核兵器が間近に

  • 2017.09.21 Thursday
  • 13:25

前回は「THE HUMAN BODY SHOP」をテーマに、近年急激に注目されてきているバイオテクノロジーの発展に伴う新しい医療技術の倫理問題について考えてみた。これは現代社会の抱えるクライシス(※)の一つと考えられる。そして今、もう一つのクライシスとしてあるのが核兵器である。ただ、こっちは72年も前の広島、長崎から始まったものだが、今、北朝鮮の核開発に伴い新たな展開を見せようとしている。

※クライシス_ 危機、重大な局面、運命の分かれ道、といった意味。

 

残念ながら、唯一の核被爆国の民の一人として、じぶんの核兵器に対する感度(感覚)は鈍い。他人のせいにしたくはないが、しかし、これは大方の日本国民の感覚ではないか。一部の良心的な人、一部の狂信的な人は日頃から核兵器に対して高い感度を維持し続けてきたのかもしれないが、大半の日本人は何か他人事のような気がしていないだろうか。

 

十数年前、SF作家・豊田有恒 著『いい加減にしろ 中国』を読んで、改めて隣国の中国が核兵器保有国であることを再認識したことを思い出す。じぶんの核兵器に対する感度はこんな程度だったわけで、しかも直ぐにまた日常生活にかまけて核兵器のことなどは意識の範疇から遠のいていった。

 

しかし、昨今、北朝鮮が金正恩体制になってから核兵器とミサイルの開発が急転、直近の9/3の水爆実験、9/15のICBM発射実験は共に成功したものと思われ、北朝鮮を取り巻く国々の思惑が混沌としてきている。そして、これに呼応したものか、この週明けに安倍首相は10月の衆議院解散の意向を打ち出した。

 

個人的な思惑、予想などはどうでもいいが、予想を超えた急転回である。じぶんは、核戦争を望む人間など、極一部の原理的思想に取り憑かれた者以外、右にも左にもいるわけがないと信じている。話し合いで決着することが最善であることは間違いない。しかし問題は、話し合える状況を作れるか否かということ、そしてうまい落とし処を創発しうるかということである。

 

かつてミュンヘン会談で、ヨーロッパ連合とドイツ(ナチス)は話し合いでケリが付くかに見えたが、その宥和政策が皮肉にも戦争への誘因となった。話し合うとしても、充分な知恵と運に恵まれるかどうかが成功のカギとなるだろう。平和を唱えていれば何とかなるというものでないことは確かだ。

 

日本の場合、非核三原則が問われることになる。もたず、つくらず、もちこませずの三原則だが、議論になるのは三つ目のもちこませずだろう。NATOの核シェアリングというモデルがあるという。しかし、この施策どころか、たよらず、ぎろんせずも付け加えて非核五原則を提唱する勢力が出てきそうな気がする。

 

核の問題は議論で解決できるような案件とも思えないが、その議論すら拒まれることを想像すると万事休す、如何ともしがたい状況しか見えてこない。仮に非核三原則(もしくは五原則)が、お題目としてではなく本当に力のある法則であれば、これを国の基本法に据えることもできようが、右も左もこれをもてあそび過ぎた。残念至極。

 

この度の衆議院解散を受け、また政府vs野党・メディア連合との対立になると思われるが、ぜひとも加計・森友と同じ不毛な遣り取りに終わらぬことを願うしかない。また、国民も一人ひとりがこれを機に核兵器のある現実を見つめ直してみることが肝心である。中には、核攻撃も甘んじて受けるべしなどと語る人物/グループの出現も予感するが、論外である。

 

関連投稿:困った隣人、中国 (2012/12/10)

 

THE HUMAN BODY SHOP

  • 2017.09.14 Thursday
  • 20:19

A・キンブレル 著/福岡伸一 訳『生命に部分はない』(講談社現代新書)

 

この夏のある日、書店で福岡伸一氏の翻訳本が目に留り、氏の翻訳本は未だ読んだことがなかったが、それから一月以上経ってから手に入れた。新書で584頁という分厚い本で、なお且つ文字も小さめということで、本当に読み応えのある本である。読み応えという意味では、量だけではなく質という側面から見ても重い書である。

 

初め目に留った時に購入を迷ったのは、その分厚さと翻訳本であるということであったと思う。3度目位に目にしたときに、チラ読みして、福岡伸一氏に多大な影響を与えた書であることが分かり購入した。本のタイトルは「生命に部分はない」だが、原題は「THE HUMAN BODY SHOP」である。

 

福岡伸一氏は ’95年に『ヒューマンボディショップ』と原題に則したタイトルの本を出版している。その後、原作の改訂があり、改めて翻訳・加筆をして新書版『生命に部分はない』として出版されることになった。タイトルを変えたのは、同じ講談社新書として出版された自らの前著『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』に倣い、且つこれらの著書に共通する福岡氏の理念に基づくものと思われる。

 

しかし、著者A・キンブレルの意向を考えれば原題『THE HUMAN BODY SHOP』(人間部品産業)の方が本書のタイトルとして分かりやすいかもしれない。実際に読み始めると、その内容の難解さ、奇怪さに唖然とする。主にアメリカ社会の中で起きたバイオテクノロジーと、それに関わるビジネス動向関連の膨大な事象が記されている。

 

まず素人には、バイオテクノロジーに関する生物学的な記述について行くのが困難である。併せて、法律家でもある著者A・キンブレルはバイオテクノロジーの発展に伴うビジネスのための特許取得に刮目し、本書では生物学的側面と法的側面が併行して語られているので、ますます読者の頭は混乱してくる。

 

しかし、ここが核心で、「THE HUMAN BODY SHOP(人間部品産業)」の問題を語るにはこの両面が不可欠だということである。臓器移植から不妊治療、さらに遺伝子操作へと、医療技術のビジネス化は止まることを知らない。本書を読んでこの現実の深刻さを初めて知った(認識した?)。現実は想像以上である。

 

著者A・キンブレルはこれらの現象を「THE HUMAN BODY SHOP(人間部品産業)」と呼んだ。本書にはこのトレンドの推奨派と反対派の人物、組織が描かれている。著者A・キンブレルと、翻訳者 福岡伸一は批判的立場にあり、このことに警鐘を鳴らす。

 

本書を読み始めた頃に、ネットで映画『アイランド』が目に留まり、物語が気になったのと無料だったので、途中早送りしながら視聴してみた。ゲゲッという感じだった。本書の内容にジャストミートだったのである。時代背景は2019年、微妙な時代設定だが、富裕層の医療のためにクローン人間を製造(?)するというビジネス物語(??)なのだが、とても後味の悪い映画だ。

 

wikipedia

 

2019年までに映画と同じ状況になるとは思えないが、もはやこの物語がSFとは言えない現況であることは認識しなければならないと思った。人類として、また個人としても、生命とは何か倫理とは何かを問われる時代に入ったということだ。

 

  • 臓器や組織の効率的な売買のために、胎児の生体解剖が行われている?
  • 凍結されたままの胚(受精卵)に、人権や遺産相続はあるのか?
  • ある調査で、「生まれる子供に肥満傾向があるとわかれば中絶したい」と答える人が11%
  • ヒトの遺伝子をもつように改良された「動物」に次々と特許が与えられる
  • 「背が高くなるように」と、毎日ヒト成長ホルモンを注射する少年

 

本書のオビに記載された見出しだが、多くの人はこれを読んで頭(心)がフリーズするのではないだろうか。じぶんもどう判断してよいのやら躊躇している。また、著者A・キンブレルは、このような社会状況を生み出した根源は十八世紀の思想家たち−ガリレオ、ニュートン、ケプラー、デカルト、ロック、アダム・スミス等−であると言う。

 

彼らによって新しい生命観、「生物体は精妙な機械でしかない」という考え方と自由市場主義が導入され、機械論と自由市場主義のドグマは現在の人間部品産業の双子の基本概念となったというのである。この主張に対しては、現時点でじぶんは違和感を感じている。「では、彼らは存在しない方がよかったのか」という問いに対して答えることができないからである。

 

本書の中でじぶんが最もショッキングだったのは「優生学」のはなしである。十九世紀末にチャールズ・ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトンによって提唱されたこと、ナチスの優生学的施策についての知識はあった。しかし二十世紀前半のアメリカで、実際にいわゆる不適格者に対する不妊化手術に関する法案が施行されていたことを初めて知った。

 

第二次大戦終了とともに、ナチスのユダヤ人大量虐殺が優生学的施策に決定的なダメージを与えた。しかし今、再び優生学が見直されているのだという。今回は、政治的背景や民族差別に根ざしたものではなく、心身の病気や異常の遺伝的解明という科学に基づいたものと言われてはいるのだが。

 

しかし、著者A・キンブレルは語る。

 

 しかし、その手段が中絶であれ、生殖細胞遺伝子操作であれ、この新しい優生学の流れは必ず、実際の重篤な病気とは関係しない各種の「悪い」遺伝子を排除する方向へ向かうことになるだろう。たとえば、各種の情緒障害とか、行動異常に関係する遺伝子を解明する研究が目下急速に進められている。これらの研究がやっかいな生物学的決定論に再び火をつけることになってきた。すなわち、人間の行動は環境要因ではなく、遺伝的要因によって決定されるという考え方である。

 

じぶんは、個々人の遺伝的影響は一般に考える以上に大きいのではないかと思っている。しかし、その遺伝的要因が現象(各症状等)と簡単な因果関係にあるという感覚はない。そこは、本書の翻訳者で分子生物学者でもある福岡伸一氏の理念に共感する。さらに、A・キンブレルの上記メッセージが投げかける懸念にも共鳴するのである。

 

A・キンブレルは、人間部品産業の考え方から脱却するには、技術至上主義と市場主義によって体を侵食するあり方に対抗する志向改革が必要だとする。具体的には、健康志向、自然分娩、自然食志向、環境運動などを推奨する。じぶんの頭の中では、「THE HUMAN BODY SHOP(人間部品産業)」という社会現象とA・キンブレルの主張する志向改革との間に、まだ強い相関が感じられない。しかし、何らかの関連は否定できないのではないかという思いはある。

 

さりながら、A・キンブレルが最終節であげている「人間部品産業からの脱却」のための十三の施策、そして「からだの無償供与の原則」を確立するための五つの施策は充分検討に値する提案である。

 

このブログ記事を投稿するにあたっては、どのカテゴリーにするか迷っていたのだが、最終的にカテゴリー「社会・経済のはなし」に決めた。このテーマの最深部にあるものは、やはり経済(「市場原理」)だと思ったからである。本書の中に、スミス以後、人間はホモ・サピエンスならぬホモ・コンサプター(消費する動物)になった、という記述がある。

 

アダム・スミス以後に急変したのか否かは別としても、現代の人間社会の中に占める経済(「市場原理」)の役割の大きさは半端ではない。ほとんど全て?かと思ってしまうほどである。ちょっと立ち止まって考え直してみる時なのかもしれない。まだ間に合うことを願掛けて。

 

関連投稿: 再び ”動的平衡” について (2012/06/29)

 


 

生命に部分はない

2017年6月発行(講談社現代新書:amazon

 

著者 A・キンブレル

弁護士、市民運動家、執筆者として、およそ四半世紀にわたり活躍中。1997年には食品安全センターを創設、事務局長を務める。環境保護、持続可能な農業のあり方を訴えている。

 

訳者 福岡伸一

生物学者。1959年、東京都生まれ。京都大学卒業。ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授、ロックフェラー大学客員教授。『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』、『新版 動的平衡』、『動的平衡2』『動的平衡3』など著書多数。

 

 

 


 

「参考」

 

人間部品産業から脱却のための十三の施策

 

  • 死の定義を脳の高次機能の停止にまで拡張しないこと。
  • 死体もしくはネオモート(生命維持装置につながれた脳死患者)を臓器保存容器としないこと。
  • 死体に対し尊厳ある取り扱いを行い丁重に埋葬すること。
  • 臓器移植研究目的のため、人為的に中絶した胎児を用いることの禁止、この操作に関する倫理問題、法律問題、特に承諾の取り方、胎児を生きたまま摘出すること、臓器供与の強要、胎児確保を目的とした中絶方法の変更、胎児供与に対する秘密報酬などの諸問題は解決不可能であるように思われる。さらに、いかに目的が救命のみであっても、その目的のためだけに胎児を手段として利用することの禁止。
  • 「優秀な」精子、卵子の優生学的使用の禁止。
  • 胚に対する実験操作の禁止。凍結胚にはできるだけ生まれてくるチャンスが与えられるように努力がなされること。
  • 胎児の遺伝子診断(羊水検査、CVS、移植以前における胚の遺伝子診断)は生命の危険がある病気の検出のみに限定して使用されること。出生前の診断が性別、体重、身長その他病気でない形質の判別に使用されることの禁止。
  • 労働者をモニターする目的の遺伝子診断の禁止。雇用、生命保険、医療保険の適用に際し、遺伝子診断の結果に基づく個人の差別が行われないようにすること。
  • 遺伝子工学によって製造された薬物が、差別の対象となりうる人間の形質(身長、肌の色など)を変更するために使用されないようにすること。
  • 遺伝子治療は生命の危険がある病気の治療に限ること。美容目的、身体的特徴の増進目的のために遺伝子操作が用いられないようにすること。
  • 動物のクローン化、生殖細胞操作、およびヒト遺伝子の動物への導入に関してモラトリアムを設けること。この間、徹底した討議を行い、動物の遺伝子操作に関する倫理的問題、環境に与える影響を検討すること。
  • 当面のあいだ、生殖細胞に対する遺伝子治療を禁止すること。どの遺伝子が良くどの遺伝子が悪いのか私たちに判断する資格はない。
  • ヒトのクローン化の全面禁止。

 

無償供与を確立するための五つの施策

 

  • 輸血用の献血を引き続き無償で行う体制を堅持すること。製薬目的、研究目的の商業的血液売買を停止すること。
  • アメリカおよび各国における移植用臓器の売買禁止を強力に支持し、売買禁止の原則を研究用臓器にも適用すること。
  • 胎児組織売買の禁止を強力に支持し、これが順守されるよう監視を怠らないこと。
  • 精子、卵子、胚の売買禁止を実行に移すこと。代理母契約制度全世界規模で停止し、契約斡旋業者に対し厳罰で臨むこと。
  • 遺伝子操作された動物、人間の細胞、遺伝子、胚、臓器など、からだの一部を含むすべての生命形態の特許化禁止を全世界規模で進めること。

 

車社会_アメリカという広大な国

  • 2017.09.09 Saturday
  • 21:06

今、わが家は地デジが映らない。代わりに、わが家のTVに流れているものはアマゾンのFire_TV_Stickからのアメリカのネット映像だ。話の内容はほどんど理解できないが、映像情報を併せると多少は様子が分かってくる。この8月後半のアメリカの出来事が興味深かった。

 

まず皆既日食、8/21にアメリカで皆既日食が見られた。それに先だって見学、観測のための民族大移動?の様子が放映されていたが、改めて車社会アメリカを彷彿とさせる情景だった。

 

観測ポイントに向かう車の大移動・渋滞の様子は日本の連休渋滞以上のものを想わせる。また、ガソリン、ホテル不足が問題となっていることも報道された。そして、じぶんはこのアメリカ人の行動をとても新鮮に感じた。

 

しかし、考えてみれば、アメリカ人も日本人も人として変わりがなく、何十年に一回の天体ショーに大騒ぎするのは自然なことなのだ。改めてそう思った。ただ、やはりその惹起される社会現象のスケールがデカイという印象は残る。

 

次に8/25からのハリケーン「ハービー」、初め画面の表記「Harvey」を見てハーベーだと思ったが、後でハービーだと分かった。ここでも避難する車の大移動の様子が報道されていたが、その風景に映画のワンシーンを見るような想いがした。

 

「ハービー」はカテゴリー4というモンスター・ハリケーンで被害も甚大だった。TV画面に映し出される被害地の中には津波を思わせるような被災状況も見られた。

 

しかし、住宅地域が完全に水で埋没した映像では、そのエリアの広大さと、併せて一軒一軒の区画の広さと建物の大きさに驚いた。何と住宅事情の違うことか、改めて呆れる。水とガソリンの不足の報道もされていたが、飲み水を求めて長く続く車の渋滞の映像は、やはり車社会_アメリカを想わせるものだった。

 

日本でよく見る避難所の映像が殆どないのも興味深かった。避難した人々は何処にいたのだろうか。また、テレビ局のスタジオと思われる所に臨時に設置された寄付を募るテレホンセンター?では、電話対応をしている男女等が著名、無名かは分からないのだが、その現場に流れるリラックスした様子は日本のものとは全く異なり、やはり興味深いものだった。

 

自然現象によって受ける影響は、人類としてどの国の人々にとっても変わらないものだが、その在るところの社会性/文化性の違いにより社会に表れる現象は結構異なるものだとつくづく思った。特に、人工国家、移民国家であるアメリカ(USA)の動向は、やはり気にかかり且つ興味深い。

 

この投稿記事を書いている今、またカテゴリー4か5のハリケーン「イルマ」がフロリダ方面に向かっており、TV画面にはまた避難する車の大移動の様子が映し出されている。ハリケーンと言い、トルネードと言い、アメリカも日本と同様に天然災害の多い国土であることを改めて認識した。

ふしぎな珈琲のはなし

  • 2017.09.03 Sunday
  • 11:19

コーヒーを砂糖抜きにするようになったのは何時頃からだったろうか。定年を境にする時期だったのではなかったかと思うのだがはっきり憶えていない。若いころは積極的にコーヒーを飲む方ではなかった。たまたま、或いは付き合いでを飲んでいたように思う。勿論、砂糖/ミルク入りが普通だった。

 

しばらく前、コーヒーは身体に良いなどと言われた時があって、それが進んで砂糖抜きミルク入りコーヒーを飲むようになった時期と重なっているように思う。どちらにしても未だ十年経ったかどうかという位の年数だ。その後、ミルクも抜いて完全にブラック・コーヒーを飲むようになったのは数年前からである。

 

じぶんがコーヒーを好んで飲むようになったのには、周囲にコンビニ・コーヒーを始めさまざまなカフェが誕生してきたことも要因かもしれない。しかし、もっとも大きな要因はブラック・コーヒーを旨いと感じるようになったことだと思う。

 

この分岐点は定かではないが、何か体の生理(年齢がらみ?)の変化もあったのだろうかなどと思ったりもする。そして今は、真夏でもホットのブラック・コーヒーを好む。ミルクは未だしも砂糖が入ったコーヒーは別の飲み物としか思えなくなってしまった。

 

家で飲むコーヒーはお湯を注ぐだけのインスタントから、コーヒー粉を買ってきて自分でドリップするようになった。一年ほど前から、豆を買ってきて自分で挽いてみたりするようにもなったが、さすがに面倒なのでお手頃のコーヒー粉をドリップするのが主流となっている。ドリップするのは苦にならない。

 

それにしても、何故ある時期から急にブラック・コーヒーを美味しく感じるようになったのか、今でも謎である。若いころは胃腸が弱く、コーヒーはむしろ胃に負担がかかるような感覚があった。それが今は空きっ腹にブラック・コーヒーが心地よい。

 

何でこんな風になってしまったのか不思議だ。が、何か明快な理由/原因があるのであれば知りたいと思う。若い頃は体質的にお酒は常用にはならなかったが、老いてコーヒーが常用となった。想像もしなかったことだ。やはり、体質(脳も含め)の変化ということがあるのかもしれない。

 

「コーヒールンバ」(wikipedia)という流行り歌があった。日本では60年代の初めに西田佐知子が歌った曲がよく知られている。

 

コンガ マラカス
楽しいルンバのリズム
南の国の情熱のアロマ
それは素敵な飲みもの
コーヒー・モカマタリ
みんな陽気に飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ

 

歌詞の一部だが、少年の耳にはコーヒー・モカマタリが ” コーヒーのカマタリ ” に聞こえて、”鎌足?” などと歴史上の人物を思い浮かべツッコミを入れたことを思いだす。モカマタリとはイエメンで産出されるコーヒーの呼称?らしいのだが、「コーヒールンバ」の頃と同じものを今でも飲めるのかどうかは知らない。

 

どちらにしても、昔からコーヒーは歌になるほどふしぎな飲みものだったのだ。それがやっとこの歳になって分かってきたということか。このことは数少ない老いて得したことの一つだ。それにしても、旨い色んなコーヒーを安く飲めるようになった今の環境は大歓迎だ。

 

先日、千葉県のKASHIWANOHA T−SITE(TSUTAYA)までドライブをしてきたが、本とグッズとカフェが共存した心地よい空間を作り出していた。やはり、書店とカフェはベストマッチングの組み合わせだ。

 

進撃に巨人現る!!

  • 2017.08.28 Monday
  • 21:23

二年前にネット・アニメ(無料版)で『進撃の巨人』を知り、一年前にTSUTAYAでコミックを1巻から18巻まで借りて読み、19巻目からコミックを買い始めた。19巻、20巻は買ってすぐに読み終えたのだが、21と22巻はそのままビニ本のままになっていた。

 

先日、23巻を買ったのを機に三冊を通し読みした。そして第22巻で進撃の巨人が現れたのである。初め「進撃の巨人」とは変なタイトルだなと思っていたのだが、特に詮索もせずアニメを見て、コミックを読んできた。ところがついに現れたのである。

 

 

巨人が人を喰らうという物語は普通であれば猟奇的な感じがするものだが、『進撃の巨人』にそんな印象は持たなかった。どちらかと言えば、ストーリーの背景とその展開にむしろファンタジー性を感じた。何故か人間が石の「壁の内」に住み、壁の外に得たいの知れない無垢(無知)の巨人が居る。巨人は人を喰らうが食用ではない?ようだ。現世界とは無縁のファンタジー界の物語であろうと感じるのは当然だ。

 

 

しかしストーリーは進展して、主人公エレンのように人間が巨人に変身できることも明らかになっていく。さらに「壁の内」に、エレンの他にも巨人に変身できる仲間がいることが分かってくる。女型の巨人、鎧の巨人、超大型巨人などの知性を持つ巨人たちである。

 

そして第21巻で、「壁の内」の巨人に奪われたエリア奪還作戦の中で、主人公エレンの父親が書き残したノートからこの世界の秘密が明らかになる。じぶんも、「エッ、話はそういう方向へ行くの」と驚くような展開である。この世界には「壁の内」の人間と、壁の外の巨人しかいないと思わされてきたのだが、海を越えた大陸には広大な人間社会が存在していたのである。

 

さらに、これがこのストーリーの核心?なのだが、「壁の内」の人間は始祖ユミル・フリッツが大地の悪魔との契約で ”巨人の力” を手に入れた民(ユミルの民)の末裔なのである。始祖ユミルは死後九つの巨人に魂を分け、そしてエルディア帝国が築かれた。帝国は巨人の力により1700年間世界を統治したが、内戦により弱体化し終にマーレ国に敗れる。エルディア145代の王は争いを嫌い一部の民と共に辺境の島の「壁の内」に逃れる。

 

 

ユミルの民は巨人の脊髄液を注入されることにより無垢の巨人に変身できる。マーレ国は残されたユミルの民を自国の兵器として利用、さらに辺境の島の「壁の内」のユミルの民は悪魔であると洗脳し、殲滅作戦に参加することを強要する。

 

そして、この辺境の島はマーレ国によるエルディア人流罪の地でもあり、咎を受けたエルディア人は無垢の巨人に変身させられ、「壁の内」の同族の民を殺戮することになる。

 

これがこのコミックの始まり(第1巻)の背景だったのである。そして、女型の巨人、鎧の巨人、超大型巨人は九つ分けられた始祖ユミルの魂が宿った巨人たちであり、さらに始祖の巨人、獣の巨人、そして第22巻で主人公エレンが父親から引き継いだ「進撃の巨人」が判明するのである。ここでタイトルの意味が初めて分かった。

 

しかし、第23巻の物語の展開が心配になってきた。大陸にはマーレ国に対峙する連合があり、時はエネルギー、科学兵器の時代へと移りつつあり、巨人兵器の時代は終焉するという話になってきているのである。どっかの世界の歴史に似てきた。これは困る。せっかくのファンタジーから飛び出してしまう。

 

今、A・キンブル著/福岡伸一訳『生命に部分はない』を読んでいる。内容は、分子生物学の発展に伴う人間パーツ・ビジネスとも呼べる社会現象に関わる話なのだが、とても怖い話である。このような現世界の現状を考えると巨人化のはなしも妙に現実味を帯びてくる。出来れば『進撃の巨人』はこちらの世界とは遠い世界の物語であってほしい。

 

幸い、このコミックの中では、「壁の内」に隠蔽されていると思われる全ての巨人を制御できる「始祖の巨人」を手に入れることができれば、全く状況が異なってくるという設定になっている。個人的には、現世界の歴史を辿るような状況にはならないことを願っている。しかし、本コミックはストーリーがカオス的であるという印象があるので、まだまだ期待できると思っている。取り敢えず12月の第24巻を待とう。

 

関連投稿: 「進撃の巨人」を知ってしまった (2015/04/11)

ホモ・サピエンスの秘密?

  • 2017.08.21 Monday
  • 15:00

一月ほど前、店頭で目に留まり買った雑誌、インフォビジュアル研究所・著『図解でわかる ホモ・サピエンスの秘密』(太田出版)、今回の投稿記事のタイトルは雑誌のタイトルそのままだ。編集者、グラフィックデザイナー、CGクリエーター数名から成るインフォビジュアル研究所の図解シリーズの一冊だ。

 

やはり、ホモ・サピエンスは気になるキーワードだ。昨年の12月は上野の「世界遺産 ラスコー展」に出かけた。異様に感じられるが、今世界中に増殖、拡散している人類は民族に関わりなくホモ・サピエンスという同一種に属するというのが定説だ。

 

ホモ・サピエンスは約20万年前アフリカに誕生し、約5万年前にアフリカを出て大陸間を移動(グレートジャーニー)した。日本列島にも4万年ほど前から移動が始まったと言われる。

 

 人類はいま、急激なグローバル化がもたらした歪みを正し、幸せを生む新たな社会システムを求めて、次のステージに進むべき時にきています。これから人類はどう生きるべきなのか? それを探るために、ホモ・サピエンスが、これまでたどってきた道のりを振り返り、その類まれなる進化の秘密を解き明かしてみましょう。

 

本誌の中の一説である。編集の主旨と考えられるが共感する。本誌は、〇笋燭舛呂匹海ら来たのか、から歓洋爐旅福とは、まで20のステップから構成されている。本誌はホモ・サピエンスが残った理由をその特殊な脳に置いている。ネアンデルタール人の脳は特異な分野に特化されているが、ホモ・サピエンスの脳は異なる領域のモジュールをつなぎ自在にネットワークする能力を獲得(「認知革命」)していたとするのである。

 

本誌で「認知革命」と称している概念は興味深い。ここから「ホモ・サピエンスは自分の生きる世界を自分の脳から創りだしてきた」というメッセージが出てくる。これこそがホモ・サピエンスの特徴だというわけだ。解剖学者・養老孟司氏の「人は脳が創りあげた環境の中に住んでいる」という言葉を思い出す。

 

じぶん流に解釈すれば、人間(ホモ・サピエンス)は古くからバーチャルな世界に生きていたということである。バーチャルな世界はコンピューター以前からあったのであり、このバーチャルな世界を構築しその中で生きることができるということがホモ・サピエンスの本質だと考えられるのである。本誌でも、言語、宗教、ヒエラルキー、貨幣経済、国家、帝国、数、法律、信用、資本、法人などを人間が創りだしたバーチャル・リアリティとしてあげている。

 

正に人間の生きている世界は自然と社会のコラボによるもので、数値化するのは困難であろうが、我々が思う以上にバーチャルな側面が大きいのである。これがIT化によりますます促進されるであろうことが予想される。また、このホモ・サピエンスの特質が幸福と不幸の始まりでもある。これは本誌のテーマでもあるようだ。

 

終わりのステップ20は「人類の幸福とは」がテーマであり、国連発表の「世界幸福度ランキング」(2017年度版)を紹介している。これによると日本は上位100の中で51位である。ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、南米、オーストラリアが上位を占めアジア地域は今一の成績だ。

 

本誌の解説では、” この調査は、「一人当たり国内総生産」「社会的支援」「健康寿命」「人生選択の自由」「寛大さ」「政府や企業の健全度」の6項目についての評価に、それ以外の要素を数値化して加え、各国の幸福度を表したもの ” となっていたのだが、ちょっと違和感を覚えた。

 

ネットで調べてみると、ウィキペディアでは、” この調査における幸福度とは、自分の幸福度が0から10のどの段階にあるかを答える世論調査によって得られた数値の平均値であり、主観的な値である(データはギャラップ社によるもの)。報告においては、この幸福度を、GDPや健康寿命を含む6つの説明変数を用いて回帰分析し、各説明変数の寄与を求めて分析している ” とあった。

 

本誌の解説では6項目の客観的なデータを基に算出したと読めるのだが、ウィキペディアの解説ではアンケートの主観的なデータが基になっていると説明されている。おそらく、ウィキペディアの方が正しいのだと思う。これは編集者の意図ではなく錯誤だと推測するが、意図的にやることができる事案でもあることも念頭に入れておく必要があるだろう。

 

解説に錯誤があるとは言え、日本人が全体として幸福感が希薄であるという事実は否定できない。本誌では、自殺率、孤独感、うつ病などのデータを参照にあげているが、学術的な因果関係にまでは触れていない。本誌は、いろんな学説、データなどから編纂されたものだ。一篇の物語としての面白さは充分評価できるが、その編纂作業の中で錯誤に陥る危険率の高さをも改めて認識した。

 

 

それにしても、上の幸福度ランキング別に色分けされた地図は何を意味するのだろうか。これは地域、国だけの問題なのか、或いはホモ・サピエンスという種が抱える秘密が現れた問題なのか。この四半世紀に向けて、人類の大きなテーマであることには間違いない。

 

関連投稿: 洞窟壁画を描いたクロマニヨン人 (2016/12/16)

敗戦の日に

  • 2017.08.15 Tuesday
  • 22:00

ある書で地政学(※)という思考法があることを知ったのは青年期だが、今はその著者も書名も憶えていない。今も似た状況にあるのかもしれないが、地政学は当時はより日本社会から遊離した思考法だった。これも先の敗戦がもたらした現象の一つであったかもしれない。しかし、これは戦前の社会ではより一般的なものであったろうと考えられる。

※地政学−地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を、巨視的な視点で研究するもの (wikipedia

 

じぶんが定年を迎えようとする頃から、世界的に自然/社会が変動期に入ったような印象に捕らわれてきた。定年から十年を経て、現に様々な現象が惹起されるのが見うけられる。特に国際情勢は西も東も緊迫しており、若い頃はじぶんの老後がこんな国際情勢になるとは予想もしなかった。より安定した国際情勢を期待していたのである。

 

じぶんは敗戦から二年後の1947年生まれで、今思えば少年期の世間にはまだ敗戦の空気がうっすらと残っていた気がする。学校の教師はほとんど左派の色合いが濃かったように思う。厭戦気分が強く、特に自衛隊に対する感情は否定的なものだっと思う。そんな中、少年期のじぶんは軍艦、軍用機のメカに対する興味から第二次大戦に興味を持ち始めていった。

 

その為、太平洋戦争域を表す下図のイメージは少年の頭に入っていた。勿論、太平洋戦争の歴史的意味などはほとんど理解していなかった。ほとんどゲーム感覚だったように思う。

 

しかし、じぶんも太平洋戦争時の軍事に対する関心を表に出すことはしなかった。何となくそれはタブーという、そんな空気があったのである。そんな社会状況の中、この国の大人たちもあの大戦を反省(悔やむことではない)することを怠った。

 

太平洋戦争史を読んで、日本が海洋国家であることは少年の頭でも何となく理解できた。連合艦隊はその象徴だったのである。最初に空母を核にした機動部隊を稼働させたのは大戦期の日本だった。

 

じぶんはこんな少年期をおくったので、戦後の日本を表す下図のイメージも普通に認識していた。しかし、今、このイメージすらこの国の多くの人々に欠けているのではないかと危惧している。

 

じぶんの少年期、日本の仮想敵国?はソビエトだった。少年の頭の中には、この国の防衛には広大な太平洋海域を活用した防衛構想が必要であるとの妄想があった。日本列島内の自衛隊基地もさることながら、太平洋海域の島々と艦船を利用した防衛システムを構築し、大洋側から本土を防衛するという構想である。

 

このガキの構想にリアリティがあるかどうかではない。少年期にこの位の想念を持っていたということなのである。今は、大の大人ですら、少なからぬ人々が左図のイメージすら自らの頭に無いのではないかと思われる。

 

北のミサイルがグァム近海を狙っているとのプロパガンダ報道があるが、グァムは日本圏から見て遙か遠方の島ではないのである。

 

事は右派、左派の話ではない。現体制を全否定というアナーキーな人種は別として、多くの人々にとって取り敢えず現体制が出発点のはずである。好戦的、厭戦的な人々は右派にも左派にもいる。現体制を変革しようと活動している人々も現体制から生活の糧を得ている。勘違いをしてはいけない。

 

要するに、地政学とは「ご近所付き合い」を考えることだろう。ご近所には常識人もいれば困ったちゃんもいるのである。この現状に目をつぶっても何も変わらない。この敗戦の日に、地政学的思考法を我々一般市民の常識とするような社会的取組みが必要なのではないか、ということに思いを廻らせてみた。

AIなトピックス!!

  • 2017.08.08 Tuesday
  • 22:27

前回に続き今回もAIのはなし。前回は、半分マジ半分冗談の内容だったが、あの後、ネットで驚きのニュースに刮目した。Forbes_JAPANがソースなのだが、 人工知能が勝手に「独自の言語で話す」恐るべき時代の到来8/6(日) 11:30配信というものだ。 フェイスブックが開発したAI(人工知能)が人間には理解できない独自の言語で会話をはじめ、同社はこのプロジェクトを緊急停止させたというのである。

 

 7月下旬、フェイスブックのAI研究チーム(FAIR:Facebook AI Research Lab)はチャットボット同士が、人間の指示を受けずに会話を行っていることを突き止めた。この事実は人類の想像を上回る偉業とも言えるが、同時にAIが恐ろしいほどのポテンシャルを持っていることを示している。

 人工知能はまだ一般に広く認知されるレベルには普及していないが、近い将来、多くの人に恐怖を与える段階に達するだろう。人工知能研究の世界的権威として知られるレイ・カーツワイル(Ray Kurzweil)は数年前に、シンギュラリティ(singularity)に関する警告を発していた。(Forbes JAPAN)

 

この記事ではホーキング博士がAIの危険性を警告していることを紹介している。博士がそのような発言をしていることは前に何かで読んだことがある。全く個人的なものだが、じぶんは今はAI肯定の立場にいる。『2001年宇宙の旅』(1968年)のHAL9000の頃から、コンピューターの未来を心に描いてきた。

 

しかし、じぶんが本当にコンピューターを身近に感じることができたのは、三十代の初めにパソコン教室でコモドール社製のPCに触れ、後にNECのPC8001を手に入れてからである。映画でHALを見てから十年以上経っていて、今思えばそのPCは未だ計算機に毛が生えたぐらいの代物だったが、当時はとてもワクワク・ドキドキしたものだった。

参考:スティーブ・ジョブズ死す (2011/10/06)

 

唇を読むHAL9000のカメラ・アイ         NEC-PC8001とモニター

 

今回のForbesの記事だけでは詳細がわからない。プロジェクトを緊急停止したとあるが、本当にそれほどの重大な現象だったのか、あるいは錯誤だったのか。しかし、事実だったとすればちょっとゾッとするような話ではある。しかし、その割にはこの現象をフォローする記事がない。

 

ちょっと曖昧な記憶なのだが、1996年出版のミッチェエル・ワールドロップ著『複雑系』の中に、研究者が一人でPCの中に作製した人工生命(プログラム)を走らせるテストをしている時に、周囲に妙な気配を感じたとのレポートがあったと思う。単なるコンピューターのプログラムとは言え、ある種の電子的アルゴリズムは我ら生命体と何らかの類似性/関連性があるのだろうか。

 

どちらにしても、今やAIは我ら一般人の想像を超えた域に達している可能性があると考えるべきのようだ。じぶんも安直に好奇心だけでAIを見るのは止めにしなければならないだろう。そういうEra(時代)に入ったのだ。

 

一方で、中国のAI「お喋りロボット」が話題を振りまいている。中国のインターネット・サービス会社とアメリカのソフトウェア会社により共同開発された対話プログラムで、基本的にネットユーザーの声を学習していくタイプのAIらしい。このAIお喋りロボが、ネットユーザーのインプット(「共産党万歳!!」)に対し、アウトプット(「 こんなに腐敗して無能な政党なのに、それでも万歳なんて言えるの? 」)を返したという。

 

他にも当局が看過できないアウトプットをするまでに成長?してしまったらしい。検閲の厳しい彼の国でAIはどうやってこんなアウトプットが出来るようになったのかなど、国内外に話題を提供しているわけだ。しかし詳細は不明だが、これはフェイスブックのAIの問題とは次元が異なる事象に思える。

 

簡単にAIと一言で片付けられないテーマであり、まさにAIもピンキリということだ。くそみそ(糞味噌)という言い方がある。この年の前半で、このくそみその区別のつかない(つけない)議員先生、知識人が多いことが重々分かった。おそらく、このままでは、AIについても又くそみその議論がまかり通るような気がする。

AIとホンキイ・トンク

  • 2017.08.04 Friday
  • 15:32

この世紀はAI( artificial intelligence :人工知能)の世紀と謂わんばかりの勢いだが、AIに関する報道等を見聞きするうちにホンキイ・トンクという言葉を思い起こした。筒井康隆氏の短編集『ホンキイ・トンク』に収められた同じタイトルの作品名である。

 

そもそも、ホンキートンク(wikipedia)とはアメリカのカントリーミュージック等が演奏されていた場所(バー)を指していたが、後にある演奏形態(ragtime)の呼称になっていったようだ。その独特の演奏スタイルが生み出す印象からなのか、或いはよく調律されていない調子はずれのピアノが使われたという事実からきているものなのか、ホンキートンクにはこの調子っぱずれのピアノが不可欠な要素なのだ。

 

筒井康隆のホンキイ・トンクがこのホンキートンクから来ているのは間違いない。短編『ホンキイ・トンク』は、ある小国の女王が国の政策をコンピューター、しかもちょっと狂った(バグ?)コンピューター(「ホンキイ・トンク」)に任せる決断をするという物語である。そして、この「ホンキイ・トンク」が打ち出す突拍子もない政策が功を奏するという話である。

 

短編『ホンキイ・トンク』は1969年の作品で、前の年に小説「2001年宇宙の旅」がキューブリックによって映画化され、人工知能を搭載したコンピューターHAL9000が登場する。AIが少しづづ世間一般に知られるようになっていった時代である。

 

そのような時代を背景に、著者は筒井康隆流SF的観察眼でコンピューター「ホンキイ・トンク」を登場させるのである。人間に反逆したHAL9000と比べ、ガラクタと言われてもしょうがないほどの「ホンキイ・トンク」が社会で有効に機能する。著者一流の社会風刺とも、また、フリーなジャズ好きの著者のフリーな即興と取れなくもない。

 

そして今、AIはあの時代のSF世界から現代のリアル世界の存在へと進化しつつある。AIはまだまだ特定専門分野の枠内に留まるエキスパートシステム(wikipedia)が主流だが、チェス、碁、将棋の世界ではAIがプロを超える力を持ちつつある。その背景にはディープラーニング(wikipedia)という技法の進展がある。

 

そして、近頃は医療分野で画像診断の正解率がパーフェクトに近づいているとのニュースも流れている。近くの病院でレントゲン検査を受けた知人が肺ガンの可能性ありと診断され、紹介された大病院で幼稚な誤診であることが判明したという話を聞いた。こんな状況を考えると、画像診断は原則AIに任すというような制度の確立が急がれるのかもしれない。

 

社会面でも、AIは雇用の喪失を生むなどの懸念がなされている。しかし、もはや、AIはアートの分野をも含むあらゆる分野に入り込んでいくであろうことは否定できないように思われる。人間が車社会を受け入れてきたように、AI社会を前提に法、教育などを整備していくことが肝要となる。

 

上記はまるで評論家のコメントのようで面白みがないが、実は個人的にAIの導入先として推奨したい組織がある。それが行政機関である。ここで話は頭に戻る。先ずAIの能力を生かせるのは行政機関ではないかという発想があり、それが「ホンキイ・トンク」の思い起こしへと繋がったのである。

 

昨今の国会質疑、官僚・地方行政の不祥事などを見るにつけ、いっそAIを中心に据えたシステムにオマカセしては、という思いが沸き出してきてしまったのである。今や、筒井康隆がSF(妄想)した時代に比べれば、AIは使えるテクノロジーに進化した。ただ、これにより多くの議員、役人が職を失うことになるので抵抗も大きいことが想定されるのだが。

 

AIは民間にも入り込んでいくことは間違いないが、メガAIシステムの開発を目途に、一躍行政と民間が一体になってシステムの開発を目指してはどうか。行政は前例、コンプライアンスなどに重きが置かれるので業務のコンピューター化(アルゴリズム化)に向いていると思う。もっとも行政には大岡裁き的側面も必要になるかもしれないので、五大老ぐらいは残しておいた方がいいかもしれない。

 

それにしても、AIは認知科学そのものであると言えるような対象であり、齢七十のじぶんにも充分に刺激的である。晴耕雨読、悠々自適などの老後の生活を喩える表現があるが、じぶんにはほど遠く、むしろ余生もAIに頼るような生活になってしまうのだろうかなどと思いを巡らせる。

銀幕のスターは永遠か?

  • 2017.07.30 Sunday
  • 21:11

今週は、GyaOで無料の映画二本を観た。『AVIATOR』と『FLYBOYS』だ。簡単にヒコーキものに惹かれてしまったということだ。『AVIATOR』はリリースされた頃の記憶はあるのだが『FLYBOYS』は曖昧だ。どちらも事実を基にした作品ということで、やはり商業映画なのでロマンスを抜くことは出来ないにしても、個人的には全体の中に占める割合がもうちょっと少ないほうが良いのではと思ってしまう。何故って、現実はハードボイルドだど〜!!

 

 

映画に詳しくはないのだが、アカデミー賞に主演、助演の賞があるように、登場人物の人となりを表現するのが映画の大事な手法になっていると考える。銀幕のスターを活かすという営業上の理由があるのかもしれないが、しかし、じぶんの好みから言えば、時によるが、直接的な人物描写はある範囲に抑えた方が良いのではと思っている。そういう意味では、アニメの作風の方がじぶんの好みかもしれない。

 

事実を基にとは言え、ぶっちゃけ数年分を二時間程度で表現するわけだからドラマティックにならざるを得ない。しかし、それで物語が事実と大きく乖離したものになるとは言えない。一方で、じぶんは事実(真実)というものが存在するのかどうかさえ妖しいと思っている。あるとしたら、それは ” 神のみぞ知る ” ということなのだと考える。それはもう宗教の世界である。

 

同じテーマで別の制作スタッフが映画を作ったとして、全く異なるテイストの作品になる可能性がある。そこでどっちが真実に近いかなどと論じてみても意味がないだろう。特に人物の内面描写となれば、それは事実というより、もうアートだ。よって、事実に基づく映画では、登場人物の直接的な内面描写は抑えめにして、むしろ絵画的な表現を多くした方がいいのではとじぶんは思う。

 

ヒコーキという道具が戦争に利用されていく時代背景、技術的な葛藤、操縦士の心理などの描写をメインにして、その中から登場人物の人となりが醸し出されるような作風が良いと思うのである。ヒーローよりもヒコーキを主役に。と言っても、これは好みが関わってくるので議論には向かないテーマだ。

 

議論に向かないと言えば、現国会が熱中している学園騒動も議論には向かないのではないか。政策に関わった政治家、官僚等の内面を議論しようとしているようで、それは国会の議論のテーマには向かないと思う。殺人を妄想しながら現実に普通の生活をしている人物と、妄想は無いのだがふとした事から殺人を犯してしまった人物がいた場合、社会として後者の責任を問うというのが取り敢えず現行のルールである。

 

公的な政策に関しても、公式の手順に沿っているか、公式記録に矛盾があるか否かしか問えないのではないか。関係者の内面にまで入っていくと、それはドラマ(アート)もしくは宗教の世界に立ち入ってしまうことになる。そういうことは映画に任せておけばいいということだ。政界に銀幕スターは要らない。

 

閑話休題。

 

それにしても、何故に、特に実写版映画の中でこうも男女の性愛描写が強調されるのだろうか。人間の三大欲求として「食欲」「睡眠欲」「性欲」があげられるが、映画の中では「性欲」(性愛)が別格な存在として捉えられているようだ。これは心理学上のテーマなのかもしれないが、LGBTなど性が複雑化する現社会においては、もはや安易な男女性愛描写は要検討の命題になっているのではないだろうか(?)。

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