人物と「ひとり」という思想が密接に関わってくるとなれば、また新たな視点でこの時代、人物を捉えなおすことができるのかもしれない。著者は、世間が「独居老人」「孤独死」などと呼び、まるで社会悪でもあるかのように言うのは間違いであり、むしろ「孤独」と向き合うことでより豊かな生を得ることができると語る。

 

 窒息しそうな「個」の壁を突き破り、広々とした「ひとり」の世界に飛び出してこないか、そんな思いをこめて、私はこの本を書いた。

 

じぶんはこの本のタイトルを見たとき、こんな著者のメッセージを聞いたような気がしたのかもしれない。オビの裏に記されていたのだが、初め気がつかなかった。著者の本旨「基軸の時代」を理解するまでは行かなくとも、せめて「ひとり」の思想の一片でも捉えることができればと説に願う。

 

法然、親鸞、道元、日蓮、そして一遍。それぞれが時代の中心から大きく外れた道を選択し生きた。親鸞、道元、日蓮から派生した宗教組織は後に大きく発展した。しかし、著者はその発展が開祖たちの思想を起動力にしたものではなく、ひとえに先祖供養を中心とする土着の民間宗教がその発展を支えたのであると論じる。

 

宗教団体の内情は知らない。しかし著者の説によれば、宗教に関わらぬ一般人が親鸞、道元、日蓮の生き方からから学べることが多く、むしろこっちの方が本筋と思えぬこともない。さりながら、「個」ではなく「ひとり」を現実に生きるということを考えると、語るは易しという思いが強くなる。

 

しかし、もし「ひとり」の生き方が日本古来の思想の源流であるとするなら、あらゆる日本人にその文化的DNAが引き継がれているのではという想いが湧いてくる。そして今、じぶんは切に切にそのことを願わずにはいられない。

 


 

「ひとり」の哲学(Kindle版)

発行 2016年10月(新潮社:amazon

 

著者 山折哲雄

宗教学者、評論家。1931年、サンフランシスコ生まれ。1954年、東北大学インド哲学科卒業。国際日本文化研究センター名誉教授、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。著書に『髑髏となってもかまわない』『義理と人情 長谷川伸と日本人のこころ』『これを語りて日本人を戦慄せしめよ 柳田国男が言いたかったこと』など多数。

 

 

 

進化し続ける益子焼き

  • 2017.05.03 Wednesday
  • 21:20

今年のGWも半ば、というよりも今日からがメインか。1日と2日はGWの中休みという感じで行楽地も空いているかもしれないと思い、天気晴朗の昨日、3年ぶりに益子春の陶器市に出かけてみた。最近は国道4号バイパスも車線が増えて走行に快適で、信号が無ければ高速道路かと見紛うばかり。実際、高速道路と同じような走行をしている車が多い。

 

今やスピード抑制走行(法定速度遵守)?が普通になったじぶんでも二時間ほどで益子に到着。この時期は渋滞必至の県道もすんなりだったが、会場近くまでくるとさすがに車列の滞りが見られるようになった。今回は、会場の中心からちょっと離れた窯元の駐車場に車を駐め、歩いて中心地に向かうことにした。

 

これは初めての試みだったのだが、爽やかな五月晴れの日だったので気持ちよく歩くことができて、15分ほどで会場中心に着くことができた。3年ぶりということで、またいつもと異なる方向から歩いて会場に向かったこともあり、今回は何か新鮮な感覚を覚えた。

 

いつの頃からか、益子で働く外国人陶芸家も多くなり、さらに陶器市には益子以外地域からの作品が展示されるテントも増えて、30年ほど前から比べるとずいぶんと華やかなイベントになってきたという印象があった。

 

今回、特に強く印象に残ったのはLISA  LARSON の展示コーナーである。近頃は異色の作家の異色の作品展示にも慣れていたのだが、LISA  LARSONの展示には今までとは異なる雰囲気を感じたのである。

http://lisalarson.jp/
mashiko_lisa/

 

最初目についたのはポスターのネコのイラストである。このキャラは良く見かけるよとの家人の話に、そう言えばどっかで見たことのあるようなと思った。じぶんが知らないだけで、有名な作家だったのである。しかし、そのメジャーな外国の陶芸家の作品がなぜ益子の陶器市に?。

 

パンフレットに、”今年の春も、益子陶器市にリサ・ラーソンが出展!” と記されていたので、初めてではないらしい。

 

しかも、ポスターに「りさや」とあり、またその作品群が洗練されたバラエティにとんだものであり、頭の中が???の状態になった。これらの作品はどこの土で作られ?、どこで焼かれたもの?。

 

「りさや」のウェッブサイトで少しばかり分かってきた。陶芸家リサ・ラーソンと益子焼きとの縁は1970年の大阪万博で人間国宝・濱田庄司との出会いからというので驚いた。長い歴史があった。これら作品のなかには益子で作られたものもあるということだろう?。

 

歳の所為か、最近、じぶんもリサ・ラーソンの作品のようなカワイイものに弱くなってきた。それにしても、その善し悪しは別として、益子焼きもずいぶんとイメージが変わってきたものだ。どんな文化もそうなのだろうが、益子の陶器市も期待と懸念が入り交じった新しい雰囲気のイベントになってきたような気がした。

マイルスから始めよ!

  • 2017.04.29 Saturday
  • 14:42

最近、じぶんの生活環境の中にジャズが戻ってきた。これはじぶんの一人暮らしもどきの生活と、ICT( Information and Communication Technology )の進化の所為(お陰)である。わが家のTVにはアマゾンのTVスティックを接続してあり、youtubeで音楽のストリーミングのし放題の状態にある。

 

始めは一般的なBGMをセレクトしていたのだが、おすすめ機能でジャズの楽曲が多く表示されるようになってきて、意識的にモダンジャズ・アーティストを検索するようになった。その結果、マイルス・デイビスで引っかかってしまい、最近はyoutubeを開くとおすすめカテゴリーがマイルス・デイビスのアルバムとコンサートビデオのオンパレードになってしまった。

 

また先日ふと寄ったカフェの書棚で『マイルスに訊け!』( 中山康樹著 )が目に留まり、コーヒーを飲みながらパラパラと目を通した。そして、じぶんがマイルス・デイビスについて何も知らなかったことに気がついた。

 

青年期のジャズの始まりはジョン・コルトレーンだった。そして、徐々に色んなミュージシャンを聴くようになっていく。当然マイルスも入っていたはずなのだが何故か強い印象は残っていない。

amazon

 

ジャズを知ったのは専門学校生だったころで、LPレコードを買ったり頻繁にジャズ喫茶廻りをするようになったのは働くようになってからだ。1969年からだったと思う。

 

ウィキペディアで、1969年のマイルスはファンの間で「幻のクインテット」「ロスト・クインテット」と呼ばれていた時期であることを知った。この時期の録音は長らく発表されなかったとある。

 

かつてジャズがじぶんの生活の中にしっかりと入ってき始めた頃、マイルスは作品としては沈黙の時期だったということだ。もちろんマイルスはビッグな名前なので知らないわけはない。1969年という年代が主な理由とは思えないが、マイルスの演奏があまり記憶に残っていないのである。

 

しかし、じぶんは翌年1970年発表のアルバム『ビッチェズ・ブリュー 』を買っている。この辺の経緯は記憶にない。ただ、じぶんのジャズに対するイメージを変えたアルバムであったのは間違いない。電子音を多用したロック調?の楽曲に少し戸惑いを感じたことは憶えている。ただ、その後チック・コリア(ウェザーリポート)のアルバムなども手に入れているので、このマイルスから始まった変化に興味を覚えていたのは確かなようだ。

 

しかし『マイルスに訊け!』をチラ読みして知ったのだが、マイルスがリッチな家庭に生まれ、本人が ” 今まで生活に困ったことはなく、これからもない " というようなことを語っているのにビックリした。じぶんには昔の黒人のジャズミュージシャンはみんなプアな家庭に育ったというイメージが定着していたので。

 

youtubeで色んな年代のマイルスを聴いているとその変遷が分かる。ジャズという呼称も嫌いでブラック・ミュージックと呼んでくれと言っていたというマイルス、ミュージシャン人生の後半、人の声に近い音が出るというのでトランペットにミュートを付けて演奏することが多くなったマイルス、下を向いて歩きながら、時に後ろ向きで演奏するマイルス。

 

今、その音楽性だけではなく、人間性にとても興味を憶える。マイルスを聴いてみたい、マイルスに訊いてみたいという思いがある。

 

関連投稿: ジャズが戻ってきた!! (2017/03/26)

危機意識の有り様について

  • 2017.04.24 Monday
  • 21:10

東日本大震災の福島原発事故から6年が経った。あの時、政府からの情報は危機的状況にはないというものだったが、そのまま信用できるかどうかは不明確だったので、最悪のケースの場合、関東エリアも避難区域になる恐れがあるのではと思っていた。そして、じぶんの年齢を考えて、先ずは息子たちの家族の非難ということが頭を過ぎった。

 

当時は、放射能による被害は地震、津波と違って急激的なものではなく緩慢なものだろうと考え、家の通風口にフィルター、マスク、メガネなどの対処である程度の時間稼ぎができるのではと思っていたのだから、本当に危機意識があったのかとなると疑問だ。また当初から、非難区域では農産物どころか普通の生活が出来なくなるだろうから、ソーラー発電とか無人ロボット化工場でやっていくしかないのではないか、というようなイメージが想起されていた。

 

こんな話は、当時も今も、家族も含めて他人と話をしたことがない。近所の住人、会社の同僚たちは本当はどうだったのだろうかと今でも思う。このことは国として総括しておいた方がよいのではと思うのだが、果たして現状はどうなのだろうか。先の戦争の総括さえ出来ていないことを考えると期待薄なのかもしれない。

 

この列島は地震、台風、火山と自然災害のデパートの状況を呈している。さらに最近はゲリラ豪雨、竜巻とかレパートリーも増えている。この国の人々は、東日本大震災、熊本地震を見ても、災害を坦々?と受け入れてしまうという印象がある。このことはある時は称賛の対象にもなるが、適切な危機意識の有り様を考えると反省すべき事象であるのかもしれない。

 

一方、現在の北朝鮮を取り巻く東アジア情勢は戦後最大と言っていいほどの状況ではないかと思われる。しかしながら、そんな状況の中で国会とマスメディアは森友学園問題に明け暮れ、さすがに最近はそれにも飽きて国際情勢に目を向けるようになってきたようだが。それでも今度は反動のせいか、外交、安保等を乗り越えてミサイル防衛の可否、敵地攻撃の是非へと一気に話題が飛ぶ。

 

いま原子力空母カールビンソン北上中、場合によっては今月中に一触即発の状態に、未だにマスメディアの乗りは森友学園問題と同じだ。本当の危機意識が動機となって番組作りがなされているのかとなると甚だ疑問に思う。もし本当に、故意か事故かは別として、本土にミサイルが着弾して大きな被害を被ったとき、やはりこの国の人々は坦々とそれを受け入れてしまうのだろうか。あるいは何か別の精神が覚醒することになるのだろうか。

 

そこまで行かなくとも、もし周辺の戦闘に巻き込まれて自衛隊員が戦死するような状況があったとき、我々はそれにどう反応するのだろうか。じぶんが未だ若いころ、未だ平和にボケていられたころに、こんなことを考えてみたことがあった。とても言葉にしにくいのだが、この国に本当に危機意識が芽生えるには人身御供が必要となるのかもしれないと思った。どのような防衛力を必要とするのかというような話は次のステップになるのだろう。

 

原発事故は未だ終焉していない、ほとんどの国民の関心からは遠ざかってしまったが。この国の人々は、自然災害に比べると紛争等に対しては不慣れである。しかし今、適切な危機意識を考え、身につけなければならない時期が来ているのかもしれない。

DNAと個人と社会

  • 2017.04.19 Wednesday
  • 12:28

安藤寿康著『日本人の9割が知らない遺伝の真実』(SB新書)

 

この本はPodcast「武田鉄矢:今朝の三枚おろし」で知った。内容は、著者も”はじめに”の中で書いているように、誰もがうすうす感じていることを著者がエビデンス(双生児法と確率・統計による検証)をあげて明らかにしている。

※双生児法とは、身体・心理・行動発達に対する遺伝と環境の要因を明らかにするために、双生児を用いる古典的な方法である。遺伝子を100%共有する一卵性双生児の相関と約50%共有する二卵性双生児の相関とを、環境変化のもとで比較することで、その発達形質の遺伝性を見る。

 

人の知能を含む心的形質は遺伝するというものなのだが、このことは誰もが何となく気がついていたことではないだろうか。顔や、体格が親に似るのだから知能、学力だってそうなのだろうと思うのが自然だ。しかしながら、なぜか運動も学力も努力で達成できるものだと思ってきた(思わされてきた)。それが社会的に都合がよく、また事実を上手に説明する手法が欠けていたということもその理由の一つなのかもしれない。

 

社会が成熟?してきた今、その準備が整ってきたということなのだろうか。しかし、社会の成熟というのもまた眉唾という気がしないでもない。しかしながら、統計的手法が理論的、技法的に洗練されてきたというのは間違いないような気がする。これにより今までスッキリしなかった現象の解説が可能になったということはあるだろう。

 

問題は我々一般人である。専門家が駆使する確率・統計の表現に不慣れなのである。個人的に確率・統計に興味あるのだが、それでもその意味することを理解するのは難しいと感じている。特に確率・統計に関心のない一般の人々にとって、著者の解説はチンプンカンプンか、もしくは思いっきり勘違いされるかのどちらかではないかと思ってしまう。

 

もっとも、最近は天気予報がパーセント(確率)で表示されるのが常で、確率的な表現に多少は馴染んできていると言えなくもない。予報の正確さが増しているとは言え、思いっきり予報が外れることがあることを肌身に感じている。このことが重要なのである。パーセント(確率)と異なる事象が実際に起きるというのが「自然・社会現象」なのである。

 

著者は、形質の種別で異なるとしながらも、人の心的形質の遺伝率は凡そ50%程度だと言う。しかしながら、この50%という数値は集団レベルのものであり、個人にそのまま当てはまるものではないと補足する。個人でみればバラツキがあるが、集団でみれば平均値に集約される。この辺りが確率・統計の分かりにくところである。

 

しかしながら、知能、学力などの心的形質が統計的に半分程度は遺伝的なものであることを知ることは重要であろう。ここは表現が難しいのだが、無駄?な努力を回避できるかもしれないからである。心的形質はいま認知できているものも含め数多く存在すると考えられる。このことを前提に、著者はすべての人が同じ方向に向かって同じ努力をすることに疑問を呈しているのである。

 

本書は6章からなり、「第5章 あるべき教育の形」と「第6章 遺伝を受け入れた社会」は著者の革新的教育論となっている。教育学博士である著者の主旨はこの二つの章にあるのではないかと思われる。本書の刺激的なタイトル「日本人が知らない遺伝の真実」は、著者が ”あとがき” 書いているように、営業的事情により付けられたのではないかと推察する。

 

著者の本旨は、一人ひとりが遺伝で引き継がれた様々な心的形質を活かせる教育、そして社会をどのように創り上げるのかということにある。そのためには、教育が往々にして個人間の格差を拡大させる方向に働くこと、そして最終的に遺伝的な差を顕在化させることを知ることが重要だとしている。

 

 人間が持っている能力は多種多様なのですが、社会的に特定の能力がフォーカスされ、そこに教育資源が投入されることで、遺伝的な差がより顕在化していくことになったのです。

 その結果、ほとんどの人間が不当な頑張りを強制されるようになりました。

 

著者の「学校は売春宿である」説には初めギクッとした。人間の三大欲求としてあげられるのが、食欲、性欲、そして三つ目に何を持ってくるかということになるのだが、著者は知識欲をあげる。そして、今の学校制度は知識欲を充足させるためにすべての人を「売春宿」に閉じ込めるようなものだと言う。ここまでズバッと表現することには驚くが、しかしその主張には一理ある。

 

このような状況を踏まえ、著者は二つの教育改革を提唱する。いまの教育制度の大枠はそのままにして運用を変える小さな教育改革と、働き方をも含めた大きな教育改革である。

 

 12歳頃に形を取り始めた「その人らしさ」は、教育を始めとした環境の影響を受けて増幅され、能力として発言していく。どのように能力が伸びていくかは、その人が本来持っていた遺伝的な素養によるところが大きい。

 

著者は、12歳以降の教育は社会とつながった本物を学べるものでなければならないとし、教師ではなく「本物の知識」を体現できる社会人に教えを乞うことの重要性を説く。さらに大きな教育改革として、社会の「キッザニア化」と「能力検定テストの創設」をあげる。

 

「生涯現役」という言葉があるが、著者は「学びの生涯現役」を達成できる社会を目指そうとしているのではないか。結果として、このことが日本人、そして日本社会に幸せをもたらすと考えているのではなかろうか。このことについては、じぶんも強いシンパシーを覚える。学び直しの必要性を考えてみたいと思ったことが、当ブログを始めた動機の一つだったのだから。

 

 あらゆる能力が遺伝することをきちんと認め、多彩な才能を評価する文化をみなでつくり上げていく。小規模なコミュニティを維持、活性化できる社会的な制度をつくる。そうした取り組みによって、遺伝的な素質が発現する可能性は大きく高まります。

 素質を高められる環境を探求し、適応し、生存する。そして旅をしながら私たちは「本当に自分」になっていくののです。

 「かわいい子には旅をさせよ」といいますが、それは大人も同じ。私たちはみな死ぬまで旅をし続けるのです。

 

著者の提案は傾聴に値する。

著者は、人間は年齢を重ね、さまざまな環境にさらされ、遺伝的な素質が引き出されて、本来の自分自身になっていくようすを行動遺伝学は示唆していると語る。じぶんも今年で七十になる我が身をふり返り、残された余生を生ききるには、との想いが廻っている。

 


 

日本人が知らない遺伝の真実(kindle版)

2016年12月 発行(SBクリエイティブ:amazon)

 

著者 安藤寿康

1958年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、慶應義塾大学文学部教授。教育学博士。専門は行動遺伝学、教育心理学。主に双生児法による研究により、遺伝と環境が認知能力やパーソナリティに及ぼす研究を行っている。著書に『遺伝子の不都合な真実』、『遺伝マインド』、『心はどのように遺伝するか』など。

 

 

政治とメディアの本分

  • 2017.04.11 Tuesday
  • 21:44

二大政党を理想と考えるわけではないが、政権交代できる政党が二つ以上あった方が良いという思いで、前回の衆議院選挙までずっと民主党を推してしてきた(必ずしも支持ではない)。しかしながら、あまりの体たらくぶりに気を喪失して、前回の参議院選挙は自民と日本のこころに投票した。

 

国の平成29年度予算が成立した。そして肝心の予算委員会で、野党とマスメディアは「森友問題」に終始した。この両者いったい何をしたかったのか、未だに全く意味不明だ。じぶんは特別に自民党支持ではなかったのだが、いつのまにやら、心情的に政権よりの立場になってしまった。

 

日本が「森友問題」に明け暮れていた頃、太平洋対岸のアメリカでは北朝鮮問題がマスコミに取り上げられていたというのだから、この国の社会状況がますます理解不能だ。4月4日イラン政府軍が化学兵器を使用したという理由で、6日トランプ大統領がトマホークによるシリア空軍基地の攻撃を指示した。さらに、米海軍の原子力空母カールビンソンがシンガポールから東アジアに向けて航行中だという。

 

10日参議院議員・青山繁晴氏が「虎ノ門ニュース」で警鐘を鳴らしている。トランプ大統領には「森友問題」と比べようもない深刻な大統領選に関わる疑惑があるという。選挙中にロシアからの支援?を受けていたという疑惑らしいが、大統領選挙が無効になりかねないような大問題だという。

 

青山氏は、アメリカという国の本質は軍事国家であり、機に乗じて軍を動かすことに躊躇しないと言う。北朝鮮は核実験、ミサイル発射実験と挑発的行為を続けている。さらに、ミサイルもICBM、SLBMとアメリカにとって無視できない段階にまで来ており、トランプ大統領としては軍事オプションを採用する表向きの理由が整ってきたということになる。そして、さらに大統領の選挙に関わる疑惑を一掃したいというウラの事情もあり、軍事行動を起こす動機が十分というわけだ。

 

この青山氏の読みが全てとは言いがたいが、しかし国会で「森友問題」を争点にしているような時期でないだろうことは、一市民のじぶんにも分かる。この危うい国会の状況の中、都議会までが「豊洲問題」で妖しい空気になってきている。国では野党とマスメディアが主役?を演じていたが、都では知事とマスメディアがまた同じような役を演じようとしているとしか思えない。

 

今、本当に議論しなければならないことは何なのか、真剣に考え行動してほしいと思う。「森友問題」も「豊洲問題」も真にコンプライアンスに違反するようなことがあるのであれば当局に対応してもらえば良い。しかし、国会も都議会もやらねばならぬことが他に山積みなのではないのかと危惧する。政治家もマスメディアも政局で遊んでほしくはないのである。

パターン・ランゲージという言語のかたち

  • 2017.04.06 Thursday
  • 21:48

井庭嵩著・編集『パターン・ランゲージ:想像的な未来を創るための言語』( 慶應義塾大学出版会 )

 

本書は3年前に購入したままになっていた本である。当時iTunes_Uで、慶應義塾大学SFCの一部の講座が視聴できた。いろいろと事情があるのだろうが、現在はほどんど更新されていない状態だ。大変残念に思う。SFCの興味あるコンテンツの一つが井庭嵩氏の「パターン・ランゲージ」の講義だった。井庭嵩氏は慶應義塾大学SFC総合政策学部准教授で「パターン・ランゲージ」をテーマとした講義を担当していた(いる)。

 

人間が創出するものの中で、言葉(言語)、音楽、絵ほど興味深いものはない。これらを無くしては他のすべての創作も無に帰するのではないかと思えるほどだ。特に言葉(言語)の意味はとてつもなく大きい。もしじぶんが言葉を使えなかったとしたらという仮定すら想像できない。しかも、視聴覚を前提としない言語活動が在ることをヘレン・ケラーは証明している。実に不思議である。じぶんの人生を考えてみても、”人生=言語活動” と言っても過言ではない。

 

地デジ番組に縁遠くなり、家ではよくアメリカのネット・ニュースを見る(流している)。困るのは英語なので話されている内容がほとんど分からないことである。しかし、それでは日本語のニュースはどうかと考えれば、英語とは違って分かった気になれるということである。今は、日本語と英語のニュースの違いは分かった気になれるか否かということではないかとすら思っている。

 

しかし、言葉(言語)にとってこの分かった気がすること(理解&誤解)が大きな意味を持つ。なぜなら、これで人、社会が活動を始めるからである。しかしながら、社会の複雑化が増すにつれ、自然言語のやり取りだけでは対応しきれなくなってきているのが現状ではないか、というのがじぶんの認識である。

 

個人的な見解だが、「パターン・ランゲージ」は、このような社会状況を背景に自然言語の再定義の必要性を問うているのではないかと推測する。

 

 パターン・ランゲージは、1970年代に建築の分野で、クリストファー・アレグザンダーという建築家によって考案された。彼は、住民参加型の町づくり・住まいづくりを実現するためには、建築家が持っているデザイン(設計)の知を、住民と共有しなければならないと考えた。そこで、質感があり、美しく、いきいきとした町や建物を生み出すための秘訣を、253の「パターン」として記述し、それらを関係づけ体系化した「パターン・ランゲージ」を生み出した。

 

後に「パターン・ランゲージ」の手法はソフトウェア・デザインの分野に応用されるようになった。著者等はさらに、「パターン・ランゲージ」を人間の行為そのもの、学び、教育、プレゼンテーション、コラボレーション、組織変革、政策デザイン等にまで進化させようと試みてきた。

 

パターン・ランゲージでは、デザインにおける多様な経験則をパターンという単位にまとめる。パターンには、デザインにおける「問題」と、その「解決」の発想が一対となって記述され、それに名前が付けられる。パターン・ランゲージの利用者は、自らの状況に応じてパターンを選び、そこに記述されている抽象的な解決方法を、自分なりに具体化して実践する。

参考:井庭研究室「ラーニング・パターン

 

本書では、建築、情報、ソフトウェア、政策のプロである中埜博、江渡浩一郎、中西泰人、竹中平蔵、羽生田栄一との対談、鼎談で「パターン・ランゲージ」の活用について議論されている。しかし、本書の内容を実感を伴った理解まで達するのは困難だ。やはり何らかの実体験/実践が不可欠であり、読んで理解するというのは甚だ難しいという印象を持った。

 

しかながら、じぶんは、「問題」と「解決」の発想の一対の記述に名前がつくというパターンの形にずっと強い興味をもってきた。今、新聞、雑誌、TV等のマスメディアの中では、刺激的な短フレーズの言葉−キャッチコピー−が乱れ飛ぶ。CMはともかくとしても、社会的事象でその真偽などは二の次で心的インパクトのみが強調されるような見出しのあり方などを見聞きするにつけ、不安な想いにかられるのである。

 

せめて、社会的課題の解決にはもっと真摯に取り組んで欲しいと切実に願う。しかし、それには自然言語というツールだけでは力不足なのだろうと考える。新しい言語のかたち、「パターン・ランゲージ」のような新しい言語体系が必要なのだと思うのである。

 

日本の文学界には、5・7・5の17文字で千文字の随想に負けない表現力を有する俳句がある。社会活動にここまでの高尚さは不必要かもしれないが、現状ではあまりに低俗な表現が多すぎると思わざるをえない。そういう意味で、著者等の研究/活動に期待するところ大なのである。そして、これはこの国だけの問題だけではなく他の多くの国でも事情は同じであろうと考えられる。

 

関連投稿: やはり、経済は複雑系? (2013/04/11)

 


 

パターン・ランゲージ_創造的な未来をつくるための言語

2013年10月 慶應義塾大学出版会発行(amazon

 

著者 井庭 崇

慶應義塾大学総合政策学部准教授

1974年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業後、同大学大学院政策・メディア研究科博士課程修了。博士(政策・メディア)。千葉商科大学政策情報学部専任教員、マサチューセッツ工科大学素ローン経営大学院客員研究員等を経て、現職。

 

 

 

トランプ大統領は歴史的社会現象か

  • 2017.03.30 Thursday
  • 20:17

三浦瑠璃著『「トランプ時代」の新世界秩序』(潮出版社)

 

2016年11月8日(アメリカ時間)、共和党のドナルド・トランプ候補が民主党のヒラリー・クリントンを下して大統領となった。これは世界中の専門家たちにとってびっくり仰天の出来事だったようだ。大方のマスコミの予想では、ヒラリー・クリントン優勢が当然のような報道になっていた。

 

しかしながら、中には ”トランプは侮れない” と読んでいた少数の専門家がいた。本書の著者・三浦瑠璃氏もその一人だ。ほとんど地デジを見ないので、じぶんが著者を知ったのはネット上の映像コンテンツだったと思う。おじさんたちの中で小気味よい論理展開をする人だなというのが第一印象だった。逆に言うと、おじさんたちの論理は切れ味が悪いということだ。

 

この国も未だ男中心の社会だろう。故にどうしても、おじさんたちは色んなしがらみが多く「常識」に捕らわれやすくなるのだと思われる。しかもこの常識というやつが、普遍性よりは自分が在るコミュニティの土着性の方が強いので厄介なのである。そういう意味では、著者は初めから男たちの常識世界からフリーでいられたのかもしれない。これは著者のアドバンテージだ。

 

ドナルド・トランプという人は素人目にはとてもアクが強い人物に感じられる。それが実態なのか虚構なのかは分からない。著者も安易な結論を差し控えているようにも見える。トランプ氏は衝撃的な暴言?を吐くかと思えば、禁欲的なトランプ・ファミリーという側面を併せ持つ。

 

現地で直接取材をしている著者は、本書のまえがきで、トランプ氏に対する自分の考えが2016年3月のスーパーチューズデー前夜から変わっていないと表現する。多くのマスコミの評価とは反対に、トランプ候補は侮れないという印象を持ち続けたということだろう。

 

アメリカ事情に詳しい著者の解説が色んな切り口でなされているのだが、残念ながらじぶんにはそれらを一つのイメージに整理することはできない。じぶんが理解できた?のは、著者が今回のアメリカの大統領選を「トランプ現象」と称し、世界に波及しうる一つの社会現象として捉えようとしていることである。ある意味で、トランプ大統領は生まれるべきして生まれたという考えだ。


本書のタイトル『「トランプ時代」の新世界秩序』は、その著者の思いをそのまま表現しているのだろう。初めにアメリカ社会の変動があってトランプ大統領が誕生したのであって、トランプ大統領が誕生したがためにアメリカ社会に変動が起きようとしているのではない、という認識が一般的にが欠けているということだ。

 

アメリカは我々が想像する以上に複雑な社会構造を有している。共和党、民主党も簡単に二大政党と表現できるような状況にはない。今回の選挙で取りざたされた男と女、白人と非白人、エスタブリッシュメントとノンエスタブリッシュメントの対立、そして宗教対立までが混在する。さらに、最近はLGBTという記号も一般化し、男女の性差だけでは捉えきれないカオスな社会になってきている。

 

 人々の争いや対立を見据える国際政治学者は、とかく世界を悲観的に見る傾向があるのですが、正直言って、私自身は暗澹たる思いにかられています。世界がこのようなとば口に立ってしまったのは、トランプ氏一人のせいではまったくありません。アメリカは九十年代から十数年の間、自らの単極的な行動によって、世界の秩序をより自由で平和で民主主義的なものに作り変えようとしました。多くの失敗と混乱があったことは確かですが、そこに一定の理想があったことも事実です。世界はこうした試みが、歴史の中で「束の間」に存在した例外的な事象であったことを思い知らされることでしょう。

 

著者は近年の国際政治上で大きな影響力を持ってきた国・アメリカを上のように総括する。旧いアメリカが後退しシン・アメリカが現れる。その象徴がトランプ大統領ということだ。善かれ悪しかれ世界の多くの国がトランプ大統領(アメリカ)の対応をせまられることになる。

 

トランプ大統領はアメリカ・ファーストを唱えているが、著者はアメリカ経済が減速して日本にとって良いことは一つもないと語る。日米にとって、TPPに代わる東アジア経済圏の基本システムをデザインしうるか否かは重要な懸案事項だ。また安全保障では、著者は自分の国がどうありたいのかを前提に日米同盟を再定義することの必要性を説いている。

 

今、本当に議論されなければならない事柄を棚上げにして、三面記事的出来事?に揺れる現国会の状況を見るにつけ、著者の表現を借りれば暗澹たる思いにかられる。与党を全面的に支持できるわけではないが、野党とマスコミの幼稚な言動はあまりに酷過ぎる。現状では、本書で日本に突き付けられた課題は、悔しいがこの国にとって本当に難問であろうと考えざるを得ない。

 

関連投稿: ベビーブーマー大統領誕生 , Now! (2017/01/21)

 


 

「トランプ時代」の新世界秩序

2017年2月 発行(潮新書:amazon

 

著者 三浦瑠璃

国際政治学者。1980年神奈川県生まれ。東京大学農学部卒業。東大公共政策大学院修了。東大大学院法学政治学研究科修了。法学博士。専門は国際政治。現在、東京大学政策ビジョン研究センター講師。著書に『シビリアンの戦争』『日本に絶望している人のための政治入門』

 

 

 

 

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